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Enactment Emergence Embodiment

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Enactment Emergence Embodiment
認知運動療法フォーラム
うこ
第6回認知運動療法フォーラム
Enactment Emergence Embodiment
鼎談者 安藤 努・小鶴 誠・園田義顕
身体の意味性
との内容だけではなく、
「どうしてこういうふう
に言葉が話せるのか?」とか、
「どうして触った
園田 はじめる前に「フォーラム」の位置づけについて
時にこんな感じがするんだろうか?」などという
少し説明を加えておきたいと思います。これは研
ことを、哲学的な要素まで含んで話をするような
究会の中で新しく始まったプロジェクトのひと
時間は、今までコース以外の時間にあったわけで
つで、通常はベーシックコースやアドバンスコー
す。つまりそのような話はあまり表に出ることが
ス、マスターコース、アカデミアコースという段
ない。そこで、こういう「フォーラム」という形
階的なコース設定をしていて、その内容は基本的
をとって、あたかもカフェにいるようなとか、ち
に講義と実技になっています。つまり、非常に臨
ょっと飲みの場にいるような、そういうフランク
床に直結した形で可能な限り系統立てて知識や
な雰囲気で日常会話をしている。日常会話をして
技術を共有しようとするものです。自分達は患者
さんをみていて、様々な臨床的意思決定あるいは
判断なんかをしていくわけですが、普段は医学的
知識や様々なリハビリテーション理論を通して
そのような判断をしています。認知理論や臨床の
方法などを通して患者さんをみていくために系
統立てて話す必要が出てくるのでコースが設定
してあるわけです。しかし、ひとの身体について
あるいは運動についてそもそもそれらは何なの
かということ、つまり理論を支える背景となって
いるような身体論や科学哲学あるいは神経学的
知見の解釈などはコースではなかなか語ること
ができないわけです。そうすると、どういうとこ
ろで話しているかというと、例えば飲みの席で話
したりとか、ちょっとコーヒーでも飲みながら話
をしたりとか、臨床であればちょっと昼飯を食べ
ながら話をしたりとか、訓練の方法がどうとかい
1
安藤 努(あんどう つとむ)
プロフィール
高知県出身。理学療法士。日本認知運動療法研究会会員。高知医療学
院理学療法学科卒。高知医療学院理学療法学科勤務を経て、現在、医
療法人文佑会原病院リハビリテーション科勤務。
認知運動療法フォーラム
いるんだけれども、その内容は常に、身体のこと
園田 一応、
「Enactment
Emergence
Embodiment」と
であったり、患者のことであったり、リハビリテ
いうテーマは結構、悩んで付けているんですけど、
ーションのことであったり、そういう自分たちの
これの意味であるとか、そういうのは話をしてい
仕事としているものに、関わりのある内容、ある
く中で出てくればと思います。それでは話しを展
いはその背景を日常会話的に話していくという
開していきましょう。まず、自分たちが患者さん
のが、フォーラムの位置づけになっているんです。
をみているというときに、医療者としてみている
ですので、聴いている側の先生方も力を抜いて、
し、例えば、理学療法士としてみる、作業療法士
自分達もそういう雰囲気の中にいるようにして、
としてみる、言語聴覚士としてみる、音楽療法士
講義を聞くようなスタイルじゃなく、
「それにつ
としてみる・・・というように、何か自分の職業
いてはこうじゃないの?」と、それぞれが自分の
あるいはその知識を通してみてる。そのときに、
考えを巡らせながら、一緒にこの場を作れたらい
医者でも看護師でも、みんな何を考えているかと
いかなと思います。
いうと、
「良くしたい」と考えているわけですね。
安藤 ということで、フランクにいきましょう。場所は
「患者さんを良くしたい、患者さんを回復させた
福岡ですけれど、あたかもサンジェルマンかモン
い、今よりも良い状態にしたい」これは何々療法
マルトル近くのカフェでたまたま店に居合わせ
とかっていうのは、全く無関係にみんな共通して、
て・・・という設定で参りましょう。先程も少し
セラピストと名乗っている以上、医師と名乗って
話がありましたが、話を聞くとか、何かの知識と
いる以上、みんな良くしたいと考えているのは基
して持って帰るということじゃなくて、ちょっと
本的に間違いない。そしたら、みんな良くしよう
一緒に考えるというか、思考するということでや
と考えているんだから、何々療法だろうがいいじ
らせていただきます。全く打ち合わせも何もして
いないので、話がどこにどう向かうのか分かりま
せん。でも、実はそういう狙いもあります。この
フ ォ ー ラ ム は 「 Enactment
Emergence
Embodiment」と非常に大変なタイトルを付けたん
ですけど、話が終わった時に少なからず「う~ん」
と腑に落ちるものがあったと思えるような話が
出来ればと思います。それでは、皆さんも一緒に
参加して下さい。
小鶴 あの、打ち合わせしたんですよ。最初は立って話
し始めようって。いきなり座ったけど。打ち合わ
せと言っても、本当に内容についての打ち合わせ
はせずに、決まったことが椅子はラウンドで並べ
ようということだけで、内容についてはこれが日
常会話であるんであれば、事前に準備をするとい
うのは、むしろおかしいだろ、みたいな話になっ
て結局、椅子を円形にするのを決めただけ。
小鶴 誠(こづる まこと)
プロフィール
福岡県嘉穂郡(現飯塚市)出身。理学療法士。日本認知運動療法研究
会理事。長崎リハビリテーション学院卒。原病院、八女リハビリ病院
勤務を経て、現在、医療法人社団医王会 朝倉健生病院リハビリテー
ション科に勤務。
2
認知運動療法フォーラム
ゃないか、という話になってきますよね。みんな
「Emergence 」を外して、「
Enactment
」
良くしたいわけだから。だけど、リハビリテーシ
「 Embodiment 」のEn-、Em-というのは、
ョンの文脈で言えば、いろんな治療手技っていう
「何々の中に、中に含まれる、中に含む、入れる」
のも、もちろんそうやって考え出されたものでは
という意味で「 Enactment
あるし、行なわれているものでもあるし、その意
の形にする節、真ん中が、結局、動詞になってい
味で否定する必要はないものではあるんだけど、
る。
「act」
「body」という言葉はもう最初から身
その「良い」の指標みたいなものが、基本的には
体性を帯びた言葉ですね。そこで「身体」ってい
量的な側面になっていると思うんですね。少し角
う言葉は非常にいろんな意味を含むのですが、
度が良くなった、少し筋力が上がった、少し歩く
「身体」ということを考える時に、とても漠然と
のが速くなった、とかっていうような量的な側面
した質問ですが、どんなイメージを持ちますか?
っていうのが変わったというのを、良くなってい
小鶴 「私の」が接頭語に付く。僕の身体ですね。自分
るパラメータにして、いろんなパスが出来たりと
の体があるので、いろんな対象に向かっていくこ
いうのが、医学の現状として背景にあると思うん
とができる。その基準になっていくようなもの、
です。その意味で良くしようとしている医療者全
私の・・・というような場合は、ちょっと精神的
般の考えは「良いんだ」ということになってしま
な意味も含むかもしれませんけど、単純に体だけ
う。
はありえないので。ただの肉の塊ですからね。
」の-ment は名詞
小鶴 そうですね。
でも人が良くなったり、
回復したり、
安藤 その肉の塊に何が付与されたら、真の身体になる
変化をしたり、それは何を良くするのか、何を
という考えですか?それはそこに精神が乗っか
回復させるのか、何をもって良しとするのか、と
れば、ということですか?
