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歴史認識を踏まえたこれからの 河川技術者の役割に関する

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歴史認識を踏まえたこれからの 河川技術者の役割に関する
歴史認識を踏まえたこれからの
河川技術者の役割に関する研究
2012 年 12 月
松木
洋忠
歴史認識を踏まえたこれからの
河川技術者の役割に関する研究
2012 年 12 月
九州大学大学院工学府建設システム工学専攻
松木
洋忠
論文調査(甲)
論文提出者
松木
洋忠
論文題名
歴史認識を踏まえたこれからの
河川技術者の役割に関する研究
論文調査委員
主査 九州大学 准教授 三谷 泰浩
_________________________
副査 九州大学 教授 大塚 久哲
_________________________
副査 九州大学 教授 島谷 幸宏
_________________________
副査 九州大学 教授 塚原 健一
_________________________
歴史認識を踏まえたこれからの河川技術者の役割に関する研究
目
第 1 章 緒言
次
…………………………………………………………
1.1 現在の国土問題の認識
………………………………………
1
……………………………………
2
……………………………………………………
5
1.2 河川管理に着目した研究
1.3 研究の構成
参考文献
1
…………………………………………………………
第 2 章 遠賀川流域の河川と土地開発の変遷
……………………
7
9
2.1 遠賀川流域の古代の土木技術と土地開発
…………………
11
2.2 遠賀川流域他の古墳時代までの土地開発
…………………
24
2.3 遠賀川流域他の戦国時代までの土地開発
…………………
34
2.4 遠賀川流域における江戸時代の河川改修
…………………
49
…………………………………………………………
67
2.5 まとめ
参考文献
…………………………………………………………
第 3 章 河川管理技術の特徴とその変化
3.1 河川管理技術の特徴
参考文献
75
……………………………………
92
…………………………………………………………
103
…………………………………………………………
第 4 章 河川技術者の先駆的な取り組み
…………………………
4.1 連続水制による河川営力の活用(メコン川)
4.2 粗朶沈床による国際技術協力(ラオス)
参考文献
107
109
…………………
123
…………
133
…………………………………………………………
144
…………………………………………………………
第 5 章 これからの河川技術者の役割
5.1 研究の総括
105
………………
4.3 新たな合意形成手法による川づくり(遠賀川)
4.4 まとめ
73
…………………………………………
3.2 河川技術者の役割の変化
3.3 まとめ
…………………………
69
……………………………
……………………………………………………
5.2 土地利用と地域防災と河川技術者
5.3 これからの河川技術者の役割
145
147
147
…………………………
149
………………………………
153
第 1 章 緒言
1. 1. 現在の国土問題の認識
日本は,地震,暴風,津波,洪水といった自然災害の多い島国である.日本人は,災害を含
む自然環境を活かし,古来より国土に働きかけながら,生活を営んできた.弥生時代に稲作が
伝来してからは,全国の平野部には水田を拓いていった.江戸時代までには,水田は平野全域
に広がり,利用可能な水のほとんどすべてを利用していた.明治時代以降は,殖産興業政策に
よって商工業が成長し,全国の人口が増加した.高度経済成長期には,人口と産業が都市に集
中して生産性を高め,日本は世界有数の経済規模を持つに至った.
そのすべての過程で,土木は土地開発の主役であり,国土管理に直接関与してきた.土木は,
生命や財産を自然災害から守る努力であり,国土の恵みを経済活動や日常生活に取り込む工夫
であった.しかしながら人為的な自然改変の規模が大きくなり,速度が大きくなると,開発行
為の負の側面が顕在化してきた.開発行為の象徴である土木は,環境破壊の原因として批判さ
れる対象ともなった.
20 世紀後半からは,開発か自然保護かという,土木に深く関係する議論が日本の社会問題と
なっていた.こうした状況に土木関係者は困惑していた.その危機感は,1975(昭和 50)年の
土木学会誌に掲載された対談「日本の土木と文明 1)」に見ることができる.対談は,高橋裕土
木学会長(当時)と司馬遼太郎氏の間で行われたものである.司馬氏の発言の一部を引用する.
土木エネルギーというものがあって,それに任せるところがあるんです.技術崇高
主義というのがあるのです.生産技術に敬意を表して,これをうまく駆使すればどん
なことでもできる.そうすると思想は引っ込むという……思想がくっついてこないお
国柄といえます.
今日すでに,土木という大きな力を持ってしまっているんですが,これを一つの大
きな思想で包んでしまえるような…….これはいま初めて歴史的に受けている試練で
すから,いますぐ解決は無理でしょう.やっばり,あと五十年たってみないと.
技術の集積体が日本であり,日本歴史であろうと思うんですが,それがいま初めて
思想状況にぶつかった.必ず新しいものが,何かふしぎなものの考え方が出てきて調
和させるだろうと思いますけどね.
司馬氏は,日本の土木に思想が伴わないと指摘しながら,やや楽観的な見方を示している.
時間がかかるものの,何かふしぎなものの考え方が将来に現れると期待している.この期待へ
の回答は未だ示されておらず,現在の土木技術者に解答を求める問いかけだと考える.
1
1. 2. 河川管理に着目した研究
国土に関する社会的諸問題については,数多くの論者が意見を戦わせていたが,河川に着目
する手法が提案され,具体的な研究の端緒が開かれた.1973(昭和 48)年の富山和子氏と著書
『水と緑と土 2)』から引用する.
私はこの国土で行われてきた破壊の事業の跡をたどりながら,そのどこに誤算があ
り,誤算はどのようにして生まれたか,その秘密を探っていきたいと思う.おそらく,
その鍵は川にかくされているはずである.というのも,当面するどのような問題――
都市の緑の後退,水不足,災害,危機に瀕した農業や林業,汚染,山の破壊など,資
源,環境,災害のどの側面からアプローチしても,結局のところ私が行きついたのは
水のとらえかたであり,川とのかかわりかたの問題だったからである.
川とつねに対峙してきた日本人にとって,自然の恵みとは川が運んでくれる水と土
壌の恵みにほかならず,自然の脅威とは水害をおいて他にはなかった.長い川とのた
たかいの歴史にまったく新しいページが開かれたのは,明治中期のことである.それ
は堤防によってもたらされた.
明治二十九年河川法が制定され,「堤防万能」の旗じるしをかかげて日本の治水事
業は政府直轄のもと開始される.
「治水の革命」と呼ばれる一大方向転換であった.
このときから,新しい時代が開始される.川の上に文化を築いてきた日本人が,その
川との交わりのわずらわしさをきらって川を放棄しようと決意したときから,自然と
の関係は一変するのである.
富山氏は,国土に関する諸問題においての川の重要性を指摘した.さらに日本人の水害との
たたかいの歴史において,堤防が契機となって,自然との関係が一変したとした.その転換点
は 1896 年(明治 29 年)の河川法制定とした.
宮村忠氏は,
水害とのたたかいの歴史を分析した上で,
川とのかかわりが希薄化した要因を,
治水と水防の関係の変化に置いた.1985(昭和 60)年の宮村氏の著書『水害 3)』において以下
のように説明している.
「地域の自発的自己防衛であった「水防」の思想が影をひそめ,地域や個人を守る手
段は,すべて「治水」にゆだねてしまっている.「水防」がなくなってしまうと,ど
のようになってしまうのであろうか.
① 無防備な住民が大半を占めるようになる.河川を見る眼がなくなってしまう.
② 水害を行政の治水対策に押しつける.安全を他人まかせにする姿勢が強くなる.
③ 水害の選択がなくなる.道路の冠水程度から人命の危機に至るまでを一様に水
害として取り上げ,その防止を行政に要請するようになる.
水害を絶滅することが不可能であることは論をまたない.どのような水害から,ど
のように守られたいのかが明確にされていなければ,治水も水防も成立しない.水防
2
が消滅するに従い,水害への許容度が低下し,河川を当面の機能でしか判断できなく
なり,無防備な自治体や住民が増大することになる.
治水は水防があって成立する.どの地域を,どのようなとき,どのように守りたい
かという前提をもとに,流域全体からみてもっとも被害の少ない方法を選択する.こ
れが治水と水防の関係であり,本来,片方だけが存在するわけにはいかない.どのよ
うにして『水防』をつくるかが,これからの治水のもっとも重要な課題といえよう.
逆に『水防』をつくらなければ,どれほどの治水投資がなされても,有効な治水は成
立しないであろう.
宮村氏は,水防を担う地域社会の質的変化,治水を担う防災行政への依存,および,その弊
害を指摘した.そして,
「水防あっての治水」が治水事業の本質であるとしている.これは,水
害のみならず,国土問題の遠因になっているものと考える.なお宮村氏も,1986 年(明治 29
年)の河川法を,治水事業が活発になった転換点としている.
一方,関正和氏は,河川技術者の主導する治水事業の進め方に疑問をもち,地域の人々の川
に対する想いを川づくりに活かす試みを評価している.関氏は,1994 年(平成 5)の著書『大
地の川 4)』で次のように述べている.
地域の自然や歴史,風土,文化といったことについては,人々は河川管理者以上に
多くの知識をもち,またそうしたものを生かした川づくりのあり方について,人それ
ぞれにさまざまな想いを抱いている.そうした人々の想いを無視し,河川管理者の考
えだけで川づくりを進めれば,陰に陽に人々との間で摩擦を生じ,人々の川離れ現象
を生ずることになろう.
川についての人々の善意に満ちたさまざまな想いを,人々との交流を通じて集約し,
一枚のセンスのよい絵にまとめあげて,大方の人々の納得を得ることが,今後の河川
技術者にとってもっとも強く求められることがらである.人々の想いは必ずしも明瞭
ではなく,漠然としている場合のほうが多いかもしれない.河川技術者は,そのよう
に漠然としたイメージから出発して,あらゆる角度から検討を加えつつ,その地域に
ふさわしい補足と修正をおこなって一枚の絵をつくり,人々に見せて納得のいくまで
フィードバックを図ることが重要である.
公式,非公式をとわず,地域の実情に応じて複数のルートで人々の想いを積極的に
くみとることも河川管理者は考える必要があろう.そのようにして人々が参加意識を
持ち,人々の納得をえて改修された川は,地域の人々に愛され,地域に新たな歴史と
文化を育むことになるからである.
富山,宮村両氏ともに,日本の歴史を河川との関係で捉えなおし,国土問題のはじまりを明
治時代に置いている.それでは,江戸時代までの河川とのかかわりはどのようなものだったの
だろうか.また宮村,関両氏は,治水事業の質の変化を認識し,治水を担う河川技術者の行動
3
を見直す必要性を指摘している.河川技術者の役割とは,そもそも何だったのだろうか.この
ような本質的な課題を設定し,分析を進めることで,現在の河川管理のあり方,国土とのつき
あいからの特徴を明らかにできると考えられる.
そこで本研究では,国土に関する社会問題について研究を進めるにあたって,河川管理に着
目することとする.まず河川開発を中心とした土地利用の拡大の歴史を振り返り,これに土木
技術がどのようにかかわってきたのかを検証する.とくに土地利用が固定化した江戸時代の河
川管理の態勢について分析し,当時の河川技術者の姿を明らかにする.その上で,国土問題の
解決に向けて,現在の河川技術者が取りうる方策について考察する.
研究の目的 国土問題を歴史的に認識し,その解決に向けた
河川技術者の役割について実証的に分析すること.
1. 3. 研究の構成
本研究の全体構成は 6 章からなる.
全体構成としては,本章では研究の動機づけと目的,手法を述べた.第 2 章では,遠賀川流
域を主たる対象として,古代から江戸時代にかけての土地利用の拡大と土木技術の発展の関係
を整理する.第 3 章では,江戸時代の河川管理河川管理技術と河川技術者の特徴を分析し,現
在との違いを確認する.第 4 章では,現在の河川技術者が試行的に行っている取り組みについ
て評価する.最後に第 5 章において,研究の総括を行うとともに,これからの河川技術者の役
割について議論する.
以下に次章以降の構成を示す.
第 2 章のテーマは,
「遠賀川流域の河川と土地開発の変遷」である.
第 2-1 節「遠賀川流域の古代の土木技術と土地開発」では,古代の土木技術が土地利用の変
化に与えた影響を分析する.遠賀川流域を対象として,弥生時代からの古墳時代にかけての土
工用具の進化が,人々の土地開発の自由度を高め,治水・利水上のより安全な土地が選択的に
開発されるようになった履歴を明らかにする.
第 2-2 節「遠賀川流域他の古墳時代までの土地開発」では,遠賀川の分析で得られた成果を
元に,西日本の土地利用の変化を分析する.古代の土木技術は朝鮮半島から伝来したもので,
その発展には地理条件や地質条件による地域的な差異が見られる.その過程を北部九州から山
陰,瀬戸内,大和地方の比較によって分析する.
第 2-3 節「遠賀川流域他の戦国時代までの土地開発」では,農業水利技術が西日本各地に普
及する様子を確認する.飛鳥・奈良時代には律令制度の下での口分田の開発が進められ,平安
4
時代には荘園公領制による競争的な土地開発が進められている.鎌倉時代以降は,武士が台頭
し,在地の開発領主が主導的に土地開発が行われるようになった様子を示す.
第 2-4 節「遠賀川流域の江戸時代の河川改修」では,遠賀川流域で行われた河川改修ととも
に土地利用が拡大した過程を追跡する.本川,支川が治水・利水のために開発された結果,土
地と水資源が限界まで開発され,コメ生産を最大化するための土地と河川の管理が行われた状
況を明らかにする.
第 3 章のテーマは,
「河川管理技術の特徴とその変化」とし,江戸時代の河川管理の態勢を古
文書から分析する.
第 3-1 節「河川管理技術の特徴」では,開発された土地を持続的に活用するための江戸時代
の河川管理技術(河川伝統技術)の考え方を分析し,現在のもの比較する.使用する資料は,
江戸時代初期の『百姓伝記防水集』
,
『川除仕様帳』および『河川管理施設等構造令解説』であ
る.
第 3-2 節「河川技術者の役割の変化」では,河川管理を担った河川技術者の位置づけや心構
えを分析する.さらに現在までの河川管理態勢の変遷を概観し,江戸時代との比較から,現在
の河川管理の課題を明らかにする.資料は,江戸前期の『百姓伝記防水集』
,中期の『享保の修
築例規』
,後期の『隄防溝洫志』である.
第 4 章のテーマは,
「河川技術者の先駆的な取り組み」として,国内外の事例を評価する.
第 4-1 節「連続水制による河川営力の活用(メコン川)
」では,日本の河川伝統技術をメコン
川の河岸侵食対策に適用応用した事例を取り上げる.1998 年から現地の材料,技量,財源の制
約の中で,設置された石積み連続水制について,調査,設計,施工段階を検証し,現在までの
効果を評価する.
第 4-2 節「粗朶沈床による国際技術協力(ラオス)
」では,粗朶の国際技術移転とともに河川
管理態勢を整備した事例を示す.1999 年以降の粗朶沈床を題材にしたラオスの河川管理態勢が
整えられていく過程を整理し,国際的にも共通する効果的な河川管理のあり方について考察す
る.
第 4-3 節「新たな合意形成手法による川づくり(遠賀川)
」では,遠賀川の緩傾斜河岸の整備
を対象として,地域の合意形成のあり方について分析する.2005 年から行われた河川改修は,
10 年に及ぶ地域での議論の成果であり,戦略的な川づくりであったといえる.その合意形成に
至る過程は夢プラン方式と呼ばれており,その特徴と河川管理に与える影響を検証する.
第 5 章では,
「これからの河川技術者の役割」として,本研究の結論を述べる.
前章までの結果を総括して,土木技術の進化と土地利用の変遷,および,水害に対する地域
防災の発達の関係を整理する.その中から,河川技術者が果たすべき機能を考察する.最後に,
これからの河川技術者に期待される役割を提示する.
5
以上の研究の全体構成を表 1-1 に示す.
表 1-1 研究の全体構成
6
参考文献(第 1 章)
1) 高橋裕, 司馬遼太郎:土木学会誌(日本の土木と文明)
,1975.
2) 富山和子:水と緑と土,pp.8-31,中央公論社,1973.
3) 宮村忠:水害,pp.209-212,中公新書,1985.
4) 関正和:大地の川,PP.225-241,草思社,1994.
7
8
第 2 章 遠賀川流域の河川と土地開発の変遷
河川流域の歴史は,過去の人々による自然環境への働きかけの蓄積である.いつの時代であ
っても,自然への働きかけは,その当時の自然条件と社会条件の制約の下で行われてきた.古
い時代の働きかけは,
人為的な制約が少なく,
本来の自然環境に左右されることが大きかった.
地形,地質,気象などの自然条件に対して,人々が持つ技術力を活用して,より豊かな生活と
生産を目指して土地利用が行われきた.中でも古代に伝わった水田稲作は,現在まで続く土地
利用の根幹をなすものであった.
そこで,本章では,遠賀川流域を主たる対象として,水田開発を中心に土地利用が拡大して
いった経緯を分析する.
第 2 章は,以下の 4 節で構成する.
第 2. 1 節は,
「遠賀川流域の古代の土木技術と土地開発」である.遠賀川流域は,朝鮮半島
に近接する北部九州にある.北部九州では,水田稲作文化を初めてとして古代の先進技術がい
ち早く伝わった地域である.その中で最も大きな河川である遠賀川の下流域には,弥生時代初
期に土器文化が定着した.
遠賀川式土器は,
全国に水田稲作が普及していく指標となっている.
本節では,古代の遠賀川流域を対象に,技術の発展と土地利用の関係を分析する.
第 2. 2 節は,
「遠賀川流域等の古墳時代までの土地利用」である.古代の技術は朝鮮半島から
伝わったものが多い.とくに革新的であった鉄器の導入については,半島からの距離という地
理的条件で地域間に差異が生じている.また土地利用は,鉄材料となる砂鉄資源を産出する地
質条件や,水田開発の適地の有無というは地形条件にも影響を受けている.本節では,文献の
示す国際関係を踏まえて,西日本の水田開発の進展を整理する.
第 2. 3 節は,
「遠賀川流域等の戦国時代までの土地利用」である.遣隋使・遣唐使が派遣され
るようになると,中国大陸の技術や制度が日本に直接導入されるようになった.律令体制の下
で統一的な土地制度が設けられ,地方行政の枠内での水田開発が行われるようになった.この
ころに確立した農業水利技術は,
中央から地方へ拡散し,
やがて地方で独自に普及していった.
本節では,西日本の事例から飛鳥時代から中世にかけての土地利用の変化を分析する.
「遠賀川流域における江戸時代の河川改修」である.遠賀川流域では,江戸時代
第 2. 4 節は,
の初期に大規模な河道の付け替え工事が行われ,下流の氾濫原の治水安全度が高められた.そ
の後も干拓事業や水資源開発,舟運開発が連続して行われ,コメ生産の増大が図られた.これ
らは明治以後の経済発展を支え,現在も治水,利水,環境の基礎条件となっている.それぞれ
の事業を時系列的に整理し,事業当初の計画主体と目的を分析する.
9
最後に,各節を総括して,遠賀川流域の土地利用の拡大の履歴を要約するとともに,水田開
発に用いられた土木技術の進化との関係をまとめる.
10
2. 1 遠賀川流域の古代の土木技術と土地開発
2.1.1 はじめに
本論は,遠賀川の河川・流域の特性を理解するため,人為的開発が始まった古代の土地開発
の変遷を把握しようとするものである.検討にあたっては,地質と地形による基本的な自然条
件を整理した上で,縄文時代,弥生時代,古墳時代の各時代の最先端の土木施工技術を勘案し
ながら,遺跡等の分布と考古学的な研究成果に解釈を加えている.