いうような、そういう人間に対する見方の部分、
これが量的側面だけでいいのだろうか?もしく
はむしろ、真逆のことが本質的に向かわないとい
けないというところなんじゃないか?という疑
問が出てくる。その意味では、そもそも人間の見
方みたいなものが違えば、良くなるというものの
パラメータというのも違うはずなんですね。その
身体に対する視座と言うか、見方、その方法論と
言う意味の見方じゃなくて、どういうふうに体と
いうものをみれば、体というか、
「私」というの
もそうなんですけど、患者さんに対する治療とい
うものが変わっていくのか。あるいは患者さんが
本質的な意味で良くなるというのはどういうこ
とを言えばいいのか、といったことを考えないと
Emergence
Embodiment 」こ
れらは丁度、韻を踏んでいて、Eが並んでいます。
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プロフィール
宮崎県出身。理学療法士。日本認知運動療法研究会監事。高知医療学
院卒。医療法人文祐会原病院リハビリテーション科勤務を経て、現在、
いけないと思う。
安藤 「 Enactment
園田 義顕(そのだ よしあき)
高知医療学院理学療法学科に勤務。
認知運動療法フォーラム
小鶴 それは、そうなるなぁ・・・。
式と言われるような、自分が自分の身体はこうで
安藤 単なる肉の塊だという身体は、そこにはそのいわ
あるはずであるという無意識のスキーマみたい
ゆるそれは精神をとっぱらった肉の塊だという
なものが変容してしまう、というか、三人称とず
ことですか?
れてくる。これがそのまま症状として出てきて、
小鶴 そうですね。
日常生活にも支障を来たすということはよくあ
園田 昔、デカルト(註1)が心身二元論といって、身
るわけですね。片麻痺患者でも目に見える身体と
体と心というのがいったん別にあるんだと言っ
精神の乖離もしくはずれというのは起こってい
て、現在では基本的に否定されて、心身は一元論、
る可能性が高いですよね。
要は心と体というのは同じである、というような
園田 人の体というときに、いわゆる一人称的身体とい
考えがでてきてる。けれど、直感的に考えると物
うのと三人称的身体というのは、おおよそ、一致
理的なその肉体というもの、神経細胞とかそうい
しているときは、動きであるとか、行動であると
った物化できるもの、もしくは、目に見えるもの
か、行為であるとかっていうのが、そんなにおか
というのは、身体として指し示すことが出来るけ
しくないわけですよね。だけど、運動障害もしく
ど、心であるとか感情であるとかっていうものは、
は精神障害と呼ばれるような場合というのは、そ
物質として指し示すことが出来ないから、直感的
こに何か不一致があるように思えるわけです。
にはいったん二元論をどうしてもとってしまう。
小鶴 そのときの一人称と三人称というのは、
いわゆる、
ヴァレラ(註2)はさらに二元的でも一元的でも
それがあんまりずれがないのが、normal という
ないと、つまり、物理的身体観だけでなく生きら
か、普通に生活しているという、健常人とかそう
れる身体観。言い換えれば、
「外側」と「内側」
いう意味に当てはめていいんでしょうか?
を合わせ持つ、生物学的であると同時に現象学的
園田 三人称的自分というのと、一人称的自分というの
な身体観に回帰すべきだと言ってる。むしろその
は、ある程度、操作可能で、例えば、笑顔で相手
心であるとか、感情っていうものが、身体を背景
とやり取りをしている時に、一人称的というか、
に、もしくは身体を持っているからこそ、同時発
非常に主体感覚としては、ものすごく不快である
生するような考え方をしないといけないという
にも関わらず、外から見たら快であるような表情
ことになりますね。唯我論でも表象論でもなくそ
を作ったりすることができる。
の緊張関係を保ち続けているような、あるいはそ
小鶴 うん、できますね。
の循環のプロセスであるような。でも患者さんを
園田 だからそういうふうに、三人称と一人称をわざと
みていると、心と体が乖離してるんじゃないか?
ずらすことは、操作として出来ることだと思うけ
というような現象って結構ありますよね。
ど。単に日常生活をしてるという場面では、操作
小鶴 症状というか、例えば、一般的に言われるのが、
可能であるけれども、それは一致してるから逆に
phantom limb(幻肢)
(註3)ってありますよね。
ずらすこともできる。それが一致させることが出
これは、物質としての身体は、誰からみたって、
来ないような状態というのは、ある意味ではひと
足がないとか手がないという状態であるにも関
つの目に見えない障害というか、症状として捉え
わらず、本人はそれがあるように感じている。こ
ないといけないんじゃないかなと思うんですね。
れも三人称的身体と一人称のずれが生じている
小鶴 今の話の中で言うとしたら、今すごく辛いのに、
場面であるし、他にも余剰幻肢なんかも身体の図
顔は笑っている、という状態を認識する自分がも
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認知運動療法フォーラム
う一人出てこないといけないでしょ?自分を見
たり舐めたりした時には、自分の足を触った時と
てる自分がいないと・・・。自分の笑顔と、不快な
は、違うことが起きるということに、きっと後で
自分とを同時に見てないといけないよね。もうひ
気が付くわけでしょう。自分の足を舐めた時には
とつ、人称が出てこないといけない。
自分の足にも口にも同時にある感覚が生じる。と
園田 そういうメタ構造(註3)をとってますよね。最
ころが自分ではないものの場合には、自分の口に
初に、身体にどんなイメージを持つかと言ったと
は生じるが、当然、ベッド柵にはない。つまり自
き、
「私の」というのが最初に付くと。けど、も
分には生じるけども、相手には生じない。そこで
ともと、その自分達が生まれてきた瞬間、身体を
初めて自分ではないものを自分に先立って認識
持って生まれてくるわけだけど、私っていう感覚、
する。そして次に自分の認識が立つんでしょうね。
これが私の体である、とか、私の体がどうなって
小鶴 すごく分かりやすい例えで言ったら、指吸いとか
る、こうなってるっていうときの、
「私」という
でも、吸うと、吸う感覚と同時に吸われる感覚が
人称はないと思うんですよね。つまり、最初の段
生じるけど、柵とかを吸っても、吸う感覚のみは
階では、私というのが先立つんじゃなくて、もっ
あるけど、吸われる感覚はない。そこで何か違う
と純粋というか、それが何であるかとか、どうで
ものという認識が結局生まれるというようなこ
あるかとか、誰のものであるか、という以前に、
とですね。
生み落とされて重力を受けたりとか、何かに接触
安藤 おそらく、そうだと思いますね。残念ながら、そ
をしたりとか、そういうものがもう勝手に起こっ
の時の記憶が自分にないので、よく分からないで
てしまう。その時点というのは、非人称。人称が
すけれども。
ない、
「私の」がない、純粋な身体がそこにある
小鶴 どう思ったかは記述できない。
だけ、みたいな状態があって、次に、他者を認め
園田 非人称というのは、発達期だけに限らず成人でも
ることが同時に私を発生させることだ、というふ
起きている状態だと思うんですね。通常生まれて
うに考えられています。私が先行するわけじゃな
すぐは人称がない。ただ単純に何かに向かってい
い。むしろ、他者が先行する。
るときというのは、非人称の形式で、純粋に経験
安藤 間主観性とか、間身体性(註4)ということを言
をしていて、それをメタ構造をとって、そこで起
っている先人もいますね。主体、主観っていうの
こっている感覚、情動的な部分を感じつつ経験し
を先に立てるんじゃなくて、もっと同時発生的に、
ているときは一人称的で、さらに自分が今、何を
他者というのを認める瞬間に自分というのが生
しているかというのを、意識してやっているとき
まれるような図式を作らないといけない。先に自
には、三人称になる。ただ単に体験しているとき
分があるんだったら、間主観的世界っていうのは
には非人称で、そこに他者という存在が入る。例
ないことになってしまうから。それ以前はやっぱ
えば、こういうふうに話しているときというのは、
り、非人称の状態というのがあると考えないとい
そこにある言葉であるとか、その動きであるとか
けないということでしょう。子供の発達がまさに
っていうのは、常に自分がやっている行動なんだ
そうですね。例えば赤ちゃんがよく自分の足を持
けど、その他者に投影すると言うか、相手が理解
ったり、舐めたりしますね。そして今度は自分で
するかどうかは分かんないんだけど、伝えようと
はないもの、例えばカラカラと回っているおもち
したりする。これは他者の存在を認めているから、
ゃやベビーベッドの柵であったり、それらを触っ
自分がそうしてるわけで、逆に、先に自分という
5
認知運動療法フォーラム
のを先行させたら、伝えるという手段をとらない
あって、内臓があって、神経系があって、といっ
はず。こんな社会的な意味を含んだ世界というの
た物理的類似性という基盤があるから、それが環
は、何かがなかった状態から生まれるというか、
境と相互的な関わりをしようとすると、感じ方が
それは全部自分の身体を通して生まれてきてる
近似してくる。そうすると環境世界とか、言葉と
ものである、というように考えられるわけですよ
かの意味の部分が共有されていくのかなと思い
ね。それがメルロ・ポンティ(註5)が言ってる
ます。
ような間身体性であるとか、間主観性であるかと
安藤 少し確認させてほしいのは、さっき言ったのは、
思うんですけど。間主観性って、
例えば、私と世界、私と環境という、必ずしも今
intersubjectivity ( 相 互 主 観 性 ) 、
の文脈でいけば二項の関係ではないわけですよ
intercorporality(相互身体性)といって、訳が
ね。ただ一項でもないわけですよね。これはその
そもそも相互的であるといえるわけです。相互身
ちょっと手前の話に戻れば、ある意味、一人称で
体性ということは、例えば、自分が動いてる時と
も三人称でもない世界というものが、という関係
いうのは、いつも環境世界とまさに相互作用をし
性というか、関わって関係ができるという、そう
ているわけで、自分がこう動けば、世界はこう返
いう、初めから関わる前から関係があるのではな
してくる。自分がこう話せば、世界はこう返して
くて、関わることによって関係が生まれる、きっ
くるというような、自分以外の他者を含めて環境
と、そういうことだと思うのですが。
とすれば、常にそういうものと相互的に関係して
園田 ここにコーヒーカップがある。これは今、誰が見
る。だから、どっちかが存在する、要は、世界が
たって、カップがあるじゃないかと思うんだけど、
先に存在して、そこに自分というものがあるとか
このカップがどうやってカップとして存在して
ということじゃなくて、もっと相互的に発生して
いるのかというと、例えば、これは持つことが出
るというふうに考えられる。そしたら、自分が環
来るし、飲むことが出来るし、投げつけることが
境に対しても何かに向かっていくし、向かえば環
出来るし、という、自分の身体を介して、ここに
境は、例えば、こういう見せ方をするし、こうい
これをカップと認めているという身体性がある。
う床からの反力があるし、重力があるし、といい
環境世界というのは、それが床であるかどうかは、
たものを返してくる。それが他者になった時にも、
体を支えられるのかどうかに関わっているし、光
結局、自分というものがあって他者があってとか
というのは自分が何かを見ることというのを支
いうのではなくて、もっと、同時発生的に相互的
えている。そうやって身体を常に介しているから、
な主観の関係が出来た時に、これは床であるとか、
結局、そこに言葉の意味の共通性であるとか、動
これは椅子であるとかというような、物体の意味、
きの共通性であるというのを見出せるんだと思
言葉の意味というのが、共有できるのかなと。だ
うんですよ。この身体のおおよその共通性という
から、言葉が共有できるのも、原理的にはこの環
のは、みんな身長が違ったり、肩幅が違ったり、
境が共有できるのと同じことだと思うんですよ。
体重が違ったりとか、それぞれ違いは当然あるん
どうしてこんな風に共有するってことができる
だけれど、基本的に、手があり、足があり、体幹
んでしょうかね。
があり、耳があり。それが接触すれば何かを感じ
小鶴 それは身体がおおよそ同じだからだと思いますね。
おおよそこういう肉体があって、眼があって耳が
るし、しゃべれば誰かがリアクションするしとい
うような、この世界を共有しているというのが、
6
認知運動療法フォーラム
この身体を通してなんだという視点に、まず立た
が起こるのは、どうしてなのかを議論すれば、人
ないと量的側面ばかりに目が向いて、本来あるは
の見方が変わるわけだから、ちょっと大雑把に言
ずの意味の領域を見逃してしまうと思うんです。
えば、訓練が変わる。要は視点の問題なんじゃな
そう考えると、部分的に共有できない場面という
いかということですよね。
のが、患者さんなんじゃないかと思えるわけです。
例えば、失語症の患者さんだったら、こちらの言
身体化された心
葉を共有できない。単純に、何かの言葉を言った
時に、それがそのまま共有されるものでない場面
安藤 自分のことですが、実はついこの間、末梢性の顔
というのがあって、逆に例えば、今、話している
面神経麻痺に罹ったんです。カフカ(註6)じゃ
ような内容が、人によっては、意味として共有で
ないけど、ある朝、気が付いたら右側の顔面神経
きない可能性だって十分にある。運動性の変容が
麻痺になっていて、ウィルス性でしたけれど、中
起きたときというのは、その身体を通して、つま
等度の顔面神経麻痺になりました。これは甚だ具
り、知覚の仕方が変わることによって、もしくは、
合が悪いものですね。それで非常に慌てたんです
知覚の意味づけが変わることによって、あるいは
けれどもすぐにステロイドや、その他何種類もの
それが出来ないことによって、世界の現れ方とか、
投薬を受けて、
「さあリハビリテーションはどう
意味の変容が起こるんじゃないかと。それが、患
しよう」と思ったんです。実は結論から言えば、
者さんのひとつの状態として捉えないといけな
「何もしなかった」んですが、この何もしなかった
いんじゃないかな。
というのは、いわゆる残存した筋を自分で自動運
小鶴 量的側面をみているときというのは、歩けないと
動するとか、動いてないところに低周波通電する
いう現象があるから、歩くという現象を起こすし、
ということをしなかったという意味です。
動かないという状態を見れば、動かすという行動
顔面神経麻痺では、神経再生が起こってきた時に
を自分たちはしようとする。だけど、それは、そ
misdirection(過誤支配)が起こってくる。それ
ういう身体の見方をしているからであって、どう
で共同運動が出てくる。末梢性顔面神経麻痺の患
して、自分達がこういう世界を共有できたりとか、
者さんには、目を閉じたら一緒に口角が動いたり
言葉を共有できたりとかするのかというのを抜
する共同運動が高率に診られて、実はこれが非常
きに身体を見るから、そんなことが起こるのだと
に長引くし厄介です。だからそうならないように
思う。自分達が意味の共有ができるのは身体があ
ということに注意しました。そこで何をやったか
るからだっていうのはわかってきたんだけど、そ
というと、頭の中で運動感覚や皮膚感覚だけ、つ
れはどうしてなのか、どうやってそれが共有され
まりキネステーゼだけを考えて、異常な感覚が起
るのかを考えないといけない。だから治療方法と
こらないようにということだけに気をつけた。そ
して、歩行訓練で、ただ歩かすのがいけないとか
れを外から見たら、何もしてないということにな
いいとか、という議論をしても、全然、説明にな
るわけですね。もちろん投薬の治療効果もあった
っていないんだけど。人の見方というものを、こ
と思うんですけれど、完全に治りました。約2週
ういうふうに人は意味を共有してるんだとか、言
間くらいですね。全く違和感がなくなるまでで言
葉を共有してるんだとか。椅子があれば、そこに
えば結局1 ヶ月くらいでしょうか。
完全に治った。
みんな座ろうとするとかいうような、行動の共有
よく力も入るし、しっかり笑えるし泣けるし。だ
7
認知運動療法フォーラム
から外から見たら何もしなかったというその裏
の状態になった時には本当に褥瘡ができるまで
側では、注意を向けていく先、つまり今、どこに、
動かない。これなんかは先程の一般的な麻痺の考
何に向かって、どういう志向性を持って、何に気
え方からすれば、麻痺ではないことになる。つま
をつけるのか、何に注意を向けるのかということ
り運動器系を直接的に動かしている神経系に問
を一所懸命やりました。これは例えば、患者さん
題があるから、これを麻痺だとするという視点で
の麻痺を捉える時に、こちらの視点もそうですが、
は、もうとても人の体というのは理解出来なくな
患者さん自身の志向性も、どこに向かうのか、向
る。人はそれほどシンプルではないわけです。精
けさせるのかという、そういう視座に基づく身体
神科では投薬で脳内 chemical balance の問題を