古代の河川・流域に関する土木については,
「明治以前日本土木史 1)」が大和政権の行政体制
や土地制度,治水事業を要約している.また,山本は治水技術について古代から総括的に分析
2)
しており,松浦は大和盆地や埼玉平野を対象に古代の土地利用の研究 3), 4)を行っている.本論
は,これらの成果を参考にしつつ,遠賀川流域を対象に,古代の土木施工技術の発達と土地開
発の変化の関係を分析しようとするものである.ここで,土木施工技術とは,それぞれの時代
の土木用具を用いた人力による施工能力として用いている.
幸いに遠賀川流域には,多くの古代遺跡・遺物の考古学研究が行われており,古代からの土
地利用を連続的に分析することが可能である.分析の方法は,まず地質時代として,地質と地
形に着目した遠賀川流域の自然条件の特徴を整理している.その上で,縄文,弥生,古墳の各
時代について,当時存在していた土木施工技術について整理し,遺跡等の考古学的知見につい
て解釈を加えている.最後に古代を通して,土木施工技術の発達が土地開発に与えた影響を要
約し,現在の河川・流域管理との関連を示す.
なお本論では,河口の芦屋から直方までの河道を遠賀川,源流域を構成する主要な 4 河川を
西から,犬鳴川,穂波川,嘉麻川,彦山川と定義する(図 2-1)
.
5
図 2-1 遠賀川流域の地質「
(土木地質図 )」に加筆)
11
2.1.2 地質時代
(1) 地質
土木施工技術と土地開発の関係を整理する準備として,最も基盤的な自然条件である地質条
件について整理する.遠賀川流域では,図 2-1 及び表 2-1 に示すとおり,古生代から新生代新
第三紀にかけての地層が基盤となっている.
最も古いものは,古生代から中生代にかけての海底堆積物層であり,犬鳴川源流域や福智山
地を構成する.この地層は,砂岩と泥岩が主体であるが,石灰岩等の大塊を内包し,犬鳴川流
域では強い変成作用を受けている.
次いで古いのは,中生代白亜紀の花崗岩で,穂波川,嘉麻川,彦山川の源流域を構成してい
る.これは北部九州から,中国,近畿,中部地方に及ぶ広い範囲に起こった深成岩の貫入の一
部である.なお,花崗岩の多くは,新生代の地殻変動の影響を受けている.
新生代には,古第三紀に浅い内湾が形成され,温暖な気候で繁茂した植物が堆積して筑豊炭
田の石炭層となっている.新第三紀には火山活動に伴う安山岩が噴出し,現在の流域最高峰で
ある英彦山を形成している 6).
遠賀川流域は,比較的古い古~中生代の地層を基盤とするところが多く,特に源流域に中生
代の花崗岩が広く分布することに特徴がある.
表 2-1 遠賀川流域の地質年表
6
(
「福岡県に分布する地層・岩石 )」に加筆,年代は,地学団体研究会編標準地質年代表(1996)による)
12
(2) 地形
遠賀川流域の地形は,高さ 1,000m 級の源流山地と主要河道に沿った沖積地からなる比較的
なだらかな形状である.この地形は,第四紀の海面変動に伴う浸食と堆積に依存している.
今から約 2 万年前のヴルム最終氷期の海面は,
現在より 100m 以上低かったとされている 7).
この時,現在の遠賀川流域は日本海へ北流する河川の源流部にあたり,更新世には深い峡谷と
なっていた.その後,峡谷の地層は風化・浸食が進み,河川には豊富な土砂が供給され続けて
いる.約 1 万年前からは完新世の海面上昇があり,浸食谷は土砂によって埋められていった.
現在の平地地形は,完新世の土砂堆積によって発達したものであり,その形成時期は縄文時代
以降の人間の歴史と重なる.遠賀川流域の沖積層の厚さを示す基底礫層の深さは,図 2-2 のよ
うに,河口部で約 50m,上流の飯塚周辺で約 20m に達している.
(3) 沖積地(完新統)
日本海に注ぐ河川の多くは,完新世に顕著なバリアーが発達し,沖積低地は河口閉塞により
潟湖や干潟となっていた.潟湖や干潟は,土砂堆積の過程で,厚い高有機質の完新統地層を発
達させている 8).この軟弱地盤層は,遠賀川下流域でも顕著に見られ,そうら層と呼ばれてい
る.
遠賀川の堆積作用は,中上流域でも活発である.図 2-3 に示すとおり,浸食谷を埋めた土砂
は,上流各地に幅の広い盆地地形を形成している 9).現在の遠賀川流域では,沖積地が下流平
野から源流近くまで広がっている.
流域に広がる沖積地は,中生代花崗岩を起源とするマサが主体となっている.一般にマサは
地中深くまで存在し,焼畑農業で流失しても,継続的に耕作を行うことが可能である.また,
山地全体の保水力が高く,渇水流量が大きいため,沖積地の水田開発にも有利である.そのた
め,マサからなる沖積地は,古代の農耕による土地開発に大きく貢献したとされている 10).遠
賀川流域の沖積層のマサは,
古代の畑作及び稲作にとって,
有利な土壌条件であったといえる.
図2-2 遠賀川の河床勾配曲線と第四紀基底の高度曲線
13
5)
図2-3 遠賀川流域の沖積地(完新統)の分布
9)
(4) 地質時代の遠賀川流域
遠賀川流域は,古~中生代の古い地層を基盤としている.源流から豊富な土砂が供給され,
遠賀川の上流から下流にかけて完新統の沖積地が発達している.なお,沖積地形成前に遡る旧
石器時代には,人々はナイフ形石器を用い,狩猟を中心として生活していた 11).縄文時代以降
は,遠賀川による地形の変化に順応しながら,人々の歴史が展開されていく.
14
2.1.3 縄文時代
(1) 石鍬
縄文時代の人々は,狩猟・漁撈・採集を基本とし,土器を用いた生活を営んでいた.土木施
工に用いられた道具としては石鍬があり,野生のイモや球根・根茎類を掘る道具として用いら
れていた 11).遠賀川流域では,石鍬等の縄文時代の生活痕跡は,下流域の古遠賀湾に面した貝
塚,中流域の現在の河床に埋もれた遺跡,上流域の台地上の遺跡から出土している 12).
(2) 下流域の河道形成
縄文時代には,気候が温暖化し,海水面は現在よりも高い海進の時期があった.福岡平野で
の分析によれば,縄文海進は約 6,000 年前,約 4,700 年前,約 3,100 年前の 3 回のピークがあり,
海水面は現在よりも少なくとも 1.2m±1m 高かったとされている 13).このとき遠賀川下流域で
は,深い洪積谷が,浅く広い古遠賀湾となり,沿岸に多くの縄文貝塚が残されている.
古遠賀湾の貝塚は,湾を囲むように,現在の標高 4~6m 前後の場所に点在している.湾奥東
側に位置する楠橋貝塚の調査によれば,採集された貝のほとんどはヤマトシジミであった.わ
ずかに海水の混じる淡水を好むヤマトシジミは,安定した広い潟湖が存在していたことを示し
ている.一方,湾奥西側の新延貝塚では,表 2-2 に示すとおり,約 5,000 年前から 4,500 年前に
マガキがヤマトシジミよりも多い.海棲のマガキが増えた時期には,干潟がやや深い感潮水路
によって海水域と接続していたと指摘されている 14).
この新延貝塚の貝類の変化は,古遠賀湾の湖底が全体として東高西低であったことを示して
いる.さらに立屋敷遺跡等の弥生時代の痕跡は,図 2-4 のように,古遠賀湾の東側に分布して
いる.これも,縄文時代末期までに古遠賀湾が東から陸地化していたことを示している.その
要因は,古遠賀湾の東西の土砂供給量の不均衡であると考えられる.東の福智山地を源流とす
る河川からの土砂供給が,西からのものより卓越するためである.
以上の考察をまとめると,遠賀川下流域では次のような過程を経て,沖積地西寄りの図2-4
に示すような河道の原形が形成されていったと考えられる.
表2-2 新延貝塚と楠橋貝塚から出土する貝類の比較(
「楠橋貝塚の貝類
14)
」を要約)
新延貝塚
楠橋貝塚
所在
古遠賀湾(西側)
古遠賀湾(東側)
縄文時代前期
(9,000 年前~)
ヤマトシジミ中心
ヤマトシジミ中心
縄文時代中期の一時期
(5,000 年前~4,500 年前)
マガキが優越
ヤマトシジミ中心
縄文時代中期以降
(4,500 年前)
ヤマトシジミ中心
ヤマトシジミ中心
15
15)
図2-4 遠賀川下流域の古遠賀湾と縄文・弥生貝塚(
「縄文/弥生時代遺跡分布 」を元に作成)
その特徴を整理すると以下のとおりである.
・縄文海進により,現在の河口から20km付近まで海水が浸入した.
・海退とともに,土砂供給の多い南側と東側から陸地化が進んだ.
・西側に残された干潟が連続し,古代の遠賀川河道が形成された.
(3) 中上流域の河床上昇
一方,上流域にも,多くの縄文遺跡が確認されており,主に森林資源を活用した生活があっ
たと考えられている.しかし,中流域では遺跡が少なく,現在の水面から約 6~7m 低い川底の
遺跡から,縄文時代中期の土器や石器が発掘されている.このことから,縄文時代の生活が深
い谷の底で営まれ,その後,堆積土砂で埋没したとされている 15).遠賀川中流域では,豊富な
土砂供給による河床上昇が大きく,縄文時代を通じて継続的に沖積地が拡大していったと考え
られる.
(4) 縄文時代の遠賀川流域
縄文時代には,遠賀川流域の干潟や河川,森林の環境に適応した狩猟・漁撈・採集生活が営
まれた.
多くの貝塚が残された古遠賀湾は次第に縮小し,
その西側に河道の原形が形成された.
中流域では,縄文の生活の場を埋没させながら河床上昇が進み,洪積谷を埋める沖積地が発達
していった.このような土地の変化は,河川の土砂供給によるものである.縄文時代には,石
鍬を用いた土地改変があったものの,地形変化への影響はほとんどなかったと考えられる.
16
2.1.4 弥生時代
(1) 木製農具
弥生時代の文化では,水田稲作が始まり,土地開発のための道具として木製の鍬と鋤が用い
られた.最も古い水田開発のための農耕具は,鍬であった 16).鍬は,軟らかい低湿地の耕作に
適し,後の日本の稲作の中で多様に分化していった.一方の鋤の機能は,湿田よりも固い土を,
より深く掘ることに適した土工用具である.傾斜地での水田づくりや,水路を通すための溝掘
りに鋤が用いられたとされている 17).
(2) 木製の鍬と下流域の開発
弥生時代初期の土地開発の様子について,唐津平野の菜畑遺跡,福岡平野の板付遺跡と遠賀
川下流域の木屋瀬田遺跡を比較する.北部九州の代表的な稲作遺跡である菜畑遺跡と板付遺跡
については,稲作技術についての分析が行われている.菜畑遺跡は,唐津湾に面した小さな谷
の奥にあり,砂丘と遺跡の間には潟湖が広がっていた.板付遺跡は,御笠川等の沖積平野の台
地周辺に位置し,土手と井堰で小河川からかんがいが行われていた 17).
遠賀川流域の稲作遺跡としては,板付遺跡に次ぐ段階の水田遺構とされる木屋瀬田遺跡があ
り,耕作に使われた木製の鍬やモミ跡のある土器が出土している.写真 2-1 のような木製の鍬
によって,弥生時代の初期から稲作が行われたことが明らかにされている.併せて木屋瀬田遺
跡では,南北方向の自然流路が確認されている 18).稲作が行われていた当時は,遺跡は遠賀川
下流右岸の沖積平野に位置していた.確認された流路は,東の福智山地から流れ下り,遠賀川
右岸の後背湿地を北流して,遠賀川または干潟に注いでいたものと考えられる.
このように北部九州では弥生時代初期から稲作が始またが,弥生時代の水田稲作では,水田
の生産性は人々の食糧をまかなうには十分ではなかった.そのため,縄文時代の延長にある狩
猟・漁撈・採集と水田稲作が複合的に行われたのが弥生時代の生活と考えられている 19).さら
に,下流低平地の水田は洪水被害が避けらない.コメの生産が落ち込んだ年でも集落を維持す
ることができる食糧供給源が必要であ
ったと考えられる.
この点を踏まえて,菜畑遺跡,板付
遺跡,木屋瀬田遺跡の特徴を表 2-3 に
整理すると,3 遺跡が干潟あるいは浅
い海の近傍にあるという共通の地形的
特徴をもっていることが判る.すなわ
ち,水田を補完する食糧供給源である
干潟環境の存在が,初期の水田開発地
として重要な条件であったと推察され
18)
る.
写真2-1 木屋瀬田移籍から出土した木製の鍬
17
すなわち,遠賀川流域を含む北部九州に初期稲作が定着したのは,次の 3 条件が整っていた
ためと考えられる.
・木製の鍬で耕作可能な低湿な沖積地である.
・かんがい水源として利用できる小河川がある.
・食糧の安定供給が可能な干潟の沿岸にある.
なお,3 点目の干潟については,遠賀川下流のものが北部九州で最大規模であり,相対的に
人口集積が大きかったと考えられる.遠賀川式土器に代表される弥生時代初期の文化が形成さ
れた要因の一つであろう.
(3) 木製の鋤と中上流の開墾
遠賀川流域の弥生時代中期として代表的なものは,中流域の立岩遺跡である.立岩遺跡は石
包丁の生産拠点であり,完成品は福岡平野や筑後川流域まで流域を越えて流通していた 20).こ
のような石包丁の生産者の食糧は,穂波川と嘉麻川が合流する盆地の水田から供給されたであ
ろう.マサの沖積地で森林を開き,田畑を耕作するために,木製の鋤が多用されていたと考え
られる.
弥生時代中期の立岩遺跡は,
大陸からもたらされた前漢鏡 10 面が集中するように一極集中的
に繁栄していた.しかし弥生時代後期,3 世紀ころの後漢鏡は,犬鳴川,穂波川,嘉麻川,彦
山川の流域各地から出土している 21).また,後漢鏡の出土遺跡は,図 2-5 に示すとおり,各河
川の源流域に分散している.これは,かんがい用水を確保・管理するのに小規模な河川が有利
であったためと考えられる.一方,初期の水田稲作が行われていた遠賀川下流域からは後漢鏡
は出土していない.これは,流域開発が進み水田の生産性が向上した結果,稲作の中心が,下
流域から上流域に移行したことを示している.
表2-3 菜畑遺跡,板付遺跡,木屋瀬田遺跡の比較表
17)
18)
(板付・菜畑資料 ,木屋瀬田資料 より作成)
菜畑遺跡
板付遺跡
木屋瀬田遺跡
所在
佐賀県唐津市
福岡県福岡市
福岡県中間市
年代
板付遺跡よりもややさ
かのぼる年代
初期の水稲耕作が行わ
れた年代
稲作発生期の遺跡とし
て福岡平野に次ぐ段階
遺構・農耕具
諸手鍬,えぶり
諸手鍬,えぶり,杭,
矢板,井堰,堤防
狭鍬,杭,自然流路
地形の特徴
唐津湾に向かってのび
る二つの丘陵に挟まれ
た小さな谷.海岸砂丘と
の間に干潟.
博多湾の海岸湿地に,御
笠川などの小河川が形
成した沖積平野.島状に
浮んだ台地の周辺.
遠賀川下流域の沖積平
野の後背湿地.小河川が
古遠賀湾の干潟に流入.
18
21)
図2-5 遠賀川流域の弥生時代の遺跡の分布(
「遺跡位置図/遺跡略年表 」を元に作成)
このことから,弥生時代末期の水田開発適地は次の 2 条件の揃ったところであるといえる.
・木製の鋤で開墾可能なマサの沖積地である.
・かんがい用水として確保・管理できる小河川がある.
このような土地は,図 2-2 に示す沖積地の外縁部にあたるため,適地の多い中上流域の開発
が進んだものと考えられる.
(4) 弥生時代の遠賀川流域
弥生時代には,稲作文化の一部として木製農耕具が北部九州に伝来した.遠賀川流域では,
下流域の木屋瀬田遺跡で初期稲作の痕跡が確認されている.弥生時代前期は,木製の鍬で耕作
しやすい土壌,取水しやすい小河川,広大な干潟のある下流域が開発されている.
中期には中流域の立岩遺跡周辺,後期には上流各地の遺跡周辺が発展した.これらは,木製
の鋤によって,中上流域のマサの沖積地が開発され,小河川がかんがい利用されたと考えられ
る.その結果,遠賀川流域では,弥生時代末期(おおむね 3 世紀)までに,上流沖積地の開発
が進んでいる.
19
2.1.5 古墳時代
(1) 鉄製刃先
古墳時代には,鉄製刃先を装着した鍬あるいは鋤が土工用具として使用されるようになった
22)
.北部九州においては,4 世紀までに鉄製方形刃先が使われていたことが明らかにされてい
る.刃先を付けた鍬や鋤は,当時の最先端の土木用の工作具であり,ため池や古墳の造営に利
用されていた 23).
次いで 5 世紀には,馬具,横穴式石室,須恵器等とともに,より実用性の高い鉄器が朝鮮半
島から伝来した.これは鉄製 U 字形刃先と呼ばれ,鍬や鋤の強度が高まり,土工の施工性が向
上した 23).そして,これらの技術を掌握した権力者が,コメの生産量を増大しようとする意図
を持ち,地域の労働力を結集することによって,従来よりも規模の大きい水田開発が可能にな
ったとされている 24).
(2) 4世紀の鉄製工具の痕跡
北部九州の遠賀川流域の古墳からは,日本列島では初期の段階の鉄器が多く出土している.
その中で,沖出古墳は,4 世紀の鉄製工具の痕跡を確認できることで注目される.
沖出古墳は,弥生時代から多くの集落があった嘉麻川沖積地を見下ろす丘の上に造られてい
る.古墳は豊かな水田地帯の首長の墓と目されており,納められた棺は,写真 2-2 の割竹形石
棺である.この石棺は,大きな砂岩から削り出されており,チョウナやノミによる加工痕跡が
残されている 25).
鉄の工具による精密な加工には,十分な鉄材料の供給と,工具を製造・補修する鍛冶技術が
不可欠である.沖出古墳の石棺は,4 世紀の遠賀川上流域に,有力な首長と,鉄と鍛冶技術の
存在を示すものである.鉄器の供給体制の確立は,鉄製刃先を装着した農具によるこの地域の
土地開墾を可能にしていたと考えられる.
(3) 古墳の分布の変遷
遠賀川流域では,数多くの古墳が下流域か
ら上流域まで広く分布している.これらを古
墳時代の前期(おおむね 4 世紀)
,中期(おお
むね 5 世紀)
,後期(おおむね 6 世紀)に分け
て,古墳の立地条件を確認する.遠賀川流域
の古墳の立地場所の遷移を図 2-6 に示す.
4 世紀の遠賀川流域には,嘉麻川流域の沖
出古墳の他,各地に首長の大型古墳が造られ
写真2-2 4世紀の沖出古墳の割竹形石棺レプリカ
(撮影:松木,2008)
た.遠賀川最下流の島津丸山古墳,穂波川流
域の忠隈古墳,彦山川流域の位登古墳等であ
20
る 21).大型古墳の存在は,流域各地の水田の生産性が向上し,人口が増え,大規模な土工工事
の労働力が確保が可能になったことを示している.中でも島津丸山古墳は,流域最古の前方後
円墳と推定されている.朝鮮半島に向き合う遠賀川河口は,海峡を往来する海上交通の拠点で
あったと考えられる.ただし河口域では,5 世紀の大城大塚古墳を最後に,新たな古墳は確認
されていない 21).遠賀川河口の港湾としての機能が衰退したためと考えられる.
一方上流域では,5 世紀に,犬鳴川流域の高野 1 号墳,穂波川流域の金比羅山古墳等,大規
模な古墳が造られている 21).これらは源流近くに位置しており,流域の最上流の水田の高い生
産性を示している.また 5 世紀の古墳は,穂波川の山の神古墳や小正西古墳,彦山川のセスド
ノ古墳等,横穴式石室,埴輪や馬具が副葬等,朝鮮半島に由来する新たな文化によって特徴づ
けられている 21).特に,彦山川の猫迫 1 号墳から出土した馬型埴輪は国内最古級とされ,初期
の馬の文化を伝えている 26).これらは上流域を支配する首長が,先進的な文化を持っていたこ
とを示している.
21)
図2-6 遠賀川流域の弥生時代の遺跡の分布(
「遺跡位置図/遺跡略年表 」を元に作成)
21
6 世紀の古墳の中には,北部九州から
関東にかけて埋葬施設に壁画をもつ装飾
古墳が現れる.遠賀川流域では,穂波川
流域の王塚古墳,
犬鳴川流域の竹原古墳,
彦山川流域の水町横穴等があり,写真
2-3 のような特色のある壁画で知られる.
6 世紀からは,流域各地に横穴が築造さ
れ,古墳づくりは衰退した 21).これらも
上流域の各地に分散しており,進取の性
写真2-3 6世紀の竹原古墳の装飾壁画
(撮影:松木,2008)
格の強い首長の存在を示している.
(4) 古墳時代の遠賀川流域
古墳時代には,鉄製農耕具によって水田生産性が高まり,権力者の古墳が造られるようにな
った.遠賀川流域では,4 世紀に鉄製方形刃先が,5 世紀に鉄製 U 字形刃先が使用され,開墾
が行われていた.鉄器の掌握と農地の拡大推進は,犬鳴川,穂波川,嘉麻川,彦山川の流域単
位で盟主と目される権力者が推進していた.彼らが主導して,5 世紀から 6 世紀にかけて,上
流域の沖積地の開発が,多極的に進展したと考えられる.
古墳時代に土地開発が行われた場所は,弥生時代末期の開発適地とほぼ一致する.ただし,
土木施工技術の発達によって,より大規模な開発が行われたと考えられる.
22
2.1.6 まとめ
本節では,
地質時代からの連続性を考慮しながら,
遠賀川流域の古代の土地開発を考察した.
これまでの分析に基づいて,遠賀川流域に見られる古墳時代までの,土木施工技術と土地利用
の関係を以下,および,表 2-4 に要約する.
・縄文時代は,干潟や河川・森林で狩猟・漁撈・採集が営まれ,石鍬が土掘り用具として利
用された.
・弥生時代前期は,木製の鍬を利用して下流低湿地が開墾され,干潟の周辺に稲作文化が定
着した.
・弥生時代中後期は,木製の鋤が多用されるようになり,上流小河川の沖積地の開墾が進ん
だ.
・古墳時代前期は,鉄製方形刃先が普及し,上流盆地で水田開発と古墳造営が行われるよう
になった.
・古墳時代中後期には,鉄製 U 字形刃先をはじめとして,築堤,掘削,馬具,横穴式石室,
装飾壁画等の新たな文化が伝来し,上流域に定着した.
以上のように,古代の遠賀川流域では,古遠賀湾の干潟に近い下流低湿地から上流の沖積地
へと,土地開発の中心が遷移している.これには,土木施工技術の発達による土地開発能力の
向上が寄与したものと考えられる.
これらは,現在の遠賀川の河川・流域管理の重要な情報である.縄文・弥生時代の生活に影
響した古遠賀湾の陸地化や中上流の河床上昇等は,現在の氾濫原の治水対策,流送土砂管理の
必要性を示している.また,古墳時代以降の上流域の発展は,安定した土地利用の具体事例と
いえる.
表2-4 遠賀川流域の古代の土木施工技術と土地利用(要約)
土木施工技術
地質時代
(旧石器)
(ナイフ形石器)
縄文時代
石鍬
・土掘り用具
弥生時代
前期
木製の鍬
・低湿地開墾
弥生時代
中後期
木製の鋤
・沖積地の開墾
古墳時代
前期
鉄製方形刃先
・荒れ地開墾
・水資源開発
古墳時代
中後期
鉄製 U 字形刃先
・開墾能力向上
土地利用
考察
基盤は古生代~中生代の地層で,源流域に花崗岩が広く分
(自然地形を利用した生活)
布.完新世に古遠賀湾が形成され,中上流域にマサの堆積
が進んだ.
狩猟・漁撈・採集を中心とした生活のために,干潟や河川,
干潟周辺に貝塚群(楠橋貝塚等)
森林周辺に集落を形成していた.人為的な土地開発は限定
谷底や森林に集落(鯰田遺跡等)
的であった.
稲作文化とともに木製農具が伝来.耕作しやすい土壌,か
下流低湿地で初期稲作が始まる
んがい可能な小河川,食糧補給源の干潟のある下流低湿地
(木屋瀬田遺跡や立屋敷遺跡)
が開発された.
中上流域の沖積地が開墾された.特に,開墾可能なマサ土
上流沖積地に稲作が広がる
壌が広がり,かんがい可能な小河川のある沖積地の外縁部
(立岩遺跡から上流域各地へ)
が開発された.
沖積盆地を中心に開墾が進む
鉄製刃先の普及によって土工能力が向上.技術を掌握した
(4 世紀の流域最大の島津丸山古墳
首長の下で,荒れ地の開墾,水資源開発等が可能になり,
や割竹形石棺の沖出古墳等)
水田の生産性が高まった.
沖積盆地に新たな文化が伝わる
鉄器の他,馬具,横穴式石室,装飾壁画等の新しい文化が
(5 世紀の馬型埴輪の猫迫 1 号墳等) 伝来.これらは,上流域を中心に水田生産性がさらに向上
(6 世紀の装飾壁画の竹原古墳等)
した,先進的な文化が栄えた.
23
2. 2 遠賀川流域他の古墳時代までの土地利用
2.2.1 はじめに
前節では,遠賀川流域を対象に土木施工技術の進化が水田を中心にした土地開発を拡大させ
たことを確認した.当時の技術は朝鮮半島からもたらされており,北部九州に位置する遠賀川
流域は,新規技術が最初に定着する場所であった.他の地域では,遠賀川流域とは異なる技術
進化があり,土地利用の展開があったと考えられる.そこで本節では,より広範囲な北部九州
から近畿にかけての西日本を対象として,土木施工技術の進化と古代の土地開発の拡大の関係
を分析する.
古代の日本社会については,歴史学の分野ですでに多くの研究が進んでいる.本節は,既存
の研究成果に土木技術の視点を加えて,各地域の土地開発の進展を概観,比較しようとするも
のである.
古代の社会を知る手掛かりとして,古い時代には『漢書』などの海外の史書を用いる.また
6 世紀以降については国内の『日本書紀』なども参考となる.これらを実年代の手掛かりとし
て,古代を次の 6 つの時代に区分して分析する.それぞれの時代について,朝鮮半島を含む東
アジアの国際情勢を踏まえ,西日本各地の地理的条件や地質,地形条件を考察して,土地利用
の展開について概観する.なお弥生時代の開始年代には諸説があるが 27),最も古い説を採る.
・弥生時代前期(紀元前 10~前 3 世紀)― 文献以前
・弥生時代中期(紀元前 2~前 1 世紀) ― 『漢書』の時代
・弥生時代後期(1~3 世紀)
――― 『後漢書』
,
『魏書』の時代
・古墳時代前期(4 世紀)
――― 『広開土王碑文』
,
『百済本紀』の時代
・古墳時代中期(5 世紀)
――― 『宋書』の時代
・古墳時代後期(6 世紀)
――― 『古事記』
,
『日本書紀』の時代
2.2.2 弥生時代前期(紀元前10~前3世紀)
縄文時代の人々は,内湾で魚介類を漁り,森林での木の実を採り,弓矢で小動物を狩ってい
た.縄文後期になると,気温の寒冷化に対応して,植物栽培による食糧獲得の多角化が行われ
るようになった.また,朝鮮半島と北部九州には共通の漁撈文化があり,人々が海峡を挟んで
盛んに往来していた 27).
初期稲作の痕跡である菜畑遺跡や板付遺跡からは,土地開発用具として木製の鍬や鋤が出土
している.図2-7に示すように,弥生時代の初期から多様な木製農耕具が用いられていた28).木
製農耕具によって開墾した田に,天水・湧水や小河川の水を利用し,コメづくりが行われた.
人々は,新しいコメづくりと縄文時代以来の漁撈・採集・狩猟を複合的に組み合わせて,季節
や気候の変動に適応していた27).
水田稲作文化の伝播してきたことによって,土地への働きかけが始まった.初期段階では,
24
ほぼ手つかずの自然環境のうち,水資源と土壌に恵まれた場所に水田が拓かれ,徐々に広がっ
ていった. 開発適地となったのは,木製農耕具で耕作可能な砂泥質の土壌である.北部九州の
中でも,遠賀川下流域は最適な地形条件を備えていた.広い沖積低平地の砂泥質の土壌は木製
農耕具による耕作に適し,背後に山地から小河川が流入していた.加えて,広大な干潟は,コ
メの不作の年でも食糧補給が可能であった.そのため人口集積が進み,新たな文化の定着地と
なったと考えられる.この地で造られ始めた弥生土器は,遠賀川式土器と呼ばれ,列島各地で
水田稲作が始まった指標とされている.図2-8に遠賀川式土器の出土する遺跡分布を示す.
28)
図2-7 弥生時代の木製農耕具
27)
図2-8 弥生時代前期前半の代表的な遺跡
25
2.2.3 弥生時代中期(紀元前2~前1世紀)
紀元前 2 世紀からは,中国を中心とした東アジアの国際情勢の影響を受けるようになった.
紀元前 202 年に漢が中国を統一し,紀元前 195 年には衛氏朝鮮が成立して,朝鮮半島には青銅
器文化が伝わっていた.このころから,青銅器の鋳造技術をもった集団の一部が日本列島に移
住してきた.九州では銅矛が多く,近畿では銅鐸が多いなど,地域によって個性が見られるも
のの,青銅器は西日本に広く分布している 27).水田稲作文化が普及し,人口の多い地域に受け
入れられたものと考えられる.
この当時の様子が『漢書』に記されている.中国大陸を統一した漢は,紀元前 108 年に漢が
衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡を置いた.
『漢書地理志』によれば,日本列島にいくつもの小国が成
立し,楽浪郡に使者を派遣していた.
『漢書地理志』
(紀元前 1 世紀)
-楽浪海中有倭人,分為百余国,以歳時来献見云.
使者が持ち帰ったと考えられる前漢鏡は,北部九州に多くの残されている.北部九州では,
銅矛の鋳型が用いられ,石斧や石包
丁の石器が,特定の場所で生産され
て他地域に供給されるという新たな
経済関係が成立していた
29)
. その
中で,石包丁の生産拠点として経済
力を高めたのが,遠賀川上流域の立
岩である.図 2-9 が示すように立岩
産の石包丁は北部九州に広く流通し
ていた.立岩遺跡の甕棺墓からは前
漢鏡 10 面が出土しており,
有力な首
長が存在していたとされている 30).
立岩の繁栄は,河川上流域の人口
集積を示している.農耕具の流通に
より,河川上流域でも沖積地にも水
田が拓かれ,各地に集落が発達して
いた.この様子が「百余の国」と伝
えられたのであろう.
29)
図2-9 立岩産の石包丁の分布
26
2.2.4 弥生時代後期(1~3世紀)
1 世紀に流通していた中国の通貨が,北部九州から瀬戸内,近畿の遺跡から出土している.
大陸の物資や情報が西日本に広まっていたことを示している.
紀元 25 年に中国を統一した後漢
には,倭の奴国や倭国王と称する者が入貢していた.
『後漢書東夷伝』
(1 世紀)
-倭奴國,奉貢朝賀,使人自稱大夫,倭國之極南界也,光武賜以印綬.(57)
-倭國王帥升等,獻生口百六十人願請見.(107)
朝鮮半島に 204 年に帯方郡が成立し,220 年に後漢が滅びると,華北の魏に対して倭の女王
卑弥呼が 239 年に朝貢している.
『三国志魏書倭人条』
(3 世紀)
-倭女王,遣大夫難升米等,詣郡求詣天子朝獻.
3 世紀の初頭までには,朝鮮半島との交易が盛んに行われた.朝鮮半島では製鉄が盛んに行
われ,周辺国との間では鉄が通貨として流通していた.その一部が日本列島にももたらされ,
工具が石器から鉄器に切り替わり,稲作の生産性が向上したと考えられる
『三国志魏書弁辰条』
(3 世紀)
-國出鐵韓濊倭皆從取之,諸巿買皆用鐵如中國用錢,又以供給二郡.
この時期に,多量の鉄器が用いられ,山麓の扇状地まで開発されていたのが,山陰地方の妻
木挽田・青谷上寺地遺跡である 27).両遺跡では,河川護岸や農地開墾のための農耕具を加工す
るため,図 2-10 に示す鉄器が多量に用いられていた.当時の山陰には,農耕と漁撈に適した
潟湖に恵まれ,鉄器は鍛冶工房で加工されていた.しかし鉄を生産する技術はなく,日本海交
易の船団によって,鉄素材が朝鮮半島や北部九州から持ち込まれていたと考えられている 31).
日本海交易が成立するためには,
供出する産物が必要である.当時
の山陰の産品で,最も商品価値の
高いものは,鉄の原料となる砂鉄
であったと考えられる.山陰地方
には,磁鉄鉱に富む花崗岩地帯が
あり,風化花崗岩から採集される
砂鉄は,古代の製鉄にとって良質
な原料であった 33).とくに質が高
32)
図2-10 妻木挽田遺跡の鉄器
27
いチタン分の少ない砂鉄鉱床は,図 2-11 のとおり,山陰の出雲から伯耆に集中している 34).
砂鉄の生産は,川砂鉄や浜砂鉄の採集によって行われた.砂鉄は,比重の大きいため水流の
作用で土砂と分離され,川床や海浜になどに堆積していた.含有量の高い河床や海岸で,効率
的に砂鉄を生産した者が,対価としてより多くの鉄素材を獲得することができた.これを農耕
具に加工し,土地開発を主導した権力者が山陰地方に現れたと考えられる.
『出雲国風土記』に
登場する大穴持(オオナムチ)は,鉄穴(カナナ)の支配者と解釈されている
35)
. 効率のよ
い砂鉄生産地の支配者が鉄器を供給し,倭鍛冶(ヤマトカヌチ)と呼ばれて,後世神格化した
ものであろう.
砂鉄生産は,遠賀川流域においても可能であった.弥生時代後期の後漢鏡が,立岩に集中せ
ず,上流域から分散して出土している 36).これは,源流流域の花崗岩地帯から砂鉄が供給され,
これを各支川で集めた権力者が多数いたものと考えられる.砂鉄の生産者は,交易で鉄素材を
得,生産した鉄製農耕具で水田開発を行った.遠賀川上流域はこの時代の開発適地であった.
このような花崗岩地帯の優位性は,北部九州から近畿にかけて共通している.このうち大和
盆地南東部の纏向では,北部九州,瀬戸内,山陰,北近畿の特徴をもつ前方後円墳が 3 世紀の
末に出現した.遺跡からは,土手と大溝,桧材護岸,簾壁,フイゴ羽口ばかりでなく,東海か
ら北部九州にかけての土器が出土する.纏向古墳群は,当時の倭人社会の中枢的位置を占めて
いたとされる 27).纏向を含む大和の花崗岩地帯が,各地の砂鉄国との交流の集積地になったも
のと考えられる.
34)
図2-11 山陰を中心とする山砂鉄の分布
28
2.2.5 古墳時代前期(4 世紀)
朝鮮半島の文献によれば,4 世紀の
末には,倭国が朝鮮半島に進出し,百
済との関係を深めていたとされる.
『広開土王碑文』(391)
-倭が海を渡り来て,百済・新羅
を臣民とす.
百済が倭と通じる.
『三国史記百済本紀』(397)
-百済王,倭国と好を結ぶ.太子
写真2-4 遠賀川上流域の沖出古墳(4世紀)
腆支を以て質とす.
4世紀前半の大和には,ヤマト王権初代大王の崇神天皇が実在し,行燈山古墳に葬られた.ヤ
マト王権の根拠地は大和川上流域であった37).北部九州は,朝鮮半島と大和の中継地となって
いた.
『古事記』に描かれるヤマト王権東征神話では,遠賀川河口が経由地となっている.崇神
天皇は「初代の国を支配したミマキの天皇」と諡号されているが,遠賀川の古名もミマキ川で
あり,関連を窺わせる.
古墳時代の初めには,近畿では水田のための水路が巡らされ,木製の堰による水量調節が行
われていた38).北部九州では,鉄製方形刃先を装着した鍬や鋤が用いられ始め,土工施工性が
向上した33).写真2-4に示す遠賀川上流域の沖出古墳には,鉄器の加工痕跡を持つ割竹形石棺が
納められており,鉄を支配した地域の権力者の存在を伝えている39).多量の鉄器は朝鮮半島と
4世紀にも鉄の海上交易が盛んに行われていたと考えられ
の交流によってもたらされたもので,
る.
2.2.6 古墳時代中期(5 世紀)
5世紀に入り,漢民族の宋が中国河南に建国されると,ヤマト王権は遣使し,朝鮮半島の支配
を主張したとされている.ヤマト王権では,5世紀になると応神天皇以降の墓陵が,大和から河
内に移動した.朝鮮半島及び中国大陸との関係が深まり,瀬戸内海を通じた交通に有利なため
とされる37).
『宋書倭国伝』(478)
-倭王武に使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東大将軍・倭
王.
29
5世紀は,日本列島の各地に多くの渡来人がやってきた時代である.鉄器生産,須恵器生産,
土木技術などの新たな技術をもった氏族が,朝鮮半島から数多く渡来した.とくに韓鍛冶(カ
ラカヌチ)と呼ばれた高度な鍛冶技術をもつ集団は,鉄製U字形刃先(図2-12, 2-13)を生産し,
鍬や鋤の土工施工性を大きく改善した33).また馬は,伐採除根や土砂運搬のための人力に代わ
る労働力を提供した.
このような土木施工技術の向上が,大規模古墳の造営を可能にした.5世紀の河内の大仙稜古
墳は最大の古墳として知られるが,同時期に播磨の五色塚古墳や壇上山古墳,吉備の造山古墳
や作山古墳,豊前の御所山古墳などが造られている.副葬品のうち先進的な馬形埴輪について
は,豊前の猫迫1号墳(図2-14)
,播磨の蟻無山古墳(写真2-5)
,河内の南山下遺跡(図2-15)
5世紀
などから最古級のものが出土している.
の新文化は,北部九州から近畿にかけてほぼ
同時期に渡来したといえる.
36)
図2-12 遠賀川の山の神古墳の鉄製U字形刃先(5世紀)
図2-13 播磨の宮山古墳の鉄製曲刃鎌,鉄斧,U字形刃先
40)
(5世紀)
41)
図2-14 遠賀川の猫迫1号墳の馬形埴輪(5世紀)
43)
42)
図2-15 河内の南山下遺跡の馬形埴輪(5世紀)
写真2-5 播磨の蟻無山古墳の馬形埴輪(5世紀)
30
2.2.7 古墳時代後期(6 世紀)
6 世紀の朝鮮半島には,高句麗,百済,新羅が鼎立していた.520 年に中国南朝に興った梁に
は,倭国が直接遣使した記録はない.倭国は,梁王朝の儒教・仏教文化を百済経由で導入して
いた.倭国は百済と活発に交流し,百済王からの仏像と経典で仏教文化を受け入れた.
6 世紀前半のヤマト王権では継体天皇が王位に就き,山城の淀川沿川に宮を構えた.淀川は,
瀬戸内海や琵琶湖を経由して日本海に繋がっており,百済との交易に有利であった.一方国内
では,ヤマト王権は,磐井の乱や武蔵の国造位争いなどの地方での紛争に介入し,影響力を強
めていった.ヤマト王権は,直轄の屯倉の管理者である国造(クニノミヤツコ)に,有力な豪
族を任命し,地方の支配を拡大していった 44).