観をしっかりと持っておかないといけないとい
解決していきますね。そしてまた同時に治療者の
うことを再確認出来ました。つまり麻痺というこ
言語であったり、その介入の仕方であったり、つ
との考え方もそうですけど、動かないから麻痺な
まり患者さんとの互いのやりとりの結果として
んだ、動きが悪いから麻痺なんだ、と従来の医学
動きが良くなった場合には、結局は脳内の
の本にも、現時点でもそんなふうに書いています
chemical balanceが変わっているはずなんですね。
が、その捉え方はコアな意味で言えば、やはりア
麻痺やそしてどのように動くかという問題をそ
バウトな感じがします。
「動かないということは
ういうところまで裾野を広げて考えることは大
どういうことであるのか?」ということを考え続
事な視点だということですね。
ける。この視点は自分の経験も踏まえてですが、
極めて大事だと思います。
園田 eating disorder(摂食障害)の中でも拒食症、過
食症というのがありますよね。その症状というの
小鶴 動かないから麻痺だといって、すごく安易に患者
を、色々分析されているんですが、これらの原因
さんに「動きますか?」というような事をつい言
のひとつがボディイメージの問題だという考え
ってしまう。そうすると、患者さんは動くことが
があります。拒食症の人で、炭水化物をちょっと
良いと捉えるから、動けばいいんだったら思い切
摂る。そうすると、ものすごく自分が太ったよう
り強く動こうとする意図を発動させる。結果とし
な感じがするというんですね。炭水化物を摂った
て反射的なパターンが出現する。そこが結局、動
からといって、自分の体のサイズが即座に変わる
くことが当たり前にあるという前提があるから、
ことなんかないはずなのに、非常にその瞬間に、
そういう聞き方に、ついなってしまうような気が
自分がちょっと太った気がするという自分の体
しますね。頭の中で動かすことが出来ますか?と
の感覚になったりする。通常ボディイメージとい
か、問い方は他の可能性もあるのに。そういう単
うのは自分の体の求心情報、足底、膝、股関節と
純に「動きますか?」とそんな問い一つから、ひ
か手のひらとか、いろんなところから、求心情報
ょっとしたら臨床を見直す必要があるのかなと
が絶え間なく頭頂葉に入ってきて、それをもとに
いう気がします。
身体図式があって、意識することでボディイメー
安藤 例えば、depression (うつ)といった精神科領域
ジが感じ取られると考えられていますよね。これ
の患者さんには、いわゆる運動器系には器質的な
が実は体性感覚をもとにして存在するだけじゃ
問題はないけれども、しかし彼らはやはり部屋の
なくて、非常に心理的・社会的な要素を含んでい
隅で動かないわけです。SC(schizophrenia;
るということが分かる。心理的・社会的要素が入
統合失調症)の患者さんも、catalepsy(強硬症)
って、自分が意識した身体像というのができる、
8
認知運動療法フォーラム
ということは、これは他者を含んでいる。他者を
でしょうね。
含んで自分の身体を意識しているということだ
園田 例えば、右手で左手を組む。その時の主体はどっ
から、単純にそのスキーマのレベル。もっと無意
ちか?と問われる場合に、必ず、右手か左手を触
識のレベルでの身体像は、体性感覚をもとにして
っている、もしくは、左手が右手に触られている
いるのに、いつも自分の体を意識レベルで把握し
というように、そこで人称が常に入れ替わり、揺
ようとしたときは、他者からの投影像というのを
れ動き続けるような状態というのがある。完全に
自分の身体イメージとして捉えていることにな
固定してどちらも主体とすることは出来なくて、
る。つまり三人称的に捉えられるものと、そもそ
必ず、揺れ動くような、揺れ動けるというような
も一致しないことが有り得るということです。運
状態。何かを触れて、それが硬ければ自分の手の
動障害じゃなくて、いわゆる精神障害といわれる
柔らかさを知っているから、同時にその外の物体
範疇に入る疾患でさえ、身体の問題であるといえ
がそれよりも硬いことが分かるし、どんな力の入
るわけです。両義的に言えば、運動障害という身
れ方をすればよいかが分かるから、こんな運動が
体の問題があるときに、同時に精神の問題であり、
出来るとかいう関係性がある。そういうその環境
身体の問題があるものはある意味、精神の問題で
世界への働きかけにも、いつも身体の両義性が存
もある。心とか精神というものが身体化されてい
在してないといけないはずです。その両義的な身
る。
体があるはずなのに、リハビリテーションの中で
安藤 そうですね。精神科領域とかいう分け方自体、一
量的側面をみているときというのは、両義的な関
般的な自然科学の考え方ですね。整形外科、精神
係性というのを、ネグレクトして、主体が動いて
科・・・というふうに分かれているというのは、
いる、それで動けないから、もっとこんなふうに
医学モデルではその方が都合がいい。左片麻痺な
動けたらいい、という、身体の両義性がその一方
どに時折診られる Somatoparaphrenia(註7)と
向になっている。
いう症状の場合、自分の手を見てこれは自分が嫌
安藤 両義になっていない。
悪感を持っている他人の手であると訴えたりも
園田 そう両義になっていない。スタートがそういう両
します。そこにはソーシャルな部分がある。ソー
義的な見方をしないと、意味の交差性が起こるよ
シャルな生き物である人間ならではの病態かも
うな場面が作れない状態という解釈をすれば、そ
知れませんが、ここで敢えて身体、精神という分
れが作れるように治療の介入の仕方をしていか
け方をすれば、身体の異常を飛び越えた向こう側
ないといけないし、それがその物体との関係を、
の精神の障害というか・・・だけどもやっぱり結
そういうふうにとることができてくること自体
局はそこにある身体から逃れられない。Embodied
が、世界との関わり方が変わっていくことだから、
mind であったり、Minded body であったりする。
それが治療の目的でないといけないんだろうと
メルロ・ポンティのいうキアスム(註8)という
思うんですね。
考え方だと思います。キっていうはじまりが、chi
小鶴 そこに、いろんな社会的なバイアスがすごく入っ
ですから、χ2 検定のχ(カイ)なんですね。交
てくるから、どうしても、時間的な側面とか、量
差にかけるという意味でしょうか。まぁ、裏と表
的な側面とかいう、パラメータでどうしてもみて
というふうにいってしまうとまた変な話になっ
しまう。だけど本来、身体を扱う以上、この身体
てしまうんですけれど、両義的であるということ
の両義性というのを初めから最後まで、ずっと外
9
認知運動療法フォーラム
さないようにみていかないといけないんじゃな
れ続けているというのが、生きている状態である
いかなと思いますね。
という考えですね。この状態が本来、人がまさに
安藤 そうですね。臨床の場面で考えたら、例えばスポ
生きているとすれば、患者さんの状態というのは、
ンジの硬度、1番から5番までの硬度がある。硬
どんなふうに生きてることになるのか?という
さ、傾斜がどうであるとか、そのときに、スポン
のを考えないといけないですね。
ジは軟らかいものであって、1番から5番までの
園田 自分たちは逃れようもなく身体を生きている状態
硬度の段階がある。のではなくて段階があるとい
で、何か喜んだり悲しんだりという感情があった
うことを自分の身体が決めるわけです。ペルフェ
り、誰かを怒ってなぐるという行動も全部、身体
ッティ先生のいわれる、身体を介して意味を与え
と精神はいつも一緒にあって、身体があるからそ
る、世界に意味を与えることなんですね。そのも
う感じる事が出来る。身体をもって生まれて、こ
のに属性を作っていく。その属性は知識ではなく
の重力下にさらされて、立って、歩いて、何かに
て、この身体の経験ということですね。認知運動
触れて、話してというのを身体を介して環境と
療法の現場をみたセラピストから上がる声とし
interaction(相互作用)しながら僕らはやって
て「感覚の訓練をやってますか?」という話が
いる。その求心情報は同時に脳に入ってきます。
時々あると思うんですね。仮に接触したのが自分
そして知覚情報であったり、記憶の情報とか、感
の手であれば、接触したものの属性は、自分の手
情的な情報であったりというのが皮質でいつも
がそれに対してどうなのか?ということで、だか
マッチングして、意思決定のバイアスをかけたり
ら硬いんだ、軟らかいんだということを前意識的
しながら、ある精神の状態が生まれたり、ある行
に決めているという思考ですね。そこを外してい
動が生れたりして、身体と精神というのが同じで
なければ決して感覚の訓練をやってるとは考え
あるとしか言いようがないような、脳の情報処理
られないことなんですが、なかなか難しいようで
をしていることになるわけです。そうすると、運
す。そして意味を与えるためには、どうしなけれ
動の障害を、運動の障害とだけとらえていってし
ばならないか?敢えてデカルトでいえば「我思う
まうと、量的な訓練、見方、関わりになってくる
故に我あり」ではなくて、
「我あたう(能う)ゆ
けど、ある動きができないとか、右と左とに差が
えに我あり」ですね。能うというのは能力の能で
ある状態は、身体に対する認識といったものを含
すね。動くというくらいの意味でしょうか、実は
めて、変容しているのは可能性がある。そうみた
そっちの方がもっと近いのかも知れないですね。
ら、運動を量だけで判断できなくなってくる。こ
小鶴 感覚と運動というのも両義的ですよね。ギブソン
のときの視点というのが、運動とか、身体、精神
(註9)が、動くために知覚するし、知覚するた
というものが、
「そこにあるもの」ではなくて、
めにはまた動かなければならないとした、知覚と
むしろ「そこに生まれ続けている」というような
運動の円環性によく表れています。
取り方ができる。そこに何かが見えているのも、
安藤 まさに、その Enactment 、その act というのを考
ある情報処理をずっとし続けている脳の活動が
えると、Enactive が行動化で Enactment という
あって、身体の活動があって、神経の活動があっ
のは、その行為から産出するという意味ですけれ
て、それを見せ続けているし、ある姿勢をそのま
ども、世界とか、私とか他者といったものは、身
まとっているし、ある言葉をしゃべっている。全
体を介する行為によってのみ、その意味が産出さ
部その情報処理をいつもトップダウンとボトム
10
認知運動療法フォーラム
アップの繰り返しをいつもし続けて、いつも世界
判断材料となるし、自分たちの評価指標としてあ
を生み出し続けている。自分たちの身体と環境、
る一定のパラメーターを用いたりするのは、どち
心とかいうものの関係性があって、そこにある器
らにしても必要なのは間違いないので、それ自体
質的あるは化学的問題が生じたときに、どんなこ
はむしろ、発展的に研究されていくべきだと思う
とが起こっているのか、つまり患者さんの世界観
んです。ただ、これまで話してきたような、本来、
がどうなっているのかを評価して仮説立ててい
共有されているはずの世界を生み出すための身
くことが訓練を創造するんだと思います。
体と環境との関係がとれない状態として患者さ
小鶴 世界を生みだす能力に制限、あるいは変質をきた
んを捉えていくとすれば、介入をすべきポイント
しているのが患者さん、と考えるということです
は、数的なものに置き換えられると同時に存在し
ね。あるいは自分の身体を変化させて情報を得て,
ているはずの、一人称的な感じ方であるとか、患
その情報によってまた身体を変化させて、そして
者さんの世界観を知ろうとする必要が出てくる。
また情報を得ていくという情報性の考え方を使
これは量だけではどうしても説明できないんで、
えば、そのようにして変化させ,変化させられて
「聞く」という作業をしないといけない。つまり
いくことによって世界を変えていくという
三人称的世界と一人称的世界の中間にある言語
安藤 生きている以上アップデートする。アップかダウ
を使わざるを得ない。そうすると、サイエンスの
ンか分からないけれども、アップデートはされ続
範疇が、クラシカルなサイエンスだけではなくて、
けているわけです。生きているから、それが変質
ルリア(註10)がいうようにロマンテックサイ
された Emergence なのかもしれないけれども、生
エンスに拡大されていかないといけない。身体の
きている以上、Emergence はあるんだと思う。そ
目に見えているものだけを量りにかけるのでは
うしたとき僕たちの治療の基盤としては、やはり
なくて、それをどう感じているかといったその精
そのバックグラウンドに大きなひとつの柱とし
神の部分をある意味で量りにかけていくという
て、神経学あるいは神経科学があるんだと思うん
戦略が必要になるということです。言語という人
です。ヴァレラが神経現象学ということを言って
間特有のツールを使ってやっていくという手段
います。自分たちが今まで習ってきた神経学の範
は、なかなか可視化できないから信用しにくいと
囲を拡張して「人間の神経学」としてみていくス
いうか、簡単ではないし、人に「ほら、これがサ
タンスをもたないと、なかなか理解ができないと
イエンスだ」と見せるためには数字が変わったり、
ころだと思うんです。いろんな方法があると思い
グラフ作ったらグラフとして良くなっていると
ます。例えば、fMRI や PET などの画像診断で、起
いうデータを出した方が、確かにエビデンスとい
こっている事を可視化することは出来ても、その
うのは人に説得力はあるんですね。でもそうする
ことが、
「人が生きている」という神経学的現象
と人間の本質から逆に遠ざかっていくような、そ
とはイコールではないということも、どこかにそ
このギャップをクラシカルサイエンスだけに捕
れを括弧に入れた状態で自分たちが持って、患者
らわれずに、可視化できないもの、量的に量れな
さんと関わるということをしないといけないん
いものも、自分たちが取り扱っていかないといけ
でしょうね。
ないのかなと思う。だけど、同時にそれを何とか
園田 そうやって可視化したり、量的に置きかえてみた
量的に置き換えたりだとか、なんとか可視化でき
りというのは、例えば診断のためのツールとして
るようにする努力もしないといけない。じゃない
11
認知運動療法フォーラム
と、なにかおまじないをかけて魔法のように患者
なってて、そんな時は結果として角度としても挙
が「ほら、良くなった」みたいな。そしたら「何
がっている。その手段がだんだん取れるようにな
をしたんだ?」
、
「言葉を使ったんだ」というだけ
ってきた。僕の変化とともに、患者さんも変わっ
を言っても、それはサイエンスといえないわけだ
ていって、それは単純に角度を測ってこちら側が
から。ある仮説を立てて、それを検証するかたち
教えてあげられるというものなんだけど、その内
をとって、訓練をしたり、ある実験をしたり、で、
観が変わっていくというか、感じ取り方がうまく
その仮説と検証結果を比較していく。そしてまた
なっていく。変質した身体が変わることと、変質
仮説を組み直すというプロセスです。その方法に
した世界が変わっていくようなことにも繋がっ
関してはクラシカルでもロマンティックでも同
ているんじゃないかと感じる。こちらの主観にな
じようにやっていく必要があるものだと思うん
ってくるけど、患者さんの身体を通して、自分の
だけど、その取り扱うものが、可視化できるもの
理解が進むというか、そういう場面は結構ありま
を取り扱うのか、可視化できないものを取り扱う
すね。
のかという溝があって、そのどちらかを取らない
安藤 それは、すごく大事なことですね。セラピスト側
といけないという意味ではなく、むしろどちらも
もそうだし、患者さん側もそう。操作という言い
行き来しないといけない立ち位置にリハビリテ
方をしていいのか分かりませんが、セラピストが
ーションの分野は立脚しないといけないのかな
意識的に言語的な操作をする。例えば、一人称、
と思う。現状は発展的なクラシカルサイエンスに
三人称という患者さんの身体を、患者さんに自由
どんどん乗っていこうとしている流れがもちろ
に行き来させるような操作をする。さらにその行
んあるわけで、そこを、それで良しとしない。も
き来している自分を見るという視点も持たせる。
っと目に見えないものを扱うという、ちょっと面
実は、今日ここに来る前に、片麻痺の患者さんの
倒な方法も自分たちはとる覚悟がいる。
足底にスポンジを私が押し付けて、そこでどうだ、
こうだと属性をスポンジに与えるようなことを
意味はどこにあるのか
していたのですが、それはどちらかというと一人
称の世界ですが、続いて「今度は感じる事をスポ
小鶴 臨床的な経験でいうと、ほとんどみんなは患者さ
ンジ側においてみてください」
「スポンジがどの
んに角度計を当てて、
「一週間前より肩の角度が
ような形に変化をしているか」ということをイメ
10°挙がっていますね」というような手段をとる
ージとして感じられるかと問うたんですが、全く
と思う。そうした時にも患者さんは納得はする。
そこには行けないんですね。自分達は、スポンジ