王権内部では,渡来系氏族を従えていた蘇我氏が勢力を伸ばした.百済から仏教が公式に伝
えられて(538)からは,蘇我氏は新たな思想や技術を仏教とともに取り入れた.蘇我馬子は,百
済から造寺のための専門技術者を百済から招来し,倭国で初めての瓦葺きの礎石建築となる飛
鳥寺の造営に着手(588)した 45).蘇我氏の仏教振興は推古天皇に承認され,三宝興隆詔によって
(594),飛鳥の豪族にも氏寺の造営が奨励された.寺院建立によって,祖先祭祀とともに,仏教
思想による王権中心秩序の普及を図ったものとされる 44).寺院建立とともに,造寺技術とヤマ
ト王権の支配が地方に広まっていった.
『日本書紀』(594)
-詔皇太子及大臣.令興隆三宝.是時.諸臣連等各為君親之恩.競造仏舎.即是謂寺焉
(皇太子と蘇我馬子に詔して,仏教の興隆を図られた.このとき,多くの臣・連たちは,
君や親の恩に報いるため,競って仏舎を造った.これを寺という)
46)
36)
図2-16 遠賀川周辺の屯倉の分布
図2-17 川島古墳の装飾壁画(6世紀)
31
6 世紀の遠賀川周辺では,
『日本書紀』に鎌,穂波の屯倉が記されている.場所は特定されて
いないものの,図 2-16 のように,それぞれ嘉麻川,穂波川の流域に位置していたと考えられ
ている.
とくに鎌屯倉は図 2-17 の装飾壁画のある川島古墳との深い係わりがあるとされる 10).
この他にも流域には,王塚古墳や竹原古墳など装飾古墳が上流域に見られ,従来からの土着豪
族が割拠していた.有力豪族は,上流沖積地の農地生産力を基盤にした独自の文化を保持しつ
つ,ヤマト王権の支配下に組み込まれていったと考えられる.
6 世紀には,朝鮮半島との人的交流により先進的な仏教技術が導入された.技術受け入れは
ヤマト王権が中心となり,近畿から他の地方に技術移転が行われるようになった.この時期か
ら近畿の先進性が確立したものと考えられる.
2.2.8 まとめ
国際関係と地理,地質,地形条件を考慮した分析を表 2-5 に要約する.歴史的な知見に土木
的考察を加えることによって,古代の西日本における土地利用の変遷について,以下のことが
明らかになった.
表2-5 土木施工技術の革新期における土地利用の変化
縄文時代
10,000 年前から
弥生前期
紀元前 1,000 年頃
~紀元前 3 世紀
弥生中期
紀元前 2 世紀
~紀元前 1 世紀
弥生後期
1 世紀~3 世紀
東アジア情勢
地球が温暖化し,
洪積谷に海水侵入
朝鮮半島南部から北部九州に
灌漑稲作技術が伝播
前 202 漢が中国を統一
前 195 衛氏朝鮮が成立
前 108 衛氏朝鮮が滅び,
漢の楽浪郡が成立 [漢書]
8 中国に新が成立
25 後漢が中国を統一
57 倭奴国が後漢に入貢 [後漢書]
107 倭国王が後漢に入貢
204 公孫氏の帯方郡が成立
220 後漢滅亡,魏呉蜀三国時代へ
239 卑弥呼が魏に入貢 [魏書]
古墳時代前期
4 世紀
391 広開土王碑文
397 三国史記百済本紀
(倭国と朝鮮半島の交流)
古墳時代前期
5 世紀
420 中国南朝に宋の建国
421-478 倭国が宋に入貢 [宋書]
古墳時代後期
6 世紀
502 南朝に梁建国,北朝に北魏
朝鮮半島に百済,高句麗,新羅
梁の儒教・仏教文化が,百済経由
で倭国へ流入 [日本書紀]
589 隋が中国統一
土木施工技術
自然環境に依存した漁撈・採集・狩
猟を組み合わせた定住的な生活
木製農耕具で水田を拓き,天水・湧
水・小川を用いたコメづくり
コメ生産と漁撈・採集・狩猟を組み
合わせた生活
地域の土地利用
列島各地の内湾を囲んで縄文貝塚が分
布
青銅器技術をもった集団が渡来
小国が分立し,石斧や石包丁などの
石器を用いた稲作が拡大
北部九州から近畿で青銅器製造開始
遠賀川上流域の石包丁生産地であった
立岩遺跡に前漢鏡 10 枚が集中
小河川からかんがい用水を取水
朝鮮半島との交易が盛んになり,鉄
器などの物資が多量にもたらされ
る
工具が石器から鉄器に切り替わり
生産性が向上,国の規模が拡大
北部九州に水田稲作文化が定着,
遠賀川式土器とともに列島各地に伝播
遠賀川上流域の後漢鏡は立岩から分散
山陰で鉄器を用いた大規模な水田開発
北部九州から瀬戸内,山陰,北近畿の特
徴をもつ前方後円墳が大和に出現
大和に王権初代の崇神大王の行燈山古
鉄製刃先を装着した鍬や鋤が出現, 墳
土木施工性が大きく向上
北部九州から瀬戸内海に前方後円墳
水田開発が沖積地に拡大,古墳造営 遠賀川の沖出古墳割竹形石棺に鉄器痕
跡
朝鮮半島から鍛冶,馬,須恵器,機 応神天皇の河内進出,誉田御廟山古墳や
織りなどの多様な技術者集団が渡 大仙陵古墳などの大型前方後円墳
来
瀬戸内沿岸各地に大型古墳,横穴式石
水田がさらに拡大し,古墳が大型化 室,馬形埴輪等の新文化
継体大王の淀川進出,
河川に井堰を設け,かんがい用水取
筑紫磐井の乱や武蔵国造位争いに介入
水
ヤマト王権が地方に屯倉を設置
地方豪族が割拠して古墳造営
地方豪族を国造に任命
礎石と塔と瓦の造寺技術も波及
仏教伝来,飛鳥寺造営,私寺造営を奨励
32
・弥生時代前期に,水田稲作文化が北部九州に定着してから,遠賀川式土器とともに日本各
地に波及.木製農耕具で耕作可能な沖積地低平地で水田開発が行われた.
・弥生時代中後期(紀元前 2~3 世紀)に,鉄製刃先の土工能力向上により水田が拡大し,各
地でムラからクニへの集落が拡大した.朝鮮半島との砂鉄交易で山陰の優位性が高まった.
・古墳時代前期(4 世紀)には,朝鮮半島との交易が一層促進され,鉄器がさらに普及した.
各地域の開発が進み,有力氏族の古墳が造営された.
・古墳時代中期(5 世紀)に,鉄器,馬具,埴輪の新たな文化を持った技術者集団が朝鮮半島
から渡来し,築堤,掘削の土木技術が定着.農耕適地の瀬戸内海沿岸の開発が進んだ.
・古墳時代後期(6 世紀)に,各地域に地方豪族が割拠し,沖積地の外縁部に古墳を造営した.
地方豪族に対するヤマト王権の支配が強まり,新たに伝来した仏教技術を奨励した.
西日本では,
古代を通じて国際交流による土木施工技術の進化とともに土地利用が拡大した.
ただし,各地域の地理,地質,地形の条件によって土地開発の進度に差異がみられる.水田稲
作文化が伝播した弥生時代前期には,朝鮮半島に近い北部九州の先進性が認められる.鉄製農
耕具が使われるようになった弥生時代後期には,朝鮮半島との海上交易に有利で鉄原料として
良質な砂鉄を産する山陰地方の優位性が高まった.古墳時代になると,気象条件に恵まれた北
部九州,瀬戸内海沿岸,近畿などの開発が進み,やがてヤマト王権の勢力が拡大して政治的に
も技術的にも影響力を強めた.
このように弥生時代以降,各地の沖積平野で組織的な土地開発が進められた.ヤマト王権の
支配以前の各地の履歴は文献としては伝えられていないものの,神話や伝承として伝えられて
いるものや現在の土地利用から推測できるものもある.これらの最初の河川への働きかけは,
社会的制約がない中で河川への働きかけが行われ,
自然淘汰の結果として残ったものといえる.
その意味で,古代の土地利用の変遷を研究することは,現在の治水安全度の向上や合理的な水
利用のために有益な情報をもっている.
33
2. 3 遠賀川流域他の戦国時代までの土地利用
2.3.1 はじめに
古墳時代までに,
土木施工技術の導入によって土地利用が拡大したことを,
前節で確認した.
先進の技術は朝鮮半島から導入されたものであり,地理,地質,地形の条件によって,土地開
発の進展に差異がみられ,地域には固有の文化が発達していた.しかし 600 年に初めて遣隋使
が派遣されると状況は一変する.中国大陸から律令制度が直接導入されるようになり,大和朝
廷を中心としたが行われるようになった.飛鳥時代から奈良時代にかけては,中央集権的な国
づくりが行われた時期であり,地方行政の整備は地域の土地利用に大きな影響を与えた.平安
時代になると貴族を中心に荘園開発が進み,鎌倉時代以降は武士による地域支配が強まった.
古代から中世にかけての社会変化については,歴史学,社会学の研究成果が多数出されてい
る.しかし,土地利用の変化について通史的にまとめたものはない.本節では,律令制度や荘
園開発に関する文献を整理し,土地利用の痕跡を遠賀川流域などの事例から確認しながら,土
地利用の進展を把握することを試みる.
研究の方法としては,地域の土地開発主体の変化に着目する.そこで,土地支配者の変遷か
ら,飛鳥時代から戦国時代までを次の 4 つ時代に区分する.それぞれの時代について,土地利
用に影響した東アジアの国際情勢と中央政権の土地制度をまとめ,土地開発の進展と現在への
連続性について考察する.
・飛鳥時代(7 世紀)
―――― 地方豪族の時代
・奈良時代(8 世紀)
――― 国司と郡司(律令体制)の時代
・平安時代(9~12 世紀)
――― 貴族(荘園開発)の時代
・鎌倉・室町・戦国時代(13~16 世紀)― 武士の時代
2.3.2 飛鳥時代(7世紀)
東アジアでは,律令国家による中国大陸の統一が,周辺諸国に大きな影響を与えた.最初の
隋の統一は 589 年,ヤマト王権が初めて遣隋使を送ったのは 600 年のことである.このとき使
者は,倭国の後進性を指摘され,帰国後から倭国は国家体制の整備を急いだとされる 47).
『隋書倭国伝』(600)
-開皇二十年,使者言倭王以天為兄,以日為弟,天未明時出聽政,跏趺坐,日出便停理務,
云委我弟.高祖曰此太無義理.於是訓令改之.
(使者は言った,倭王は天を兄,日を弟とし,天がまだ明けない早朝に政務を執り,日が
出たらこれを終えて弟に委ねるのですと.文帝は,道理に合わないと述べ,これを改め
させた)
34
628 年,隋に代わり,唐が中国を統一した.唐は
版図拡大に積極的で,軍事的圧力が迫った朝鮮半島
の三国(図 2-18)に動乱が広がった.高句麗,百済,
新羅ではそれぞれ内紛がおこり,国としての権力の
集中化が図られた.中でも新羅は,唐の律令体制を
取り入れた国家整備を進め,国力を高めた.結果と
して,唐と新羅の連合が 660 年に百済を,668 年に
高句麗を滅ぼし,新羅が 678 年に朝鮮半島を統一し
た.この国際紛争に倭国も巻き込まれ,663 年の百
済救済のための白村江の戦いで大敗した.7 世紀を
通じて,倭国は唐の律令体制を導入し,新たな国づ
くりに取り組み,
「日本」と称した 47).
7 世紀の新たな国づくりにおいて,土地制度に与
えた影響が大きいのは,孝徳天皇の大化改新と天武
天皇の仏教奨励である.
遣隋使や遣唐使を派遣したヤマト王権は,律令体
47)
図2-18 7世紀前半の朝鮮半島
制による政権の体制整備に取り組んだ.斑鳩宮や小
墾田宮の建設,冠位十二階,憲法十七条などである.土地制度については,地方豪族の支配か
ら,中央集権的な体制への転換が課題であった.その契機となったのは 645 年の大化改新であ
る.改新の結果,最大の豪族であった山城大兄王や蘇我氏が排除され,地方豪族の土地と部民
の支配が否定された.孝徳天皇により土地と人民を支配する公地公民制が採られ,地方豪族は
国-評-里制の評の管理者に任命された.評は,全国におよそ 500 あったとされる 47).
672 年の壬申の乱を経て,飛鳥に戻った天武天皇は,仏教思想による鎮護国家策を推進した.
飛鳥では飛鳥寺,大官大寺,川原寺などの大寺院が建立され,全国の評では寺院が整備された.
同じ時期に,地方豪族が祀るそれぞれの神社への奉幣,社殿の修理を命じている.伊勢神宮の
式年遷宮をはじめとして,
今に伝わる最も古い神祇祭祀は 7 世紀後半に始められたとされる 47).
これらは,旧来の地方豪族の秩序と,新しい支配体制を融合させる政策措置である.地方豪族
は,管理する評において,祖先を祀る神社と新技術を用いた寺院を併設していった.
『日本書紀(神社修復)
』(681)
-詔畿内及諸国.修理天社.地社神宮.
(畿内および諸国に詔して,諸の神社の社殿の修理をさせた)
『日本書紀(寺院奨励)
』(685)
-詔.諸国毎家,作仏舍.乃置仏像.及経.以礼拝供養.
(諸国に詔して,家毎に仏舎を作りて,乃ち仏像及び経を置きて,礼拝供養させた)
35
ここで 7 世紀に存在した土木施工技術に
ついて概観したうえで,仏教技術を取り入
れた古代寺院の立地について考察する.
7 世紀初頭には,朝鮮半島と共通する高
度な人力施工による土木施工技術が存在し
ていたことが明らかになっている.掘削や
築堤の技術が用いられ,溜池と用水路によ
る広域かんがい施設の建設が可能となった.
写真2-6 裂田溝の火砕流堆積物開鑿
河内の狭山池では,水田開発の適地が,沖
積地から洪積台地にまで拡大し,筑前の裂
田溝(写真 2-6)では,火砕流堆積物の岩
盤が用水路のために人工的に開鑿されてい
る 48).
663 年の白村江の戦いの前後には,西日
本各地に古代山城が建設されている.唐・
新羅の勢力が拡大したため防衛の必要が生
じ,図 2-19 に示すとおり,古代山城は九州
北部から瀬戸内沿岸に広く分布している 47).
写真2-7 大野城の百閒石垣
朝鮮半島に面する北部九州では,大宰府が
博多湾岸から内陸に移されるとともに,大
野城(写真 2-7)をはじめとする古代山城
が築かれた.鹿毛馬神籠石(写真 2-8)で
は,約 1,800 個の花崗岩の切石を約 2km に
わたって丘陵斜面に並べ整列されている.
御所ヶ谷神籠石(写真 2-9)では,約 3km
にわたって石垣や版築による城壁が建設さ
れている 49).
図2-8 鹿毛馬神籠石の列石
これらの施設建設には,労働集約型の土
木施工と高度な石材の加工技術が必要であ
る.地方豪族の古墳の横穴式石室に用いら
れた技術を基礎として,7 世紀に朝鮮半島
からをもたらされた最新築城技術の指導が
あったと考えられる.西日本各地に,高度
な土木施工技術が普及していたといえる.
写真2-9 御所ヶ谷神籠石の城壁
36
このような技術を保持していいた地方豪族に対して,中央政権は仏教奨励の一環として,基
壇,礎石,塔,瓦の技術を伴う寺院の建築を命じたのである.地方豪族は,支配する公民を使
役して,水田開発を進めていた,土地管理者の象徴として古代寺院を建設していった.図 2-20
に遠賀川周辺で確認された 7~8 世紀の古代寺院の分布を示す.
49)
図2-19 古代山城の分布
図2-20 7~8世紀の古代寺院の分布
37
7世紀後半の古代寺院としては,遠賀川流域に大分廃寺と上伊田廃寺(写真2-10, 2-11)があ
る50).
大分廃寺は,大分川左岸の台地上に立地している.周辺の水田のかんがいのためには用水路
が必要であり.図 2-21 に示すように,水源は大分川,および,流域を接する内住川から引か
れている.そして,同一の地域内に神功皇后伝説をもつ大分八幡が鎮座している.この地域の
水田は,用水路によって開発されたものであり,水田を支配していた地方豪族が神社と寺院の
双方を整備したものと考えられる.
上伊田廃寺は,松原川周辺の谷地形にある高台に立地している.図 2-22 に示すように,廃寺
周辺の谷はすべて水田化されており,用水は台地下の湧水や溜池によって供給されている.水
田に適した地形条件を備えており,松原川の拡幅による排水事業によって水田が拡大したもの
と考えられる.また上伊田廃寺は,上伊田廃寺は,中門,金堂,講堂と香春岳が一列に並ぶ構
造で,新羅の神を祀る香春神社との関連が深いとされる.
両廃寺の特徴は,水田開発の土木事業,地方豪族の祖先を祀る神社,および,中央政府の奨
励する寺院が一つの水田地域内にまとまっていることである.7 世紀の地方豪族の支配領域を
示すものと考えられる.
写真2-10 大分廃寺の礎石
写真2-11 上伊田廃寺正面の香春岳
図2-21 大分八幡と大分廃寺
図2-22 香春神社と上伊田廃寺
38
7 世紀後半の古代寺院について,神社を伴わない豊前の京都平野の事例を示す.
豊前国の上坂廃寺は,図 2-23 に示すとおり,豊津台地と祓川に挟まれた沖積平野に位置する
51)
.豊津台地は標高 70m 以下の低い台地で,南東斜面は祓川の浸食作用を受けて崖状になって
いる.崖下に見られる湧水は,写真 2-12 の用水路が受け皿となって,北上して祓川左岸の水
田を潤している.上坂廃寺は,この用水路に隣接して立地しており,水路の整備を行うととも
に,その機能を長期的に保持するために設置されたと考えられる.
表 2-6 に示すとおり,豊前の京都平野で確
認されている 7 世紀末頃の 3 つの古代寺院は
すべて水田へかんがい用水路との関係が深い.
また上坂廃寺については,用水路の約 3km 下
流で,古代官道と交わる地点に,8 世紀初頭
に整備された豊前国府がある.国府は用水路
を上水道として立地したと考えられる.ある
いは,豊前国府と上水道は一体的に 7 世紀末
写真2-12 豊前国府への上水道
頃に計画されたものと考えることができる.
古代寺院と総称される建築物は,水利施設の
管理事務所としての機能を持っていたため,
耐久性の高い瓦葺き構造で建築されたものと
考えられる.
これまで述べてきた 7 世紀の土地利用につ
いての分析をまとめる.
7 世紀には,律令体制に向けた土地制度の
試行が行われた時代である.西日本の各地で
古墳時代から続く地方豪族は,優れた土木技
術と従属する人々を保持していた.彼らは,
新たな国-評-里制に組み込まれ,評の管理
図2-23 豊前国府と上坂廃寺
者として公民を使役して,中央政府の政策に
沿って水田の開発と管理を行うようになった.
7 世紀には,中央政権が成立し,地方から
遠
賀
川
の納税が義務化された.納税のための,土地
開発の実権は,古墳時代以来の地方豪族が掌
握していといえる.土地開発と仏教奨励が連
京
都
平
野
動していた時代の古代寺院は,地方豪族が開
発した土地の管理権限を象徴するものであっ
たと考えられる.