「あ、やっぱり 10°挙がったか」と。その 10°
を踏みつけた時に、踏みつける自分のこの身体、
というのはすごく分かりやすい。ですが、その時
皮膚の内側とでもいうんですか、そちら側に意識
の、挙がった気持ち良さとか、その時の「あ、な
は持っていきやすい。けれども踏まれているスポ
んかつっかえが取れた」とかいうようなことは全
ンジ、これは人称ではないんですけども、そちら
く無視されてた。数字というものは相手を納得さ
側に意識を持っていくことも、可能なわけですね。
せるのに強い威力が確かにある。ですが、今だと
「どういう風に変形しているのだろう」と。私の
先に「今日、なんかいい」
「今日、なんかいい感
身体を介するんですから、この身体から出ること
じ」と、患者さんの方から言ってくることが多く
はないにもかかわらず、意識の中では向こうに行
12
認知運動療法フォーラム
けるわけですね。こういった意識の往来を、そし
園田 これは言い方の問題ですが、意味を「取り出す」
てそんな視座に立っている自分を見るというこ
と捉えてしまうと、外の属性、例えば床のこの硬
とを含めて言語的に操作する。そういうことがと
さが分かりますかと言うことを患者さんに問う
ても大事なんだと思います。
のは感覚統合訓練と同じ。そうではなくて、この
小鶴 どのように意識していますか、どう感じています
感じをどうやって感じているのか、どういう風に
かと聞いた時に、
「ちょっと重たい」とか、
「指が
感じているのかが問題。ということは、これはや
何cmぐらい開いている」とか、
「踵に圧を感じ
っぱり Intentionality(志向性)
(註 11)の問題
る」ということを言われる方もいれば、
「全然分
で、こういう行為の中に、どんな志向性をどれだ
からない」という人もいると思うけど、その時に
け向けれるかというか、それは数の問題でもある
結局セラピスト側がその動き一つから、意味をど
し、それの内容の問題でもある。これが勘違いさ
のくらい取り出せるかが、治療をしていく時の一
れてはいけないのが、
“元々この属性があって”
つのキーだと思います。僕たちが一つの見方しか
となってしまうと、それだったら、片麻痺の患者
出来なかったら、患者さんは何にどう気付けばい
さんの、例えば、柔らかいものを触ったときに、
いか分からない。複数の意味を取り出すのはまず
柔らかいと感じるのは当たり前だとなってしま
はこちらの仕事で、それをヒントとして、相互的
う。だけど、それをそのような志向性を向けるた
なやりとりをすることで初めて患者さんが掴め
めには、手は、例えば中手指節間関節が柔らかく
るところや、とっかかりがあるような気がします。
ないといけないという、自分の構造的な、身体の
安藤 そういう意味ではセラピスト側のそういう思考の
トレーニングが必要ですね。
ある状態がその感じ方をさせるわけだから。
小鶴 そういう意味では、
意味を取り出すというよりは、
小鶴 そう思います。
その身体で意味を貼り付けていかないといけな
安藤 それから自分の内観を覗き込むというような、そ
い。床が硬いという感じは足底の圧とかそこから
ういうトレーニングを日頃からやり続けないと
返ってくる反力から生まれるわけだから、そこの
いけないのかもしれない。よく自分で言ってハッ
感じ方を「これは硬い」という感じをどんな風に
とするんですけど、患者さんに「どんな風に感じ
感じたか、それを自分達が感じたように感じてい
ますか」と問いかけながら、自分には実は問いか
ないのであれば、そこに、このように体重をかけ
けていない所があるというか。患者さんにだけ難
ることは出来ないはずだと考えないといけない。
しいことを要求している可能性がある。
そこが、自分達が共有しないといけないところと、
小鶴 硬度の識別でも、どう感じますかと聞いた時、必
逆にそこの差を僕らも見つけてあげないといけ
ず硬いか柔らかいかの答えを当然のごとく僕た
ないし、患者さんも自分で気づくことができるよ
ちは想定する。そしてそれしか想定していないよ
うに仕向けていかないといけない。この床は硬い
うなことがある。
はずでしょうとか、それじゃあ普通の動作訓練に
安藤 だから、やっぱり、いろんなことの意味を沢山持
なってしまう。
てるかどうかというのは、非常に大事な思考のト
安藤 自分たちはこの床の属性を知っていて、これは硬
レーニングですよね。それは僕らに課せられたこ
いから立てるはずなんだから立ってみて下さい
とでしょうね。きっと。それをやり続けないとい
となってしまいますね。だけど、本人が、そこに
けないんでしょう。
体重を乗せられるはずだというような、硬さの属
13
認知運動療法フォーラム
性を貼り付けれなかったら、立てるわけがない。
ている器質病変については、病前と全く同じよう
だから、自分達の仕事は、自分達が感じている志
にはならないでしょう。その場合にわたしたちが
向性の貼り付け方ができる、向け方ができる、そ
出来るのは、何を感じられて、何を感じられない
うするとこんな風に感じるというものとは違う
のか、感じるとすればどんな感じがするのかを間
感じ方をしていた場合、それは例えば、跛行であ
主観的に共有していくことだと思うんです。患者
ったり、間違った代償運動であったり、そのとき
さんにとってそれは新たな身体と出会うことが
にどんな感じ方が出来ないといけないのか、どん
可能になる方法だと思います。
な志向のあり方をすることでその感じ方が変わ
るのか。感じ方が変わるということは、それの向
「回復」の意味
かい方が変わるわけだから、それが結果として動
きが変わることであるから変化として現れてく
園田 回復という言葉がありますが、物理的に時系列で
るはずですね。これを患者さんと作っていかない
みた時に常に自分というのが生きている間中に
といけない。
進んでいるとして、ある時点で私の世界の感じ方
園田 そこが、セラピストと患者の共同作業じゃないと
に変容が起こる。そして、運動障害や高次脳の症
出来ないことなんですね。一部の整形疾患の患者
状が起こる。回復というのは元に戻るリカバリー
さんでは結構自分で気づくことができて、自分で
ということですが、だけど、自分達が世界を生み
調節できるようになる人もいる。そうすると、安
出し続けているという視点からみれば、時系列的
藤先生の顔面神経麻痺もそうかもしれないけど、
に元に戻るというのは話がおかしくなる。
自分で自分の感じ方に気づいて、自分で操作する
安藤 あり得ないですね。
ことができれば、世界の共有にまた向かっていけ
園田 そうじゃなくて、新たにまた世界との関わり方を
るから、運動性もおよそ共有できるという状態が
変えていくということだから、時系列ではやっぱ
できると思う。そもそも自分達も普段いちいち気
り進み続けていくわけです。そうすると、そこの
づきながらやっているのではなく、無意識にやっ
自分とその環境との関わり方や、自己身体内の関
ていることがほとんどですから。それが運動性の
係性、つまり志向性の在り方。それをセラピスト
変質が起こった瞬間に、要は、自分が感じていた
との関わりの中で、ある媒介するものとしての環
世界が変わってしまうわけです。そこをセラピス
境を介して変えていくことで患者さんは環境と
トと患者の関係の間に、ある環境というか、道具、
の関わり方が変わっていく。どんどん前の方に変
言語といったものを、人称と人称が離れていると
わっていくわけだから、そういう意味ではリカバ
ころに介在させて、これを共有していくような、
リーではなくて、まさに Emergence、作っていく、
そういう図式をつくる。
生み出す、という方に視点を移動しないといけな
安藤 共有ということを考えれば、永続的に器質的な感
い。前はこういう歩き方が出来ていたから、そん
覚障害があるという場合に、私が感じているクオ
な歩き方が出来るようになる。という一般論的に
リア(註 12)と患者さんが感じているクオリアを
は考え易いことですし、確かに患者さん自身がリ
本質的な意味で共有することは出来ないし、比べ
ハビリテーションに臨む時の目的性というのも
ることも出来ない。ただ唯一共有できることは、
始めは絶対そうだと思うんですよ。前のように歩
志向性の共有だと思うんですね。不可逆的になっ
きたいって、やっぱり言われますよね。前のよう
14
認知運動療法フォーラム
に生活したいと。それは別に問題じゃないし、自
分達も別にそう思う。
小鶴 そうなんだけど、身体を時間軸で言えば、すでに
持っておかないといけない。
小鶴 社会的な意味でのリハビリテーションでは、自分
達は結構きれいごとを言えるというか、
「もっと
今と一秒後というのは同じじゃない、常に違う。
こういう風に歩けるように頑張っていきましょ