39
表2-6 7世紀の古代廃寺
年代
水利施設
7世紀
内住川と大分
大分廃寺
末頃
川からの導水
7世紀
松原川周辺谷
上伊田廃寺
末頃
地の排水
7世紀
豊津台地南東
上坂廃寺
末頃
麓の集水
7世紀
御所ヶ谷尾根
木山廃寺
末頃
南麓の集水
7世紀
小波瀬川源流
椿市廃寺
末頃
からの分水
古代廃寺
受益地
大分川
左岸台地
松原川
周辺谷地
祓川
左岸平野
今川
右岸平野
小波瀬川
左岸平野
2.3.3 奈良時代(8 世紀)
8 世紀の前半は,唐を中心とした東アジア安定の時代であった.とくに則天武后の武周朝
(690-704)と玄宗皇帝の開元の治(713-741)の時代には,仏教思想による国家統治が行われ,首都
長安は国際都市として栄えた.この時代に日本から 4 回の遣唐使が派遣されている.留学生や
留学僧が,唐で学んだ技術や文化を積極的に日本に持ち帰った.しかし 8 世紀後半,安禄山の
乱(755)以降,唐の治安が乱れた.日本は,公式な遣唐使の派遣を控えるようになったものの,
日本と朝鮮半島の新羅,その北方の渤海との交易関係が維持されていた.国内では,中央集権
的な体制整備が進められた 52).
8 世紀には,都が平城京に遷され,日本の社会制度が段階的に定められていった.土地制度
の面では,藤原不比等の時代の大宝律令,聖武・孝謙天皇の仏教保護政策,および,天武天皇
による中央集権体制確立の時期はとくに重要である.
701 年,藤原不比等らが中心となって,大宝律令が完成した.地方行政として国-郡-里制
が定められ,国司には都の貴族が派遣され,郡司には在地の地方豪族が任命された.また,班
田収受と条里制が敷かれ,全国の公民に租調庸の税制が課されることとなった.都は長安を模
した平城京に遷され,
『古事記』
,
『日本書紀』
,
『風土記』の歴史書が作成された.唐から帰国し
た山上憶良,僧道慈,吉備真備,僧玄昉などの活躍によって,長安の繁栄と仏教の興隆が伝え
られ,唐の文化が積極的に受け入れられた 52).制度整備によって地方では,納税のための水田
開発と税収を都に送る交通の整備が重要になっていった.
8 世紀中頃の聖武・孝謙天皇は,唐の則天武后や玄宗皇帝の治世を先例として,仏教を鎮護
国家の基軸とした.天皇の施策は,仏教振興と墾田奨励を同時に進めたことに特徴がある.三
世一身法(723),国分寺/国分尼寺建立の詔(741),盧舎那仏建立の発願(743),墾田永年私財法(743),
盧舎那仏に三宝の奴として礼拝(749),有力寺院への墾田と開発権の付与(749)などである.さら
に称徳天皇の代には,寺院を例外とした墾田禁止令(765)がある.聖武天皇らが仏教への帰依を
示した目的は,国家体制と行為の正当性を仏教の教義に依存しようとしたためである 52).仏教
振興は有力寺院の優遇政策となり,寺院による初期荘園の開発というかたちで,地方の土地開
発が進められた.
8 世紀末の桓武天皇の時代は,唐の治安悪化から東アジアが混乱し,日本への影響が小さく
なっていた.
この時期に,
遷都と行政改革と版図拡大によって国内の中央集権化が進められた.
都は,平城京から長岡京に遷され(784),さらに平安京に再度遷された(794).新たな都は,淀川
水系によって琵琶湖や瀬戸内海の水上交通に接し,山陽道と山陰道が開かれて西国への陸上交
通の起点となった.地方制度では,勘解由使を設置して国司の管理を強化した.この時期に,
薩摩と大隅での班田開始,東北地方での胆沢城設置など,大和朝廷の支配権を拡大した
53)
.8
世紀のおわりに至って,平安京と諸国を連絡する古代官道が整備され,中央集権的な体制が完
成した.
40
上記の情勢を踏まえ,8 世紀の土地利用について分析する.対象とするのは,官吏や僧侶に
よる土木施工技術の一般化,土地私有の端緒となった初期荘園の開発,このころに顕在化した
洪水災害への対応である.さらに,8 世紀に整備された古代寺院の位置づけについて考察する.
中央政権への納税制度が定まったことにより,国司と郡司の監督の下,公民が生産したコメ
を備蓄する国府や郡家が整備された.また口分田を整備するために条里制が敷かれ,新たな水
田開発が促進された.このころに,土木技術を身につけた官吏や僧侶が,溜池や用水路の施工
技術の普及に活躍した.
『続日本紀』には,表 2-7 に示すとおり,僧道照,道君首名,僧行基の
功績が記されている.
僧道照は,遣唐使に従って唐に留学した僧で,唐の土木技術を直接学んだ第一世代の人であ
る.帰国後は,用水開発,渡し場設置,架橋などの事業を指導した.道君首名は,中央政府の
役人であり,肥後国や筑後国でかんがいのための水資源開発を指導した.土木事業を計画指導
は,官吏の資質の一つであった.僧行基は,道照の弟子とされ,近畿地方の築堤・架橋事業に
貢献した.彼の現場と道場からは,さらに多くの弟子が輩出した.全国に行基伝説が分布する
のは,後継者の活躍を示すものと考えられる.いずれにしても,この当時の水田開発に対して
民衆の感謝の念が強かったことが理解できる.
土木技術者
表2-7 『続日本紀』における土木技術者の活躍
業績
僧道照 (700)
文武天皇四年,道照和尚物化.・・・初孝徳天皇白雉四年.随使入唐.・・・於後周
遊天下.路傍穿井.諸津済処.儲船造橋.乃山背国宇治橋.和尚之所創造者也.
和尚周遊凡十有余載.
(道照和尚が死去した.・・・はじめ孝徳天皇の白雉四年(653)に,遣唐使に随
行して入唐した.・・・後に和尚は天下を周遊して,路の傍に井戸を掘り,各地
の渡し場の船を造ったり,橋を架けたりした.山背国の宇治橋は,和尚が初め
て造ったものである.和尚の周遊はおよそ十余年に及んだ)
道君首名 (718)
養老二年:筑後守正五位下道君首名卒.首名,少治律令.暁習吏職.・・・興築
陂池.以広漑灌.肥後味生池.及筑後往往陂池皆是也.由是.人蒙其利.于今
温給.皆首名之力焉.
(筑後守・正五位下の道君首名が卒した.首名は若くして律令を学習し,官吏
としての職務によく通じていた.・・・堤と池を構築し灌漑を広めた.肥後の味
生池および筑後の処々の堤池は,みな首名の設けたものである.これによって
人々はその利益を蒙り,今もその恩をうけているのは,みな首名の功績である)
僧行基 (749)
-天平勝宝元年, 大僧正行基和尚遷化.・・・既而周遊都鄙,教化衆生.・・・又
親率弟子等.於諸要害処,造橋築陂.聞見所及,咸来加功.不日而成.百姓至
今,蒙其利焉.
(大僧正の行基和尚が死去した.・・・はやくから都や田舎をあまねく廻って,
多くの人々を教化した.・・・またみずから弟子たちを率いて,諸所の要害の地
に橋を造り堤防を築いた.和尚の評判が伝わっている処の人々は,すべてやっ
てきて仕事に協力したので,日ならずして完成した.人々は今に至るまで其の
益を蒙っている)
41
班田収受の一つの転換点は,大寺院に土地の所有と開発権が与えられたことである.
『続日本
紀』によれば,749 年,聖武天皇の仏教振興の一環として東大寺,薬師寺,興福寺,法華寺な
どの 12 寺に墾田 100 町を提供し,さらに東大寺に 4000 町,国分寺などに 1000 町,下野薬師寺・
筑紫観世音寺などに 500 町などの墾田開発権を与えた.建立した盧舎那仏への礼拝直後のこと
であり,仏教寺院の権利を認めるとともに,墾田拡大で財政再建を図ったものとされる.権利
を得た寺院は,地方の郡司らの協力を得ながら,初期荘園の墾田に着手した 52).
8 世紀の遠賀川流域では,祖調庸などが大宰府の観世音寺に納入された碓井郷・金生郷や山
鹿郷の初期荘園が成立していた 54).また宇佐八幡神宮寺の瀬戸内海沿岸各地で荘園開発を行っ
ている.
墾田拡大政策の下で,国司や寺院が主導し,道君首名や僧行基が技術指導しながら,従来利
用されていなかった土地が次々に水田化されていった.ただし,かつての荒れ地や湿地は,洪
水や渇水を受けやすい土地であり,必然的に洪水被害が顕在化するようになった.とくに稲が
実る季節に台風洪水に襲われ,洪水による被害が顕在化してきた.そのため『日本書紀』と『続
日本紀』の技術において,750 年代から洪水被害の記録が増加したとされる 55).このような状
況を反映して制定された法令が,表 2-8 に示す 757 年に施行された『養老律令 56)』である.
「養老律令」の中で,大和朝廷は,洪水被害に対する復旧について制度化している.営繕令
第 16 条では,国司と郡司を大河川の堤防管理の責任者とし,常に巡視し,破損個所は農閑期に
修理するように定めている.田令第 28 条では,河川が氾濫し流路が改まった場合には,土地を
流された農民を新出の土地に移すこととされていた.この条は,河川氾濫を防ぐ術がなく,被
災農民は,洪水後に移住することが多かったことを示している.また農民の統制は,戸令第 1
条および第 9 条は,50 戸からなる里と 5 戸からなる隣保を単位とした.近隣の結束は強まり,
後の時代に続く地縁的結び付きの原型になったと考えられる.
条
営繕令16
-近大水条-
表2-8 『養老律令』における洪水被害への対応
条文
凡近大水.有堤防之処.国郡司.以時検行.若須修理.毎秋収訖.量巧多少.自近
及遠.差人夫修理.若暴水汎溢.毀壊堤防.交為人患者.先即修営.不拘時限.
(凡そ大水近うして,堤防有らむ処は,国郡司,時を以て検校せよ.若し修理すべ
くは,秋の収り訖らむ毎に,巧の多少を量りて,近きより遠きに及ぼせ.人夫を差
して修理せよ.若し暴水汎溢して,堤防を毀り壊りて,交に人の患為せらば,先ず
即ち修営せよ.時の限りに拘れず)
田令28
-為水侵食条-
凡田.為水侵食.不依旧派.新出之地.先給被侵之家.
(凡そ田,水の為に侵食せられて,旧の派に依らずして,新に出でむ地は,先ず侵
されたらむ家に給へ)
戸令1
-為里条-
凡戸以五十戸為里.毎里置長一人.掌.検校戸口.課殖農桑.禁察非違.催駈賦役・
(凡そ戸は,五十戸を以て里と為よ.里毎に長一人を置け.掌らむこと,戸口を検
校し,農桑を課せ植ゑしめむこと.非違を禁め察む,賦役を催し駈はむこと)
戸令9
-五家条-
凡戸.皆五家相保.一人為長.以相検察.勿造非違.
(凡そ戸は,皆五家相ひ保れ.一人を長とせよ.以て相検察せしめよ.非違造すこ
と勿れ)
42
8 世紀は,律令制度の成立とともに全国
の古代官道の整備が行われた時代でもある.
とくに北部九州では,7 世紀の軍事的緊張
に対処するため大宰府を中心とした官道網
が整備されていた.
8 世紀後半の古代寺院として,遠賀川周
辺には 3 箇所が確認されている 50).北浦廃
寺,浜口廃寺,および,菩提廃寺である.
図 2-10 に示すとおり,
浜口廃寺と北浦廃寺
は大宰府道に,菩提廃寺は田河道に近接し
ている.また,図 2-24 の菩提廃寺の事例に
見られるように,寺院周辺には水利施設が
なく,神社と並立していない.
図2-24 椿市廃寺
8 世紀の古代寺院は 7 世紀のものとは異
なる立地条件となっている.その理由とし
古代廃寺
て,設置の主たる目的は,水利開発ではな
表2-9 8世紀の古代廃寺
年代
古代官道
く,道路管理にあったからと考えられる.8
北浦廃寺
8世紀中頃
大宰府道
世紀後半には,古代官道を整備していから
浜口廃寺
8世紀中頃
大宰府道
数十年が経過しており,補修工事を繰り返
菩提廃寺
8世紀末頃
田河道
さなければ道路機能を維持することができ
目的
洞海湾沿岸
の道路保全
遠賀川渡船
の管理
仲哀峠の道
路保全
なかった.3 つの古代寺院が設置されたの
は,仏教奨励とともに,古代官道を技術的に維持する目的があったと考えられる.
このように 8 世紀は,律令体制に基づく土地制度が成立し,班田収受と条里制が行われた時
代である.全国は五畿七道,国-郡-里に分けられ,国司と郡司が置かれた.また,官吏や僧
侶による技術指導により,口分田を開発する農業水利技術が一般に広まった.8 世紀半ばには,
有力寺院による初期荘園の開発が始まった.水田が氾濫原にも広がり,洪水被害が顕在化した
時代でもある.8 世紀後半には,平安京を中心とする古代官道網が完成し,道路の維持管理が
行われた.
8 世紀の土地開発の主導者は,郡司となった地方豪族であった.彼らは,中央政府の政策に
基づいて,口分田や古代官道の整備と管理を行った.8 世紀の終わりには,中央集権的な国家
体制が完成し,各地方の土地開発は統一的な土地制度に従って行われるようになった.
43
2.3.4 平安時代(9~12世紀)
9 世紀に入ってから派遣された遣唐使は 2 回のみである.中央集権国家が完成したことで制
度面ではすでに多くのものが吸収されており,仏教や芸術など文化の摂取が主たる目的になっ
たためとされている.804 年の 遣唐使で渡唐した最澄と空海は密教を日本に伝え,838 年の 遣
唐使は琵琶,琴,囲碁などの貴族文化の成立に大きな影響を与えた.その後,公式な遣唐使は
中止されたが,唐,新羅,渤海との私的貿易や僧侶留学が継続された 53).
907 年の唐の滅亡から東アジアは大きく動揺した.926 年に渤海が契丹(遼)に滅ぼされ,936
年に高麗が朝鮮半島を統一した.967 年には,宋が中国大陸を統一し,貿易を重視した政策を
とった.この動乱の中でも,日本は安定を維持し,10 世紀末から 12 世紀にかけて,宋や高麗,
遼との貿易を続けていた 53).
平安時代の国内政治では, 858 年に清和天皇が幼くして即位し,政務後見として外祖父の藤
原良房が登用されてから,貴族が政治の中心となった.これ以降,朝廷の実験が天皇から摂関
に移り,身分の高い院宮王臣家の権力が強まった.院宮王臣家は,地方での荘園開発に積極的
に取り組むようになった 53).一方,9 世紀には,大規模な自然災害や疫病が日本列島に頻発し
た.富士山や開聞岳が噴火し,播磨,東北,東南海で大地震が発生した.さらに天然痘の流行
や台風,洪水の被害も頻発した.社会不安を反映して,現世の安定を願う密教が広まり,放生
会や御霊会などの厄除け祈念が年中行事とされていった 53).
地方の土地利用については,班田収受や戸籍管理が行われなくなり,国司が統括する公領と
有力な貴族や寺社が管理する荘園が並立するようになった.荘園について概観すれば,9 世紀
には荘園領主が直接関与する墾田地系荘園が拓かれ,10 世紀にはより権力の強い領主の庇護を
受ける寄進地系荘園が増加した.こうなると農民を対象とした班田収受が成立しなくなり,土
地の面積を単位とした税制へと移行することとなった.課税対象となる土地は「名」とよばれ,
この耕作と納税を請け負う有力農民は「負名」あるいは「田堵」と呼ばれた 53, 57).
9 世紀の大宰府管内では,観世音寺が遠賀川流域で開発した山鹿庄を管理する権利を認めら
れている 54).また,国司が有力農民から徴税する公営田制が施行されている 55).10 世紀には,
遠賀川流域の碓井郷,金生郷,長尾荘,高田庄などの荘園が観世音寺へ寄進されている.菅原
道真を祀った安楽寺天満宮にも,朝廷の保護を受けて土師庄や副田庄などの多くの荘園が寄進
されるようになった 54).
11 世紀に入ると,一定の領域の支配権を認められた領域型荘園が現れた.事例として,観世
音寺領碓井封と播磨国久富保を示す.碓井封では,観世音寺のもつ 151 町あまりの土地に国司
の検田使を立ち入らせない権利が,1014 年に認められた 58).久富保では,播磨国赤穂郡の秦為
辰が 1075 年に用水開発をして拓いた 50 町の水田に対し,開発者の管理権が認められた 59).い
ずれも四至牓示と呼ばれる目印によって境界明示した荘園が成立し(表 2-10, 2-11)
,荘園管理
者は事実上の領地をもつ在地領主となった.このように地方では,開発領主の居館を核として
田畑や山野河海を一体管理する領域型荘園が広まっていった.制度としては,1069 年の延久の
44
表2-10 長和三年(1014)の筑前国碓井封58)
長
和
三
年
二
月
十
九
日
北西南
限限限
北八岡
郷王并
境子小
岳峯
東山
際際
捌井
四拾封
東至弐田
限
歩佰
事伍
五
拾
里
壱
境
町
并
肆
大
段
溝
弐
佰
応
任
本
符
旨
免
除
観
世
音
寺
碓
表2-11 承保二年(1075)の久富保59)
承
保
二
年
四
月
廿
八
日
北西南
限限限
字長字
大尾法
蔵
師
多
崎
和
鷹
取
気
山
参歩
四拾危
東至弐下
限
丁壱
余所
字
字
童
多
堂
波
田
井
畝
北西南
限限限
字
大
蔵
山
字字
母童
祚堂
多
和
町歩
四弐危
東至段上
限
字壱
抽所
字
井拾
尾
捌
朝
町
路
余
当
作
伍
荘園整理令などで既設荘園
が容認され,1156 年の後白
河法皇の保元新制によって
在地領主が公認された 57).
12 世紀ころの福岡県の
主な荘園を図 2-24 に示す.
在地領主の自発的な土地開
発によって,可耕地全体に
荘園が広がっている.中で
も遠賀川中流域の粥田庄は,
犬鳴川,嘉麻川,彦山川の
合流点を中心に,筑前と豊
前にまたがる広大な荘園で
あった 61).これらの荘園を
実質的に支配していた在地
領主が武士化して源平争乱
を迎え,鎌倉時代以降の武
図2-24 福岡県の主な荘園60)
士の時代を迎えることとな
った.
このように 9~12 世紀の平安時代の土地利用の変化をまとめると,9 世紀には貴族や寺社に
よる墾田地系荘園の開発が盛んになり,10 世紀にはより有力な権力への寄進地系荘園が増加し
た.これに伴って,課税対象が農民から土地に変化し,土地の耕作と納税を請け負う有力農民
が現れた.11 世紀には,境界を明示した領域型荘園が現れ,事実上の領地を持つ在地領主が現
れた.12 世紀には,在地領主の存在が認められて武士化した.
9~12 世紀は貴族政治のもので荘園制が広まった.その過程を通じて,納税義務を負って実
際の耕作を行う,有力農民や在地領主などが自律的に土地利用を行うようになっていった.
45
2.3.5 鎌倉,室町,戦国時代(13-16 世紀)
13 世紀以降の東アジアでは,国際貿易が盛んに行われた.日本国内では,日宋貿易の進展に
よって宋銭が拡大した.1274 年と 1281 年の元寇があったものの,15 世紀には日明貿易が始ま
り,明銭が輸入された.国内では,輸入された貨幣が流通するようになり,物流が拡大し,手
工業や商業が発達した 62).
武士が政権を掌握した鎌倉時代から戦国時代までの,土地利用と税制をみると,荘園公領制
によって 12 世紀末までに,全国の土地開発が進んでいた.武士よって開かれた鎌倉幕府はこの
制度を継承し,御家人を守護・地頭として全国に派遣した.荘園や公領を単位として設置され
た地頭は,荘園公領制にしたがって荘園領主や国司への納税を担い,次第に土地の支配を強め
ていった 62).
室町幕府が開かれた 14 世紀ころ,日宋貿易によって貨幣の流通が広まり,商品経済が発達す
るとともに,年貢が米から銭に転換していった.農村では,農民のまとまりが強まり,地域の
利益を守ろうとするようになった.表 2-12 に示す 1367 年の播磨国矢野荘の事例では,名主が
連名して不作の年の年貢軽減を要求している.このような地縁的なまとまりによって惣村が形
成され,自治的に土地を維持管理するようになった.貨幣経済の浸透に伴って税の代銭納が行
われるともに,地縁的な惣村が農地を管理するようになった 62).
15 世紀の応仁の乱のころには,守護が,任国内の地頭や惣村と主従関係を結び,領国大名と
なっていた.大名は,領国の米収穫量を通貨に換算して,惣村に年貢を課す貫高制を採るよう
になった.戦国時代を経た 16 世紀末には,1590 年に全国を統一した豊臣秀吉が太閤検地を行
い,土地制度を一新した.これにより,収穫量を米で表す石高制が導入され,村の年貢を庄屋
がとりまとめて領主に納める村請制を定められた 62).
以上のことから,13~16 世紀の土地利用には,土地開発の拡大よりも,実際の管理主体の変
化による影響が大きく現れた.そして管理主体は,課税形態によって変転した.荘園公領制を
継承した鎌倉時代には,地頭となった在地豪族が荘園や公領の支配を強めた.やがて,税の代
銭納が進んだ室町時代には,納税する惣村が自律的な土地管理が行うようになった.これは,
太閤検地によって固定され,続く江戸時代へと継承されていった.
表2-12 貞治六年(1367)播磨国矢野荘園の損亡申状62)
る
に
当
庄
内
の
南
禅
寺
方
幷
に
ざ
る
の
条
,
不
便
の
次
第
也
.
而
き
中
す
と
雖
も
,
御
承
引
に
預
ら
右
,
大
損
亡
に
就
き
て
,
両
度
歎
46
夫
略
押
,
中
略
押
,
仏
道
名
略
押
,
四
郎
大
吉
守
名
略
押
,
末
重
名
(
地
頭
方
に
於
い
て
は
,
上
使
を
下
)
さ
れ
,
検
見
を
遂
げ
ら
れ
畢
ぬ
.
(
同
庄
の
傍
例
此
の
如
し
,
当
御
方
)
に
於
い
て
御
検
見
を
入
れ
ら
れ
)
(
ざ
る
の
間
,
作
毛
等
を
上
り
申
す
) (
の
処
也
.
仍
て
名
々
を
上
る
の
状
)
(
貞
治
六
年
九
月
件
の
如
し
.
略
就
き
て
上
り
申
す
名
々
の
事
主
・
百
姓
等
,
当
年
の
大
損
亡
に
東
寺
御
領
播
磨
国
矢
野
庄
名
矢
野
損
亡
の
申
状
貞
治
六
2.3.6 まとめ
飛鳥時代から戦国時代までの土地利用について,国際関係と土地制度の変遷に影響を考慮し
て分析した結果を表 2-13 に要約する.具体的な土地利用は,後続する江戸時代に引き継がれ
改変されているため,詳細に分析することは容易ではない.しかしながら,土地制度の変遷と
ともに,土地の実質的な管理者が移り変わっていく様子が確認できた.最終的には,在地で土
地を管理する者が主体者となり,自律的な土地利用が行われるようなったことが明らかになっ
た.
表2-13 土地課税形態の変化に対応した土地利用の変化
飛鳥
時代
7 世紀
奈良
時代
8 世紀
平安
初期
9 世紀
平安
中期
10 世紀
東アジア情勢
600 遣隋使の派遣開始
628 唐の中国統一
653/654/659 遣唐使の派遣
663 百済滅亡,白村江の戦
高句麗滅亡,新羅が半島統一
690-704 則天武后の周王朝
713-741 唐の玄宗の開元の治
(唐長安の都の繁栄)
702/727/733/752 遣唐使
755 安禄山乱(唐の治安悪化)
新羅が朝鮮半島に
渤海が日本海北岸に
804 最澄と空海の遣唐使
838 最後の遣唐使
私的貿易や僧侶渡海により
唐,新羅,渤海との交流
907 唐の滅亡,東アジア動乱
渤海(遼)を契丹が滅ぼす
新羅滅亡,高麗が半島統一
979 宋が中国統一,貿易推進
平安
後期
11 世紀
1019 刀伊の入寇
宋,遼,高麗との交易
平安
末期
12 世紀
日宋貿易,宋銭が流通
鎌倉
時代
13 世紀
南北朝
時代
14 世紀
室町
時代
15 世紀
戦国
時代
16 世紀
1274 文永の役
1279 元が中国統一
1281 弘安の役
1368 明の建国
日明貿易
倭寇の活動
1543 種子島に鉄砲伝来
中央政権の土地制度
地域の土地利用
地方豪族(評の管理者)が公民を支配
小墾田宮,斑鳩宮の整備など律令体制の準備
築堤用水(狭山池/裂田溝)の技術が完成
大化改新(645)で公地公民制と国-評-里制を実施
古代山城(大野城等)の土木技術が拡散
(人々の立場は,氏族の部民から天皇の公民へ)
地方豪族が氏族の神社と評の仏寺を整備
大野城,水城や古代山城を築造,壬申の乱(672)
(上伊田廃寺や大分廃寺などの古代寺院)
地方豪族への仏教奨励(689)と藤原京建設(694)
古代官道の整備
大宝律令(701)と平城京遷都(710)で律令制整備
郡司(地方豪族)が国府と郡家を整備
(班田収受と条里制,租調庸と出挙,国郡里制) 道君首名や僧行基が農業水利技術を指導
有力寺院の土地開発奨励(三世一身法(723),国 有力寺院が初期荘園を開発
(観世音寺,宇佐八幡神宮寺など)
分寺建立詔(741),墾田永年私財法(743))
※洪水被害が顕在化
中央集権の強化と版図拡大
(長岡京(784),平安京 (794) へ遷都,官道整備) 古代官道の管理(古代寺院を併設)
幼帝清和天皇即位(858)から藤原氏が政治後見
国司が公営田を開発
災害頻発(地震,噴火,台風,洪水,疫病)
寺社貴族が荘園(墾田地系)を開発
(放生会,御霊会などの寺社年中行事始まる) 実際の開発行為は農民
(最澄の天台宗,空海の真言宗の密教広まる) (祇園神社が各地に勧請)
摂関政治の徴税制度
国司が有力農民に直接課税
・負名制度(国司が名単位で農民課税)
荘園(寄進地系)を有力農民が耕作
・荘園寄進(有力な寺社貴族が課税)
有力農民(田堵)の力が強まる
(観世音寺への荘園寄進)
平将門の乱 (939)など土着貴族が反乱
藤原道長・頼道の摂関政治全盛(995-1068)
境界(四至)明示された領域型荘園が現れる
延久荘園整理令 (1069)で荘園と公領が明確化
在地領主(下司や郡司/郷司)が領域管理
領域内では名を管理する名主の力が強まる
白河上皇の院政が始まる (1086)
(観世音寺領碓井庄に不入の権)
地方武士団が成長し,武家棟梁の力が拡大
保元新制(1156)で開発領主を容認
公領,荘園ともに,
平清盛,太政大臣に(1176)
在地領主が領域支配,名主が土地管理
源頼朝の鎌倉幕府成立(1192)
国司/荘園領主-在地領主-名主の関係定着
在地領主(御家人)を関東の守護,地頭に
承久の乱(1221),守護,地頭を全国に展開
地頭の土地支配が始まる
地頭が名主から徴税,国司/荘園領主に納税
守護/地頭が治安,国司/荘園領主の権利維持
自らも土地を開発
永仁の徳政令(1297),困窮した御家人の救済
名主を中心に自治運営
建武の新政(1333),天皇-国司への回帰
地縁的な惣村が発生,
(播磨国矢野荘名主百姓等連署申状)
室町幕府の成立(1336),守護大名の権力拡大
守護が地頭や惣村を組織化し領国大名に
南北朝合一(1392),日明貿易盛んに
正長の土一揆(1428),嘉吉の徳政一揆(1441)
商品経済が拡大し,年貢の銭納化が進む
応仁の乱(1467) 幕府体制崩壊,荘園制の解体
農民の困窮,酒屋・土倉を襲う一揆が発生
山城の国一揆(1485),加賀の一向一揆(1488)
惣村の組織力強化,
年貢請負
※村落自衛
室町幕府滅亡(1673)
戦国大名は,不輸不入を認めず荘園制崩壊
豊臣秀吉の天下統一(1590)
太閤検地で村に農地所有権と納税義務
年貢村請など,村の自治は江戸時代へ存続
刀狩令と太閤検地,兵農分離,一揆抑制
47
表2-14 課税対象の変化による土地管理者の変化
課税制度
土地に関する課税対象
土地の管理者
7~8 世紀
公地公民制
口分田の公民
地方豪族(郡司)
9~12 世紀
荘園公領制(貴族)
荘園・公領の面積
在地領主と有力農民
13~16 世紀
荘園公領制(武士)
惣村の評価額へ
地頭と惣村(名主層)
17 世紀~
石高制・村請制
村の米収穫高へ
村(庄屋層)
・飛鳥時代(7 世紀)には,大和朝廷の土地に対する税制が定められた.古墳時代から続く地
方豪族が地方行政に組み込まれ,公民を使役して,水田を開発し管理し,納税した.
・奈良時代(8 世紀)には,班田収受と条里制が行われ,郡司となった地方豪族が口分田や官
道の開発を行った.農業水利技術が普及し,水田が氾濫原に拡大,洪水被害が顕在化した.
・平安時代(9~12 世紀)は,貴族政治の下で荘園領主/国司が荘園や公領在に課税する荘園公
領制がとられた.また領域型荘園が現れ,在地領主と有力農民が実質的に土地を管理した.
・鎌倉~戦国時代(13~16 世紀)は,武士の治世で,課税形態が変化し,実質的な土地の管理
者が変転した.当初は荘園や公領に置かれた地頭の支配力が強く,貨幣経済が浸透すると自
治的な惣村が納税を請け負い,村請制は太閤検地を経て江戸寺に引き継がれていった.
飛鳥時代から奈良時代にかけては,国の税制が定まって墾田開発が奨励され,土地開発が盛
んに行われ,可耕地が水田化していった.平安時代に荘園が広がってからは,新規開発は減少
し,土地の管理主体の変転によって土地利用の形態が変化した.土地管理に影響を与えた課税
形態の変化を表 2-14 に要約する.全体の流れとして,7 世紀から 16 世紀にかけて,土地の管
理者が,
実際の土地の耕作と納税を行う地域共同体へと変化している.
この流れを引き継いで,
17 世紀以降の江戸時代の土地利用の基礎が形づくられた.
一方,現在社会にも引き継がれている地域防災の観点からみると,地域防災の自衛的なしく
みは,土地利用の変化の過程で生まれたものといえる.6 世紀までの古墳時代には,沖積地の
外縁部が開発適地であり,比較的安全性の高い土地利用が行われていた.7 世紀以降の墾田開
発のため氾濫原が水田化されていき,8 世紀には洪水被害が顕在化したため,人々は常に洪水
リスクとともに生活するようになった.これが現在の「自助」の始まりといえる.さらに 13
世紀以降に地縁的なまとまりが強くなると,地域で洪水被害を対する自己防衛が行われるよう
になった.これが水防の始まりであり,
「共助」であるといえる.
48
2. 4 遠賀川流域における江戸時代の河川改修
2.4.1 はじめに
日本の河川流域では,水田開発を主たる目的として,戦国時代までに土地と水資源が最大限
に開発された.江戸時代に入ると大規模な土木事業が行われ,利根川東遷のように河川は人為
的な改変を受けている.本節では,遠賀川下流域を対象として,河川の改変の過程を分析する.
江戸時代は多くの文献資料が残されており,事業年の特定が可能なものが多い.ただし,個
別事業についての記録ばかりであり,河川全体として改修の経緯を把握できるものがない.そ
こで,まず遠賀川で行われた河川改修を時系列的に表 2-15, 2-16 のとおり整理した.この中か
ら,規模の大きな河川改修を抽出し,その目的について,事業当時の地形的な制約や,現在の
利用状況を踏まえて考察する.
対象とする事業は,1612 年から 1628 年にかけて行われた遠賀川本線の洪水対策,1600 年代
後半に行われた流入支川の水資源開発,17 世紀前半の低湿地の排水対策,17 世紀後半の遠賀堀
川の開削である.
西暦
和暦
1589
1592
1594
1600
1601
1605
1611
1612
1620
1621
1623
1628
1638
1653
1654
1656
1658
1659
1660
1664
1666
1671
1672
1673
1679
1685
1689
1699
1700
天正 17
文禄 1
文禄 3
慶長 5
慶長 6
慶長 10
慶長 16
慶長 17
元和 6
元和 7
元和 9
寛永 5
寛永 15
承応 2
承応 3
明暦 2
万治 1
万治 2
万治 3
寛文 4
寛文 6
寛文 11
寛文 12
延宝 1
延宝 7
貞享 2
元禄 2
元禄 12
元禄 13
表 2-15 江戸時代の遠賀川の土木関連のできごと(その 1)
遠賀川の土木関連のできごと
豊臣秀吉の九州平定,黒田長政が豊前(企救,田川を除く)入国
文禄の役,遠賀川河口に軍船集結
利根川東遷事業開始 (会の川締切,赤堀川開削)
関ヶ原の戦い,黒田長政が筑前入国
福岡城築城開始(年貢は福岡永蔵納め)
,芦屋で石船 100 艘 (江戸城石垣御手伝い)
慶長の大洪水
筑前六宿(黒崎宿,木屋瀬宿,飯塚宿,内野宿(翌年追加),山家宿,原田宿)の整備
慶長の御牧川普請(治水大計)
元和の大洪水
堀川開削に着手
黒田長政病死,堀川普請は沙汰止み,東蓮寺(直方)藩設置
埴生~広渡(左岸)と中間~古賀(右岸)の築堤,島津・猪熊の間に荒水吐の開削
底井野に御茶屋
熊手村六人浜の干拓
福岡藩主第三代黒田光之が相続
花の木堰着工,金丸用水着工(失敗)
花の木堰完成
山田川完成(遠賀川下流左岸にかんがい用水供給)
下大隈の東河道の開削(中間中島の形成)
御牧川から遠賀川に改称
犬鳴用水第二次工事始む
黒崎に入船築立
河村瑞賢,西まわり航路開く
福岡藩,知行制から蔵米制へ,本城村松ヶ鼻と船ヶ浦の干拓
黒川尻に山田井手(遠賀川下流右岸の中間,二,伊左座,下二,立屋敷に用水供給)
荒水吐の拡幅 (島津村と猪熊村の分離)
福岡藩財政困窮で上米制,秋月藩蔵屋敷を山鹿から黒崎へ
遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の年貢米を芦屋納めに
このころ洞海湾の海士住干拓,本城干拓,穴生干拓
49
西暦
1705
1709
1716
1717
1720
1726
1732
1733
1736
1737
1738
1739
1744
1745
1748
1750
1751
1755
1757
1759
1762
1763
和暦
宝永 2
宝永 6
享保 1
享保 2
享保 5
享保 11
享保 17
享保 18
元文 1
元文 2
元文 3
元文 4
延享 1
延享 2
寛延 1
寛延 3
宝暦 1
宝暦 5
宝暦 7
宝暦 9
宝暦 12
宝暦 13
1766
1772
明和 3
明和 9
1774
1790
1791
安政 3
寛政 2
寛政 3
1804
1808
1816
1823
1828
1837
1840
1843
1847
1850
1862
文化 1
文化 5
文化 13
文政 6
文政 11
天保 8
天保 11
天保 14
弘化 4
嘉永 3
文久 2
表 2-16 江戸時代の遠賀川の土木関連のできごと(その 2)
遠賀川の土木関連のできごと
鴻池善右衛門が大和川付け替え跡地に鴻池新田を整備
貝原益軒の「筑前國續風土記」
鴻池善右衛門が福岡藩大坂蔵屋敷の掛屋に就任
遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の年貢米を修多羅(若松)納めに
若松修多羅に新永蔵
霖雨洪水となり遠賀川水溢れる
享保の大飢饉,福岡藩の餓死者 10 万人
福岡藩に大坂米回送,幕府から借り入れ 2 万両
長崎街道のルート変更 (赤地川渡経由から直方市街経由に)
苗代谷隧道(洞海湾導水)着工
苗代谷隧道(洞海湾導水)断念,洞海湾の藤田干拓
福岡藩の蔵元に大坂鴻池善右衛門 (遠賀川四郡の年貢米はすべて大坂直送に)
古賀~猪熊(右岸曲川の分離)と広渡~島津(左岸西川の分離)の築堤
本城村御開干拓の造成開始
下大隈の白水道(本川旧河道)の築留
古賀村の旧遠賀川の築留,御開干拓の造成完了,若松港の修築
堀川,車返の試し掘り
堀川,車返の切貫に着手 (幅 7 間)
堀川,河守神社を勧進
堀川,車返の切貫完成
堀川,中島水門通水,熊手干拓,堀川樋門が被災し一田久作を吉井川樋門調査に派遣
惣社山唐戸完成,東井手設置※1,御開干拓の完成,岡森井手の築き立て(失敗)
※1 中間,岩瀬,二,下二,吉田,頃末,伊左座,立屋敷,朳,古賀,猪熊,折尾,本城,御開,陣原,則松の
16 村に送水
西井手設置
感田村庄屋渡辺善吉,岡森井手を設置※2
※2 赤地村,下境村,頓野村,木屋瀬村,楠橋村に送水,余水は遠賀掘川へ
岡森井手掛り七村,寸志米 500 俵を小倉藩領に上納
堀川に流入する笹尾川の水門を改修
塩田堰を設置※3
※3 広渡村,木守村,下底井野村,島津村,若松村,鬼津村,小鳥掛村,尾崎村,今古賀村,別府村に
送水
寿命の唐戸完成 (堀川水運の完成)
西川河口部の開削
焚石会所を芦屋,若松,山鹿に設置
青柳種信ら「筑前国続風土記拾遺」を概成
文政の大洪水
焚石会所作法書(石炭の藩専売化)
天保の大洪水
彦六塚の築堤
弘化の大洪水
庚戌の大水害
青柳種継らの「筑前国續風土記拾遺」が完成
50
2.4.2 遠賀川本川の直線化
遠賀川流域は,筑前・豊前の 2 国に分かれているが,河口から流域の大部分を含む筑前国に
は,関ヶ原の戦いで功あった黒田長政が 1600(慶長 5)年に入国してきた.その翌年に福岡城
の築城が始まってから,藩単位の計画的な土木事業が行われるようになった.遠賀川の改修が
行われる前の河川の流路を図 2-26 に示す.
江戸時代初期の遠賀川の様子については,
福岡藩に仕えた儒学者貝原益軒が 17 世紀末に表し
た表 2-17 の『筑前國續風土記 63)』が参考になる.その「岡湊」の条によれば,かつての遠賀
川河口は外洋船が進入可能であったが,
『續風土記』のころには水深が小さくなっている.この
原因は,
「犬鳴山」の条に見える源流域の山林荒廃にあると考えられる.福岡藩では,長政入国
の翌年から福岡城と城下町の建設が始められた.福岡に近い犬鳴川源流域からは多くの木材が
供給されており,過剰伐採の結果として多量の土砂が河川に供給された.1605(慶長 10)年に
は,大洪水が発生しており,流出土砂は河道全域において河床を上昇させ,河口域は閉塞傾向
になったものと考えられる.