みんな一秒前と一秒後は違う身体。その違う身体
う」とか、言葉も社会的になってしまう。
「今日
というのが、どんな風に違うかというのが問題で、
はいい天気ですね。
」とか、笑顔が出てきて、調
その違い方が運動性と精神性と環境との関係と
子が良かったとカルテに書いたりだとか、そうい
して、これは適切といっていいのかどうか分から
った行動も社会的になってしまう。じゃあ、誰が
ないけど、そう離れていないような形に変わって
身体を診るのかという話しになってくる。結局、
いけば、何とかそれを回復と呼ぶことが出来るの
自分達しかいないはずなのに、自分達にも社会的
かなと思います。
な医学モデルを当てはめてしまう可能性が高い
安藤 Recovery じゃなければ、
おそらく Rehabilitation
ですよね、今の状況というのは。だから、なんと
でもないのかもしれないですね。人が生きている
か、それはそれとして医療者というか医学という
この一人称の世界では物理的時間は過ぎていな
社会の中に自分達が埋め込まれている以上、部分
い。心理的時間しかないわけですから。常に「今、
的には必要かつ仕方のないことですが、身体に対
ここ」しかないわけですね。そういう意味じゃ戻
する視座みたいなものは、どんどん自分達で変え
るということじゃなくて、Habilitation(註 13)
ていくというか、勉強していってどんどん見方を
なんでしょうね。
深くしていくという作業を同時にやっていく覚
園田 社会的な意味で言えばリカバリーでいいし、リハ
ビリテーションでいいのだと思う。もとの生活、
悟みたいなものがいるというか。
安藤 やっぱり逃れようのない現実といいますか、ソー
例えば家で過ごしていたという社会的生活に戻
シャルな意味を含んで少し自虐的に言えば、その
るということだとか、仕事をしていたという社会
ことが自分達の職業の逃げ場であるかもしれな
的状況に戻るとか、そういう意味でいけばリカバ
いという部分はあると思う。一般的なリハビリテ
リーという言葉を、正に、その戻るという意味合
ーション思想では、たとえ歩けなくても車椅子で
いで全然間問題ないのかもしれない。リハビリテ
移動出来たじゃないか、というのがリハビリテー
ーションの文脈で、ハンディキャップといわれる
ションの仕事の範疇に入ってくる。我々の仕事の
ようなレベルの考え方というのは、むしろ社会的
重要な側面であると同時に、最初に戻るけれど、
なものを取り扱って、前の生活に戻していくこと
やはりもっと真摯に、身体に向かわないといけな
がリハビリテーションであると捉えていって、そ
い。というところでしょうね。勿論、その二つの
れ自体は問題ないというか、一つの解釈だと思う
視点を意識しておくことは重要だとは思います
し、実際にそうしていかないといけないことだか
が・・・
ら、超目的的な意味ではずっと把持しておかない
小鶴 結局、疾患というより身体を最終的にみて関わっ
といけない。ただ、セラピストとしての文脈では
ていくのは、多分リハビリテーション専門家だけ
それを把持しつつも、時間軸の中のリカバリーの
しかいないということになりますかね。外科的な
ない、むしろクリエイティブしかないような、身
処置は出来ないけれども、麻痺している手に立ち
体に向かわせる。そんな二重の目的性を自分達は
向かっていけるのは多分、今の医療の中ではリハ
15
認知運動療法フォーラム
ビリテーション関連職種が、最も近いところだと
小鶴 セラピストはいつも患者がどう良くなるか。例え
いうことになっているかと思いますね。
れば、今日歩けるとか歩けないということを問題
園田 本来あるはずの可能性を自分達の治療介入として
としてみている。だけど、大事なのは訓練が上手
入り込んでいく為には、学校の勉強、国家試験の
くいかないなという時に、自分に問題があるんじ
勉強っていうので、現状ちょっとベースが足りな
ゃないかと置き換えないといけない。脳梗塞にな
さ過ぎると思うんですよね。セラピストの臨床的
ったという問題があるから、訓練が進まないのは
意思決定は無意識的にでもある知識を通してな
疾患が悪いと患者さんに問題を押し付ける。それ
されているから、そうすると、どうしても身体に
は確かに問題ではあるんだけど、行為が変化しな
対する見方っていうのが、現行の医学モデルだけ
かったりとか、ある限界がみえてきてしまった時
でみてしまう。それはそれとしてほんとに絶対知
に、自分にもう少し選択肢がないだろうかとか、
っておかないといけないし、大事なことだとは思
もっと別の可能性がないかとか、考えることと選
います。だけど自分たちは知識背景のアップデー
択肢を見出せるだけの自分の知識基盤が結局な
トというか、変更というか、それを試みないとい
いと、その視点自体が生まれないわけだから。
けないし、これは終わりのない話ですが、絶対に
安藤 向かうところがなくなりますね。
それをやり続けて患者さんの可能性というのを
園田 問題の所在を一旦セラピスト側にもってきて、自
科学的な意味でも信じれるように、常にそれを模
分達がどういう見方をしているから、今こうやっ
索するスタンスを崩したらいけない。リハビリテ
て見えているんだ。もっと現象学的還元(註 14)
ーションの職種って、医療の中でもすごく患者さ
のように、色んなことをもっとカッコ入れにして
んに好かれるというか、看護婦さんだと当たり障
いく。脳梗塞というのを一旦カッコに入れて、痙
りのない話しかしないのにリハビリの先生には
性麻痺というのもカッコにいれたら、肘が曲がっ
こんな話もするっていうのはどこの病院でもあ
ているというのが残って、筋緊張亢進というのも
って、すごく信用され易い職種だと思うんです。
カッコにいれたら、どうしてこの左右差があるの
もちろんそうじゃない場面もあると思いますが、
か。そうやっていくと疑問がたくさん浮き彫りに
大方そうだと思います。それは多分、身体のこと
なってくるはずだから、そんな関係性を思考して
をみる仕事だから。非常に相手の自己というかア
いって現象をもっと直接知覚する。直接知覚する
イデンティティーに直接タッチしてくる仕事だ
と、今まで習ってきたようなものをカッコ入れし
から。非人称の身体をみて、どういう環境との関
ているわけだから、分からない事だらけになる。
わりをしているだろうかという見方をしたり、そ
この、分からない事だらけに一旦自分をもってい
れをこう感じているということは、こういう情報
った時に、調べたり人に話したりしないと解決で
の処理をしているはずだとか、例えば頭頂連合野
きない状態になるから、セラピスト自身がその状
で視覚とのマッチングができていないはずだと
態に自分を持ち込む。
か、そういう仮説を立てていく。そうしていくた
安藤 逃げ場のない状態にね。
めの知識基盤とか、仮説を立てられるだけの自分
小鶴 それがリハビリテーションの内容を変えていくき
達の能力というか、そういうものを身につけ続け
っかけになるのかなと思います。まず自分がどん
る作業、簡単に言ったら勉強をしていかないとい
な風に患者さんをみていて、何を問題として扱っ
けないと思う。
ているのかをもう一回問い直してみる。次にどん
16
認知運動療法フォーラム
な方法を使うか。サントルソの臨床で一番すごい
のか、共有していかないといけないことが実は山
と思うのは、もうすごく考えて、何でこんな風に
ほどある。Readiness(準備状態)ですね。これ
なるんだろう、何でこういう麻痺の状態なんだろ
からも勉強し続けましょう。
うと考え抜いて、方法を創っていくっていう作業
小鶴 勉強しましょう。
をしている。神経学、哲学、芸術からあらゆる身
園田 今回、
「Enactment ,Emergence ,Embodiment」とい
体に関する学問をすごくよく知っている。それに
う言葉を使ってフォーラムを行いました。それは、
他分野と思えるような領域を身体を通してみる
世界は行為によって産出されているということ
という感受性がある。だからイタリアの真似をす
と、心は身体化されているということ、そして常
ればいいという事じゃなくて、少なくとも患者さ
にその循環を通じて、ある言葉が生まれ、見えて
んにそうしていくように、自分も今と少し違う視
いるものが生まれ、動きが生まれている。その創
点を持つための勉強をする。そうやって複数の視
発の連続が生きているということで、世界はすべ
点で患者をみることが出来る自分をつくってい
て身体を介して在り続けていて、その身体を診て
く事で、結果として患者さんに対する訓練が出来
いく自分達セラピストが見方を豊に、複数の視点
るようになっていくんだと思う。
を持つようにしていくことが、臨床を変えていく