図 2-26 江戸時代当初の遠賀川(および詳細検討図の範囲)
63)
表 2-17 『筑前國續風土記 』より岡湊
岡湊
蘆屋のみなとなり.
(中略)文禄元年(1592),秀吉公朝鮮に軍勢を渡し玉ひける時,此港に船をあつめて渡海
させらる.池田備中守長吉其の事を司どれり.此港,近き世まで三頭の上,猪熊の邊まで入海ふかくして,大
船滞りなく上下せしと云.今は然らず.
犬鳴山
脇田村より川にそふて登る.石多くして路あやうし.此山をすべて火平と云.高山也.むかしは美材多く麻
のごとく立て,白晝といへども闇かりしが,今は材木すくなし.此地にて近年炭をやき,紙をすき,瓷器を作
る.船の櫓柁等も此山よりいづ.
51
(1) 洪水流の放水路
遠賀川下流域の氾濫原は洪水常襲地帯であり,
水田耕作や陸上交通には不適切であった.
1611
(慶長 16)年に整備された長崎街道が,黒崎から南転し,木屋瀬,飯塚へと向かうのは氾濫原
道路整備を避けたことも一因と考えられる.そこで遠賀川の抜本的な治水対策として,1612(慶
長 17)年に黒田長政が示したのが,表 2-18 の『御牧川治水大計 64)』である.
『大計』の各工区
を図 2-27 に示す.
『御牧川治水大計』の工区のうち,最下流にあたるのが「芦屋新掘」である.
河口の流下能力の拡大は,洪水時の氾濫原全体の水位低下のために重要であり,最初に着手さ
れた工区であろう.
64)
(面積,人数見積もり,工区名のみ抜粋)
表 2-18 『慶長の御牧川治水大計 』
芦屋・はふ・ならつ其外川筋の分
一 二千五百五十坪 人数五千百六人 芦屋新堀
一 二千百坪 人数一万五百人 はふ
一 二百拾坪 人数八百四拾人 同所うらの山堀切
一 三百坪 人数千弐百人 そこいの山の堀切
一 千七百四拾坪 人数三千四百八十人 植木前堀川
一 千三百四拾坪 人数五千三百六拾人 あかちの前堀切の時,あけ置土取の一日分
一 五千八百五十坪 右五郡の百姓人数一万千七百人
おさきのまる山堀切の上より,たうれん寺前までの新堀
一 千百坪 五郡の百姓人数三千三百人 ひやうたん橋より,山崎迄の間こむ田
一 二千九百坪 奉公人人数八千七百人 山崎のいけより,ならつの古川まで
一 六百坪 奉公人人数千八百人 ならつのいけの間
一 三百坪 奉公人人数九百人 ならつの上いけの間
一 ならつの大まかりより,いけまでの間 千九百五十坪 人数五千八百五拾人
以上
慶長十七年(1612)後十月十九日
長政 印
図 2-27 『御牧川治水大計』の工区
52
後続する「埴生」
,
「埴生裏の山堀切」
,
「底井野山の堀切」
,
「植木前堀川」については,遠賀
川の沖積平野に西側を流れていた本川河道を,東側に付け替える事業である.このうち「埴生」
工区は,埴生神社下から芦屋に向かう直線河道であり,約 5km の砂質沖積層の掘削工事である.
工事の難易度は低いものの,土工量が大きいために 1 万人以上の人足が見積もられている.
「埴生裏の山堀切」と「底井野山の堀切」では,砂岩質の岩盤掘削を伴う工区である.こ工区
の区間の地質は福智山系から埴生に連なる洪積層が尾根上に延びており,砂岩が一部露頭して
いるため工事には岩盤掘削が必要であった.そのため,合わせて約 1km の比較的短い工区なが
ら,上流側と下流側の 2 工区に分け,同時施工を行ったものである.なお岩が露出するこの工
区では,
明治時代以降に,
筑豊本線遠賀川橋梁や新日鐵取水堰の横断工作物が建設されている.
次の「植木前堀川」とは,黒川と笹尾川などの右支川の扇状地を迂回していた遠賀川を埴生
へと直接導く河道付け替えである.
「赤地の前堀切」
,
「東蓮寺前までの新掘」は,場所の特定が
できないものの,遠賀川と彦山川が乱流していた直方付近の河道を固定し,
「植木前堀川」に導
く工事であったと考えられる.
これらの工区名を比較すれば,沖積地の土工区間のことを「掘り」
,
「新掘」
,
「堀川」とし,
岩盤掘削を伴う難易度の高い工事区間のことを「山の堀切」と呼んでいたものといえる.また,
掘削後の「山堀切」の区間は,平水時の流量を本来の河道に流し,洪水に新たな放水路に流量
を導く自然分流を行う河川管理施設となった.
(2) 放水路の拡大
本川河道の直線化後の 1620(元和 6)年にも遠賀川下流域に洪水被害が発生し,これを黒田
長政自身が視察した.この洪水では,遠賀川の掘削河道の河道断面が十分でなく,それまで洪
水経験が少なかった埴生付近で氾濫したためと考えられる.そこで洪水分派のために,表 2-19
の放水路建設が事業化された.
遠賀堀川の工事は 1621(元和 7)年からただちに始められたが,翌々年に長政の死をもって
中止された.この間に,中間側と折尾側の砂質土壌の掘削工事は進捗したものの,緻密な砂岩
からなる分水嶺の開削に失敗したためである 2).ただし掘削が成功したとしても,川幅は約 7m
であり,遠賀川の洪水流量に対しては放水路としての効果は小さかったと考えられる.放水路
としての遠賀堀川は,その後再開されることはなかった.
その代替措置として,
表 2-20 のように遠賀川の両岸に連続堤防が築かれることとなった.
『治
水大計』の「埴生」工区の約 5km について,左岸側に埴生から広渡まで,右岸側に中間から古
賀までの堤防が 1628(寛永 5)年に完成した.併せて同年に,築堤区間の下流に直線的な放水
路の「荒水吐」が開削され,さらに 1665(寛文 5)年に拡幅されている 65).
一連の河川改修を図 2-28 に示す.新たな放水路は,洪水時の河川水位を低下させ,氾濫原の
水田の洪水冠水時間を短縮する機能をもち,コメ生産への洪水被害を軽減する施設であった.
本来の河道には,従来と変わることなく,氾濫原にある水田のための平水時の利水機能を担っ
ていた.放水路建設は,遠賀川下流域の治水と利水のバランスがとれた改修事業であった.
53
62)
表 2-19 『筑前國續風土記 』より遠賀堀川と遠賀川
遠賀堀川
遠賀郡は土地ひきく大河有て,霖雨の時は河水夥しくみちあふれ,恰海の如し.水災しげくして五穀損じ,
土民なやめるよし,昔時長政公聞給ひ,元和六年(1620),みづから彼地に両度至りて,地形を察し,底井野村
の下にて,本川筋より東の方に新川を掘,遠賀川をみちびきて,吉田折尾村を過,長崎に出て,海に入らば水
勢二にわかれ,其上ひきき方にはやく流れ落て,洪水の災なく,殊に蘆屋にゆかずして,吉田より直に黒崎に
船通りなば,嘉摩,穂波,鞍手の諸郡よりも,運漕容易して自由ならん.然らば諸人の便り宜しかるべし.本
川半は蘆屋に流れば,蘆屋への運漕の妨にも成まじとて,上意をうかがひ,野口左兵衛,原彌左衛門,野村勘
右衛門を惣司とし,伊藤次郎兵衛,浦上德太夫等を下司として,翌七年(1621)正月十四日より掘初め,同九年
まで三年ほり,五月と九十月は民の隙なく,霜月臘月は寒甚しければ,毎年正月より四月まで六月より八月ま
でこれをほる.中間村より岩瀬まで,吉田の山間より折尾の境内までほりて過半すでに出来しかども,元和九
年(1623)の秋,長政公卒し給ひて後,其功ならずしてやみぬ.右の中間より岩瀬の間の掘今にあり.吉田と折
尾の山間のほり,池となりてなほ残れり.
62)
表 2-20 『筑前國續風土記 』より遠賀堀川と遠賀川
遠賀川
此川の源は嘉摩郡桑野より出.其外所々の山谷より出.又豊前田川郡よりも流出る.國中にては第一の大河
なり.此川蘆屋に至りて海に入.故に蘆屋川とも云.川上には渡守所々に在て,
(木屋瀬土生下境赤地等也)舟
にて人を渡す.東は中間村より古賀まで,西は土生より廣渡まで,大河の両わきに五十町許の土堤あり.寛永
五年(1628)に國主忠之公の命をうけて,下見孫左衛門,馬爪源右衛門是をつけり.此堤の間を大河流る.此川
蘆屋より潮入て,土生村まで三里半のぼる.遠賀郡土地ひきき事是を以て知べし.土生村より上には潮上らず.
図 2-28 遠賀堀川計画と遠賀川の流下能力強化
54
2.4.3 流入支川のかんがい用水開発
遠賀川の河道付け替えによって,氾濫原の土地の治水安全度が高まった.これを水田利用す
るための水資源開発が引き続いて左右岸で行われている.左岸の山田川用水と右岸の黒川用水
の開発である.
(1) 左岸の山田川用水
遠賀川の新河道の設置によって,
白水道と呼ばれた旧河道の周辺では新たな水田開発が進み,
新たなかんがい用水が必要となった.そのために,新たなかんがい用水として設置されたのが
山田川である.表 2-21 の『鞍手郡誌 66)』が伝えるとおり,山田川は花の木堰を水源とするか
んがい用水路(写真 2-13)である.万治二年(1659)年の完成とされるが,堰の集水域はごく狭
かったため,犬鳴川を付け替えるかえることで渇水流量の確保を図ったと考えられる.表 2-22
の『香井田村合併記念誌 67)』にあるように,年代は明らかにされていないものの,東流して嘉
麻川に合流していた犬鳴川が,北方の花の木堰へと転向している.源流域からの土砂流出で河
床が上昇していたことに加え,人為的な流路変更が行われたと考えられる.また,嘉麻川周辺
は水の豊富な沼沢地であり,
犬鳴川の付け替えは水はけを改善する効果があったと考えられる.
66)
表 2-21 『遠賀郡誌 』より山田川
山田川は鞍手郡植木町に於て,若宮川(犬鳴川)に石洗堰を設け,其水を引用したものにして,遠賀,鞍手
共同の灌漑水路なり,鞍手郡植木より,同郡古月村大字木月を過き,本郡底井野村大字下大隈,上底井野,中
底井野を経て,浅木村大字下底井野の中央より大字木守を過ぎ,嶋門村大字廣渡及今古賀に至る,本川は万治
二年(1659)の創設にして,植木川口より浅木村木守字古観音石唐戸など,長さ五千三百八十四間なり.
67)
表 2-22 『香井田村合併記念誌 』より犬鳴川
犬鳴川は昔時は宮田町から本城田淵を經て今の直方町より津屋崎に通する縣道附近に沿ふて龍德に流れ,龍
德から右曲して鶴田區流浪を經て尾勝に至り遠賀川に注ひで居たものであるが,慶長年後黒田國主が本域内の
一大耕地整理を行ふ事となつた後水流漸次變じ現在の如く本城の南部を流れて龍德を貫き新入村を經て遠賀川
に注ぐに至つたのである.
写真 2-13 現在の花木堰,山田川用水および遠賀川
55
(2) 右岸の黒川用水
山田川用水の開発に並行して,遠賀川の新河
道の左岸の治水対策の強化が図られた.
1660
(万
治 3)年には,
「底井野山の堀切」工区の東に「新
川堀通し」と呼ばれる一本の河道が開削された
64)
.これにより,新河道の洪水流量が増大,掃
流力が高まって河床が低下し,塩水遡上が見ら
れた.表 2-20 の『續風土記』によれば,塩水
は埴生にまで達しており,新河道の右岸では,
かんがい用水を黒川から補給する対策が取られ
た.工事は延宝七年(1679)に始まり,黒川に井
手を築いて惣社山の尾根を 50 間ほど掘り抜い
て給水したとされている 64).黒川は図 2-29 の
元祿十四年(1701)の筑前
國絵図にも表記され,現
在の流路と一致している.
しかし,黒川の流路は
本来の自然河道ではない
と判断できる.図 2-30
に示すとおり,遠賀川合
図 2-30 黒川新旧河道の縦断勾配の比較
図 2-31 黒川と笹尾川の新旧河道
56
68)
図 2-29 『筑前國絵図(元禄十四年(1701)) 』
流点から 1.0~2.5km の黒川は河床勾配がなく,平坦である.図 2-31 の位置図でも,扇状地地
形から右へ屈曲する線形は不自然である.井手をかけた時期に人為的な流路変更が行われたと
考えられる.同様に笹尾川についても,本来の扇状地から外れて,低い尾根と黒川扇状地を横
切っており,黒川と同じ時期に付け替えられたと考えられる.
(3) 中間中島の形成
山田川用水と黒川用水が整備された結果,図 2-32 に示すとおり,山田川用水路と黒川用水路
の集水域は,遠賀川の左右岸全体に広がっている.遠賀川の新旧河道の分派点は,2 本の人工
水路によって中間中島が島状の地形
(写真 2-14)となって残されている.
これにより,遠賀川の新河道が流域
の排水を受け持ち,流入支川から左右
岸のかんがい用水を供給する合理的な
土地利用が行われるようになった.17
世紀の一連の河川改修は,遠賀川下流
の沖積平野の土地と水資源は最大限に
利用するためのものであった.
写真 2-14 現在の中間中島と遠賀川
図 2-32 山田川用水と黒川用水の集水域
57
2.4.4 低湿地の水田開発
江戸時代前半の海運を中心とした交通インフラの整備は,各藩の財政政策と土地利用を一変
させた.特に西日本においては,1672(寛文 12)年の西まわり航路の開設によって,商業都市
大坂を中心とする商品経済圏が拡大した.西国各藩は大坂市場での主力商品となるコメ増産の
ため,新田開発に力を入れている.
(1) 洞海湾の干拓
福岡藩が遠賀川流域で取り組んだのは,遠浅で波の静かな洞海湾の干潟である.ただし干拓
事業による新田開発を成功させるためには,土地の開発とともに,土中の塩分を押さえるに足
る十分なかんがい用水の補給が必要である.図 2-33 に示すように,1700 年ころの洞海湾沿岸
では,海士住,本城,穴生の干潟が干拓された 69).これらのかんがい用水の水源は,払川と金
山川に求められ,流域面積の大きくない両河川では,同時期に積極的な溜池開発が進められた
と考えられる.そして 17 世紀末に干拓事業が一旦収束するころには,流域で利用可能な水資源
を利用し尽くしていたといえる.
この後,福岡藩は大坂との結びつきを強めていく.大坂蔵屋敷では,1716(享保 1)年ころ
から両替商鴻池善右衛門が蔵米の出納を担当するようになった 70).1720(享保 5)年には大船
が着岸できる若松港が整備された.大坂に運んで売りさばくため,若松の蔵屋敷に遠賀川流域
の遠賀・鞍手・嘉麻・穂波の 4 郡の年貢米が収納されることとなった 71).これにより,遠賀川
から江川を経て若松に至る定期水運航路が開かれた.しかし江川は干潮時には航行できず,輸
送力が制約されていた.
図 2-33 洞海湾の干拓(
『若松市史
58
69)
』より作成)
(2) 西川と曲川の付け替え
福岡藩では,1720(享保 5)年の洪水,1724(享保 9)年の風水害,1729(享保 14)年の旱
魃と洪水と自然災害が頻発した.さらに,1732(享保 17)年に享保の大飢饉が発生し,藩財政
は危機的な状況に陥った.そのため,大坂の鴻池の資金力に依存して財政再建が図られ,1739
(元文 4)年には遠賀川流域 4 郡の年貢米はすべて大坂に直送されることとされた 72).この後,
1705(宝永 2)年の大和川付け替えによる鴻池新田の開発 73)と同様に,遠賀川最下流の西川と
曲川の付け替え事業が進められた.
西川と曲川の改修は,遠賀川からの逆流を防止するとともに内水を排除する事業である.そ
のため,図 2-34 に示すとおり,1744(延享 1)年から,最下流の放水路であった荒水吐が拡幅
され,遠賀川の左右岸の堤防が延長された 65).これに伴い,中間中島の洗堰が 1748(寛延 1)
年に締め切られ,旧河道の白水道からの西川への洪水流入が遮断された 64).次いで 1750(寛延
3)年に,古賀の排水樋門が締め切られ,遠賀川から分離された曲川は旧河道によって河口に導
かれた 64).一連の河川改修によって,西川と曲川の水位低下が図られ,沿川の水田化が可能に
なった.結果として遠賀川の河口から 10km の間は,両側に堤防を持つ直線的な河道となった.
西川と曲川の付け替えは,遠賀が下流に最後まで残されていた低湿地の水田開発であった.
これによって,本線付け替えに始まった河川改修が,140 年を要して完成した.1750 年に完成
した遠賀川の基本的な線形は,現在に至るまでそのまま維持管理されている.
図 2-34 西川・曲川の付け替え(遠賀川旧河道の締め切り)
59
2.4.5 遠賀堀川の開発
遠賀川流域の自然地形を利用した土地開発が限界に達すると,人為的な地形改変による水田
開発計画が始められた.洞海湾に残されていた干潟の干拓事業である.前述したとおり洞海湾
への流入河川を利用した干拓事業は,1700 年ころに終息していた.かんがい用水が限界に達し
たからである.洞海湾には,まだ干潟が残っていたが,かんがい用水が得られなかった.その
ために,自然地形を大きく改変して遠賀川の水を導水する遠賀堀川の計画が立てられた.
(1) 1745(延享 2)年からの御開干拓
御開干拓は,図 2-33, 2-34 に示すように洞海湾最奥部の大規模は干拓事業であった.工事は
1745(延享 2)年に始められ,1750(寛延 3)に完了した(表 2-23)
.しかし,かんがい用水が
不足し,すぐに水田化することができなかった.その翌年から始まった遠賀堀川の用水が必要
であり(表 2-24)
,開削工事が完了した 1763(宝暦 13)年にようやく水田耕作が始められた 64).
加えて,1762(宝暦 12)年完成の熊手干拓も,遠賀堀川の用水供給により造成が可能になった
ものであった.
前述のとおり洞海湾周辺の水利用が限界に達していたため,新たな干拓のためには新たな水
資源開発が不可欠であった.1745 年に開始された御開干拓は,当初から遠賀堀川を前提として
着手された事業と考えられる.干拓と遠賀堀川は一連の計画であったといえる.
63)
表 2-23 『筑前國續風土記 』より御開村
御開村
此村に延享二年(1745)より新田開発のこと開始ありて,寛延三年(1750)に成功す.宝暦三年(1753)
より農家十五戸を移し住せしむ.其後民居漸く加はりて今は四十余戸,田数七拾八町四反余有.別
に農長を置て御開村と称す.又龍石村東の畔に有て,堀川の水海に入処也.渡舟有.海中に牡蛎を
産す.
74)
表 2-24 『筑前國續風土記拾遺 』より堀川
堀川
元和の年堀川の企有しこと本編に見ゆ.然るに寛延三年(1750)君命によりて遠賀川に分派をな
し,この郡の水災を防,且運漕の舟の便よからんと議せられ,櫛橋又之進(郡惣代)神崎仁左衛門
(郡奉行)方々其事を司り,同四年(1751)より試らる.城戸弥七(郷夫頭)古野勘兵衛(同上)
勝野文兵衛(同上)等彼地に至り交代して才判す.功なりぬへしとはとて宝暦五年(1755)二月広
廰を経て,弥々はけみぬ.同七年(1757)浦上彦之丞櫛橋又之進に代わりて惣司となる.同九年(1759)
九月に至り吉田村の内,車返の山を切ひらきぬ.里民ここを吉田の切ぬきと云.同十二年(1762)
(此年嶋井市太夫,神崎仁左衛門御に代りて)に至りて中間村より岩瀬・吉田・折尾の内を掘り通
し,東井手(鞍手郡下大隈に在)に水をせきて,中間村の閘に引て大渡川に通ることく,中間・岩
瀬・吉田・折尾の四村の内,堀川と成し,田畠数都合十八町一反七畝十八丁也.中間の閘は常の水
を増減する備也.堀川の功なりぬによりて嘉摩・穂波・鞍手・豊前田川郡の米穀を上方に運漕さる
にも,芦屋迄下すして,直に若松に下り,又田地に水をすすく便利とも成ぬ.堀川の水をそそく田
数凡七百□二丁九反(稲作・一作共)有.十六か村,村名云々.