園田 身体論をキーワードに議論してきて、何か答えと
唯一の手段じゃないかと。難しいことだし、テク
いったものが出てきたのではなく、むしろ課題が
ニカルなハンドリングとかじゃないものだから、
出てきましたね。私たちセラピストがその課題に
その意味ではもっと個人個人がそういう意識を
対して問題を解決し続けることで、はじめて臨床
持つというのが重要なことじゃないだろうかと
が変わるし、患者さんが変わる。要は自分が変わ
いうことで、今日のフォーラムを締めさせて頂き
らないと患者さんは良くならないということが、
たいと思います。メルロ・ポンティの「身体はあ
リハビリテーションセラピストがこの時間を使
らゆる意味生成の根源である」という意味を噛み
って身体を語ってきて出てきたひとつの結論だ
締めながら、明日からの臨床に臨んでいきましょ
と言えるんじゃないでしょうか。
う。みなさんありがとうございました。
安藤 いいでしょう。
小鶴 えっと、最後に一つだけ。10 年後に僕たちが同じ
訓練をしていたら、何も進歩していないというこ
とですね。何かの気づきがあれば明日からでも治
療は変わる可能性はあると思います。10 年後僕は
進歩したいと思っていますので、みなさんも進歩
しましょう。自分を誤魔化さずに、
「オレってち
ょっと上手くなったかもしれない」
、
「分かって
きたかもしれない」と思う瞬間があると、すごく
嬉しいです。
安藤 そうですね。私も最近強く感じることの一つだけ
れども「動作を教えること」は出来ないとつくづ
く思います。
「動作」の手前に、解るべきという
17
(2009 年 4 月 25 日 春日クローバープラザにて)
認知運動療法フォーラム
註1 ルネ・デカルト(René Descartes ,1956 – 1650)
註5 モーリス・メルロ=ポンティ
フランス生まれの哲学者・自然哲学者・数学者で、
(Maurice Merleau-Ponty ,1908 - 1961)
「我思う、ゆえに我あり」という、哲学史上最も
フランスの哲学者で、その論考は「両義性の哲学」
有名な 命題を提示した。これは心身二元論と呼
「身体性の哲学」などと呼ばれる。また、私たち
ばれ、人間機械論を生み出した。
の身体が世界へと向かう運動性によって世界構
成の媒体として機能していることを示し、それを
註2 フランシスコ・ヴァレラ
間主観性が必ず身体レベルで成り立っていると
(Francisco Javier Varela Garcia ,1946 - 2001)
いう意味で「身体的間主観性」=「間身体性」と
チリ生まれの生物学者・認知科学者で、1970 年代
呼んだ。
初頭同じくチリ生まれのウンベルト・マトゥラー
ナとともに「オートポイエーシス理論」を提唱し
註6 フランツ・カフカ(Franz Kafka ,1883 – 1924)
た。また、身体として生きる人間の経験を脳科学
チェコ出身の作家。最もよく知られた作品に『変
の射程に含めて研究することを「神経現象学
身』がある。この作品は、ある朝目覚めると虫に
(neurophenomenology)
」と命名し、身体として
なっていた主人公が、家族の厄介者になり衰弱し
ある行為(embodied action)によって世界も心
ていく物語である。
も産出されると解釈した。
註7 ソマトパラフレニア(somatoparaphrenia)
註3 メタ(meta-)
右半球に特異性のある症状として知られる。左側
「高次な―」「超―」「―間の」「―を含んだ」
の麻痺を否認したり、気付いても深刻に捉えず無
「―の後ろの」等の意味の接頭語で、自己の認知
関心であるようにみえる(疾病無関心
を認知することをメタ認知(meta-cognition)と
anosodiaphorie)ものや、自身の麻痺を嫌悪した
いう。他に形而上学(meta-physics)
、メタ言語
り(misoplegia)
、作話的な語りをすることもあ
(meta-language)
、メタ情報(meta-date)など
る。広義の病態失認(anosognosia)のひとつの
がある。
型。
「身体図式」
「身体意識」の変容によるものと
考えられているが、未だ確実な説明仮説はない。
註4 間主観性(intersubjectivity)
現象学の始祖エトムント・フッサール(Edmund
註8 キアスム(chiasme 仏)
Gustav Albrecht Husserl ,1859 - 1938)が、私
ギリシャ文字の「Χ(カイ)
」に由来し、一般的に
たちが客観的に実在していると信じているとこ
は交叉配列を意味する。見るものと見られるもの
ろの私たちの周囲の世界が、実は私たちの意識の
が相互に可逆的に侵蝕し合っている状態。メルロ
志向作用によって構成されたものだということ
=ポンティが、
「私」も世界と同じ「肉」という
を明らかにし、世界が複数の主観によって共同で
素材で成り立っており、それだからこそ「私」と
構成しているということを「間主観性」という語
物あるいは世界とが同時に生起すると説明する
で示した。
とき、
「肉」における「私」と「あなた」
、
「私」
と「物」とが反転可能な関係をキアスムと呼んだ。
つまり対立関係にあるのではなく、一方が他方に
18
認知運動療法フォーラム
裏打ちされるかたちで両者の差異が生じるよう
る。物質である脳のニューロン活動からなぜこの
な関係のこと。
ような主観的な意識経験が生まれてくるのかと
いう謎の解明は「意識のハードプロブレム(難し
註9 ジェームズ・ジェローム・ギブソン
い問題)
」と呼ばれ、現代科学を持ってしても解
(James Jerome Gibson ,1904 - 1979)
けない。例えば人が痛みを感じるとき、脳内の電
アメリカの心理学者であり、アフォーダンス
気信号自体は、
「痛みの感触そのもの」ではなく、
(affordance)の概念を提唱して生態心理学の領
脳が特定の状態になると痛みを感じるという対
域を開拓した。アフォーダンスとはギブソンによ
応関係こそあるものの、両者は別のものである。
る造語で、環境が生態に対して提供する情報・意
クオリアとは、ここで「脳の状態」だけからは説
味のこと。
「能動的触知(active touch)
」への概
明できない「痛みの感触それ自体」にあたるもの
念転換や運動と知覚の円環性を提言した。
である。現在まで脳神経科学、認知科学、工学、
理論物理学、哲学など様々な立場から議論が続け
註 10 アレクサンドル・ロマーノヴィッチ・ルリア
(Alexander Romanovich Luria ,1902 - 1977)
られているが、なぜこのような一人称的感覚質が
生まれるのかははっきりと説明されていない。
ロシアの神経心理学者で、高次脳機能障害の病態
分析を研究の中心に据え、脳損傷後の機能回復の
註 13 ハビリテーション(Habilitation)
可能性を探究した。また「運動は認知過程の最後
新たに能力を獲得すること。先天性もしくは幼少
の鎖である」と述べ、数量化する科学(クラシカ
時からの障害児を対象とするリハビリテーショ
ル・サイエンス)ではなく「記述する科学(ロマ
ン。 成人の Re-habilitation とは、元々獲得し
ンティック・サイエンス)
」の重要性を示した。
ていた能力が一度失われ、再びその能力を獲得し
1924 年から 1934 年までは発達心理学者のヴィゴ
ていくという意味で使われる。
ツキー(Lev Semenovich Vygotsky ,1896 - 1934)
とともに子供の心理発達の研究に従事している。
註 14 現象学的還元
還元はフッサール現象学の根本的方法概念。自然
註 11 志向性(Intentionality)
なものの見方に含まれる憶見およびそれにつき
フランツ・ブレンターノ
(Franz Clemens Honoratus
まとっている暗黙の信根、その条件を吟味するた
Hermann Brentano ,1838 – 1917,オーストリア)
めに、いったんこの憶見による自然と思える確信
の心理学・哲学から、フッサールの現象学におい
を意識的にエポケーする(取り払って、判断を保
て引き継がれた意識のもつ特性のこと。すべての
留するあるいは括弧入れにする)
。この作業の繰
意識は何ものかについての意識であり、常に一定
り返しが<還元>である。
の対象に向かっていること。
註 12 クオリア(Qualia)
感覚質、質感あるいは「〜の感じ」と訳される。
あらゆる感覚経験は感覚受容器を通して知覚さ
れるが、それにはそれぞれ独特の質感が伴ってい
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