60
(2) 1763(宝暦 13)年の遠賀堀川開通
御開干拓造成の翌年の 1751(宝暦 1)年に始まった遠賀堀川の工事目的について,江戸時代
末期に著された『筑前国續風土記拾遺 74)』は,表 2-24 に示すとおり,洪水対策と舟運開発と
している.これは『續風土記』の元和の堀川を踏襲した記述であり,正確ではない.宝暦の堀
川の時代には,遠賀川改修が進捗しており,遠賀堀川に洪水の放水路としての必要性は低かっ
た.むしろ前述のとおり,御開干拓へのかんがい用水補給の緊急性が高かった.
遠賀堀川の工事は,車返の切抜き工区から開始された.元和事業失敗の原因となった工区で
ある.工事には,専門の石工 90 名が鑿と槌で岩盤を開削し,長さ 400m,高さ 20m,幅 5.4m
の岩盤を切り抜くのに 7 年を要している.また鑿と槌の損耗が激しいため,福岡から鍛冶職を
雇い入れて鍛冶場を建てて現地で工具の修繕にあたった 75).さらに拡幅工事と前後区間の水路
開削が行われて,1762(宝暦 12)年に通水した.しかし,遠賀川に設置した取水門が洪水で破
損したため,翌 1763(宝暦 13)年,惣社山の唐戸を設け黒川から取水することになった.黒川
は,東井手で堰上げされた遠賀川と接続された 64).
宝暦の遠賀堀川の位置を図 2-35 に示す.遠賀堀川の完成により,遠賀川と洞海湾が直接結ば
れることとなった.遠賀堀川は,御開干拓と熊手干拓にかんがい用水を送ると同時に,江川を
経由せず若松港へ向かう舟運航路を開いた.ただし,人工河川である遠賀堀川は,水路の土砂
浚渫や唐戸の補修などに維持管理経費が必要となる.そのため車返しの切り抜きの入り口に河
守神社が置かれ,通行船から料金を徴収する有料航路となっていた.また水掛かりの 16 村が神
社と水路の管理に当たった.
図 2-35 1763(宝暦 13)年の遠賀堀川の開通
61
(3) 1772(明和 2)年の集水域の拡大
惣社山唐戸からの遠賀堀川が開通した 1763(宝暦 13)年の渇水被害が,表 2-25 の『加藤大
庄屋文書 76)』に記されている.文書は,渇水の年に上流の彦山川に堰の設置を試み,失敗した.
その 8 年後も渇水となり,木屋瀬村庄屋が請願し,翌 1772(明和 9)年に岡森井手が完成した.
堰の設置は,木屋瀬村の庄屋の発案とされたが,福岡藩にとってより重要な事業であった.
請願を受けた郡奉行は,工事人足を派遣して工事を支援した.さらに後年,堰が上流の小倉藩
領での洪水を引き起こしたが,福岡藩は堰の維持を優先し,小倉藩に補償米を送って紛争解決
を図った.堰の存続が最優先課題であり,遠賀川の渇水が深刻な事態であったと推察される.
また堰以上の重要であったのが,岡森井手から延びる用水路である.図 2-36 に示すように,
約 11km の岡森用水は,福智山系から流れ下る支川が遠賀川で合わせ,笹尾川を介して惣社山
唐戸に送っている.すなわち,岡森井手と用水路の開発によって,遠賀川以東の福岡藩領の水
資源をすべて遠賀堀川に集めることが可能になった.渇水時の遠賀堀川の集水面積は,約 15km2
から約 64km2 へと 4 倍増となっている.
福岡藩にとっての事業の最大の目的は,
渇水時の遠賀堀川の流量確保にあったと考えられる.
76)
表 2-25 『岡森井手記録加東大庄屋文書 』
下境,頓野,赤地,木屋瀬,遠賀郡楠橋の五ヶ村は,古来より田地養水不足に及び,年々旱損強き
村柄に付き,河原林平右衛門様御郡代の節,宝暦一三年(1763)の旱魃の時,国境の黒城と申す所に
仮井手堰立之有候得共,溝筋御目見え俄の事に付き,一決御座無く,七尺余りの水支えに付き,其前
内も水浸り出来,養水筋に相成り申さず,
(中略)明和八年(1771)の旱魃に下境村抱内猪之窪と申す
所へ,押えて仮井手を堰か申す義村々詮議に及び候共,大造りの井手に付き,水下村々申談じ一決こ
れ無く,兎や角申す内下境村勝れず旱魃に及び申すに付き,俄に仮井手築立申す儀,郡奉行嶋井市太
夫様へ申上げ候処,御郡夫をも少々御加勢下さるに付き,押えて築立て候様に仰せ付けられ,
(明和九
年(1772)
)六月二十日頃より七月迄,始終仮井手より水を取り,旱損の助けに相成申し候.
図 2-36 1772(明和 9)年の岡森井手の設置
62
(4) 1804(文化 1)年の航路機能の拡充
岡森用水路が完成すると,木屋瀬から中間まで用水路と遠賀川が並行することとなった.他
方,惣社山唐戸に水と舟を送るための中間の東井手は,洪水時の流水の障害となっていた.そ
こで堰を撤去し,堀川航路と遠賀川の接続点を上流に移設することが検討された.新たな水門
の設置場所として選ばれたのが現存する寿命唐戸(写真 2-15)である.ここから接続水路が
1804 年に開削され,遠賀堀川の航路区間は約 13km に延長された.
寿命唐戸は,長崎街道の木屋瀬宿に近い水陸の交通結節点となり,遠賀堀川の機能を大きく
向上させた.新航路の整備によって,若松を起点とする内陸舟運路は,木屋瀬を分岐点として
犬鳴川,嘉麻川,彦山川に広がることとなった.この当
時の様子を,江戸時代末期に黒崎の女性が残した紀行文
『湯花日記 77)(表 2-26)
』が伝えている.遠賀堀川は男
たちが「引登る」航路であり,両岸の切り立った中間の
惣社山唐戸は「もぐら唐戸」とも呼ばれる深い切り通し
であった.
「めでたき名」の寿命唐戸とともに,狭い水流
の速さが紹介されている.また日記によって,黒崎から
飯塚までの区間には,陸路の長崎街道に並行,定期舟運
路が開設されていたことが判る.
このように,寿命唐戸と接続水路の整備は,内陸水運
の機能を大きく向上させた.同時に,遠賀川に設置され
ていた堰を撤去することによって,流下能力が拡大し,
左右岸の治水安全度を向上させる効果があった.
写真 2-15 寿命唐戸の航路
77)
表 2-26 『湯花日記 』の遠賀堀川
たついしといふ所より吉田村のほり川におもむく,舟の中よりみるもけふをはじめにて,ことさらに
めづらし,舟につなをつけて引さまは,よど川の画みたらんがごとし
およばじなひかるるけふのうれしさにみやこたかなるよどの舟路も
そのよは吉田のさとに泊りぬ
いづくをもあしと思はぬたびなれどよし田のさとにこよいやどりぬ
三日,さてよもほのほのと明ぬれば,又西ざまをさして引登る,岩瀬里,中間里,つた・かへでなん
ど虹葉のいろことにして,えもいわずおもしろし,中間の里に水せく川の唐戸といふもの数ある中に,
もぐらがらととて名もおもしときからとあり,あけて水を流す時は,はやくておそろし
日のひかり見ゆるあたりをゆく水にもくらがらとをたがつくりけむ
そこよりすこしのぼりて寿命がらととてあり,これはめでたき名にたつ唐戸なれど,おなじく水瀬は
やくぞ見ゆ,ここに鞍手郡なる植木のさとの舟入とて,あらくれたるおのこ五人ばかりあひて,この
舟をたすけてはやせを引のぼす
水よりもめぐみはふかき舟人をあらくれ人となにおもいけむ
さてここをゆきすぐれば大川に南,みつせもいといとおだやかにして,風もまた追てとなりぬ
63
図 2-37 1804(文化 1)年の寿命唐戸設置と内陸舟運航路
遠賀堀川によって完成した筑豊地域の内陸舟運の航路を図 2-37 に示す.
航路の整備効果は大
きく,江戸時代末に盛んになった筑豊炭田からの石炭の搬出航路として機能した.同時に遠賀
堀川は,明治以降には洞海湾沿岸への工業用水の送水路となった.
しかしながら,その機能は鉄路や管路によって代替され,江戸時代の機能を喪失している.
(写真 2-16, 2-17)航路機能は,1891(明治 24)年に開通した筑豊鉄道によって衰退し,1939
(昭和 14)年に姿を消した 78).1972(昭和 47)年には遠賀堀川に並行して送水管路が敷設さ
れた.1986(昭和 51)年には,曲川改修のために遠賀堀川は分断された.現在の遠賀堀川は,
都市排水を主目的とする河川として管理されている.
写真 2-16 遠賀堀川と筑豊鉄道(JR)との交差
写真 2-17 曲川による遠賀堀川の分断
64
2.4.6 まとめ
遠賀川流域で行われた江戸時代の土木事業を年代順に整理し,地形・地質の特性や事業目的
を個別に確認した.これにより江戸時代には,福岡藩が河川管理者として,彦山川を除く流域
の大部分を総合的に管理し,時々の社会や財政を勘案して政策的に河川改修を推進していたこ
とが明確になった.その過程は,福岡藩の領国経営の方針転換を受けた段階的なものであり,
おおむね 4 つの時期および目的に分類することができる.
・17 世紀前半:氾濫原の洪水被害を防除する治水対策
初代藩主の治水方針が示され,遠賀川本川の放水路建設を基本とする抜本的な洪水対策
が行われた.洪水氾濫による被害軽減のため,河道の直線化と両岸築堤によって,流下能
力の拡大が図られた.
・17 世紀後半:かんがい用水供給のための水資源利用
安全度の高まった氾濫原の水田利用を効率化するため,流入支川を利用したかんがい用
水路建設が行われた.左岸側では犬鳴川,右岸では黒川が付け替えられた.また,水資源
の範囲で洞海湾沿岸の干拓事業が行われた.
・18 世紀前半:低湿地を水田開発するための内水対策
大坂を中心とする商品経済圏に組み込まれ,コメ生産の一層の拡大が図られた.西川と
曲川の内水氾濫を軽減するため,遠賀川との合流点が付け替えられた.また,洞海湾での
干拓事業が再開された.
・18 世紀後半:遠賀堀川による水資源分配と流通円滑化
遠賀堀川が建設され,
洞海湾への流域外導水と若松を起点とする内陸水運が整備された.
開通後も順次機能が拡充され,流域全体としてのコメ生産を最大化された.流域の土地と
水資源の利用が限界に達した.
遠賀川流域の土地利用は,社会情勢の変化に対応して,河川改修を伴いながら大きく変化し
た.その一貫した目的は,持続的に水田耕作を行い,コメ生産を最大化することにあった.た
だし,17 世紀の水田開発が自然地形を利用していたのに対し,18 世紀には干拓事業や低湿地開
発にまで広がっている.次第に,治水安全度の低い土地の人為的な改変が進んだことを意味す
る.また 19 世紀に大規模な河川改修が行われていないのは,持続的なコメ生産活動を行うため
の土地と水資源の利用が限界の域に達したためと解釈することができる.
最後に明治以降の遠賀川の洪水の履歴を表 2-27 に補足する.遠賀川では,河川の基本的な線
形は江戸時代から変わっていない.ただし,頻発する洪水被害が殖産興業のエネルギー源であ
った筑豊炭田を中心として大きな損害をもたらした.そのため 20 世紀以降は,国直轄の河川改
修が行われ,現在まで洪水被害を減少させる河川改修が継続されてきた.また,遠賀川流域の
水資源を使い果たしていたため,工業用水や水道用水のために多くのダムが建設された.これ
らは,江戸時代から引き継いだ治水・利水安全度の低い土地利用に起因するものといえる.
65
西暦
1868
1873
1886
1889
1891
1896
1900
1904
1905
1906
1919
1927
1935
1938
1939
1941
1945
1953
1955
1965
1968
1972
1975
1979
1980
1985
1986
1988
1999
2001
2003
2009
2010
和暦
明治 1
明治 6
明治 19
明治 22
明治 24
明治 29
明治 33
明治 37
明治 38
明治 39
大正 8
昭和 2
昭和 10
昭和 13
昭和 14
昭和 16
昭和 20
昭和 28
昭和 30
昭和 40
昭和 43
昭和 47
昭和 50
昭和 54
昭和 55
昭和 60
昭和 61
昭和 63
平成 11
平成 13
平成 15
平成 21
平成 22
表 2-27 明治以降の遠賀川の土木関連のできごと
遠賀川の土木関連のできごと
明治維新
地租改正
筑豊五郡川艜同業者組合の設置 (石炭採掘の統制)
遠賀川決壊(死者 11 人)
筑豊鉄道(直方~若松)の開通
河川法制定
遠賀川決壊(死者 1 人)
遠賀川決壊(死者 1 人)
遠賀川決壊(死者 12 人)
遠賀川補修事務所の設置,直轄河川改修の開始
遠賀川第一期改修工事完成
河内貯水池・養福寺貯水池完成
遠賀川洪水
瀬板貯水池完成
遠賀堀川水運の終焉
遠賀川洪水
遠賀川直轄河川改修工事再開
遠賀川決壊(死者 20 人)
畑貯水池完成
力丸ダム完成
頓田貯水池完成
遠賀川洪水(死者 1 人)
,工業用水送水管路の敷設(用水補給の終焉)
陣屋ダム完成
遠賀川洪水(死者 1 人)
遠賀川河口堰完成,遠賀川洪水(死者 5 人)
遠賀川洪水(死者 1 人)
曲川改修(遠賀堀川の分散)
犬鳴ダム完成
遠賀川洪水
遠賀川洪水(既往最高水位)
遠賀川洪水(既往最高水位)
遠賀川洪水
遠賀川洪水(既往最高水位)
以上のように,遠賀川流域における江戸時代の河川改修の経緯について整理した.
現在の遠賀川流域の土地利用は,江戸時代のコメ生産拡大のため水資源が限界まで開発され
たものである.江戸時代の改修の結果,遠賀川流域では,治水・利水の観点から,自然条件の
制約のもとで,理に適った土地利用が達成されていた.この履歴を認識しておかなければ,今
後,土地や水資源の有効活用や,現状の河川空間の維持管理を行うことはできない.これから
の河川管理のためには,江戸時代の河川改修の目的と経緯を理解しておくことが重要である.
66
2. 5 まとめ
弥生時代初期に水田稲作文化が伝わってから,人々が自然環境に働きかけ,水田開発が広が
っていった.江戸時代には,利用可能な土地と水資源が最大限利用されるようになり,現在の
土地利用へと連続している.本章では,この土地開発の過程について,遠賀川流域を中心に整
理してきた.以下に,全体を通して概観するとともに,土木技術の変化についての考察を加え
る.
土地利用の変化を要約する.
① 縄文時代には,人々は干潟や河川・森林で狩猟・漁撈・採集を営んでいた.石鍬が土掘り
用具として用いられていたが,土地への働きかけの規模はごく限られていた.
② 弥生時代には,水田稲作が始められ,木製農耕具で耕作可能で,水資源に恵まれた土地が
開発された.水田は,干潟に近い沖積低平地から沖積地上流へと広がっていった.
③ 古墳時代には,西日本各地の土地開発が進み,鉄器を保有する豪族が古墳を築いた.農耕
具に鉄製刃先が装着され,ため池や導水路を築いて沖積平野の外縁部が開墾された.
④ 飛鳥・奈良時代には,
官吏や僧侶が指導的役割を担い,
各地域に農業水利技術が普及した.
国家主導で土地開発が行われ,利用されていなかった構造平野や氾濫原が開墾された.
⑤ 平安・鎌倉・室町時代を通じて,
土地への課税形態とともに実質的な土地管理者が変化し,
次第に地縁的なまとまりによる自律的な土地の管理運営が行われるようになった.
⑥ 江戸時代には,幕藩体制の下での領国経営が行われた.通貨としての機能を持つコメの生
産量を増やすために,土地と水資源が最大限利用されるようになった.
以上の分析から,土地利用は,開発工事として難易度の低い場所から高い場所へと推移して
いることが判る.これを可能にしたのが土木技術の進化である.
弥生時代から古墳時代にかけては,土木施工技術の進化が土地利用を拡大したといえる.と
くに鉄器の普及によって,洪水被害が少なく用水を安定的に確保できる沖積地の外縁部の開発
が可能になった.鉄器文化が朝鮮半島からもたらされたため,日本列島では地理的な条件から
開発時期に差異が見られる.
飛鳥時代から平安時代にかけては,地方行政の確立とともに農業水利技術が普及した.奈良
時代には公地公民制によって地方豪族であった郡司が口分田を開発した.やがて,土地私有が
行われるようになると荘園が発達し,平安時代には荘園公領制の下で荘園領主や国司による競
争的な土地開発が進んだ.
鎌倉時代から戦国時代には,武士が土地の支配権を握った.在地領主化した武士は,荘園公
領制の中で自の土地開発を進め,応仁の乱以降は武力によって支配地の拡大を図った,それぞ
れの地域では,地縁的なまとまりの強い集落を単位として,組織的に土地の耕作と防衛を行う
技術を発達させていった.
67
江戸時代になると,藩の地方行政として広域的な計画に基づく治水,利水開発が行われた.
開発とともに,
継続的に利用するための河川管理技術が発達した.
財政的な制約を受けながら,
本川の治水対策,支川の利水対策,海岸の干拓の順に開発が拡大していった.江戸後半には,
開発は限界に達し,限られた資源を有効に活用する持続的な土地利用が行われた.
上記の土木技術の進化と土地利用の拡大の関係について,表 2-28 にまとめる.
表 2-28 土地利用の拡大と土木技術の進化の関係
土木技術
土地利用
弥生~古墳
土木施工技術
耕作可能地が拡大し,治水・利水の条件がよい
(紀元前~6 世紀) (木器から鉄器へと進化) 沖積地外縁部の開発が進んだ.
飛鳥~平安
農業水利技術
班田収受のため口分田が氾濫原にも拡大,土地
(7~11 世紀)
(かんがい排水が普及)
私有により領主層が競争的に土地を開発した.
鎌倉~戦国
集落自衛技術
在地領主が自ら土地開発を行い,地縁的なまと
(12~16 世紀)
(自律的な開発と水防)
まりで外敵や災害から土地を守った.
江戸時代
河川管理技術
領国経営により計画的な治水・利水開発が進み,
(17~19 世紀)
(長期的な維持管理)
土地と水資源が最大限に利用された.
土木技術は,日本の歴史を通じて,土木施工技術,農業水利技術,集落自衛技術と進化し続
けており,各時代にはその当時の最新技術が駆使され,人々は土地利用を拡大していった.江
戸時代に至って,土地と水資源の開発が限界に達すると,有限な資源を効率的,かつ,持続的
に利用するために河川管理技術が現れた.
江戸時代の河川管理技術を用いた土地利用が行われた結果,それぞれの河川流域では,自然
環境と社会環境の制約のもとで,合理的で持続的な土地と水資源の利用が実現されていた.こ
の土地利用は基本的に現在も変わっておらず,河川管理技術も現在の河川技術者が継承してい
る.しかし,明治以降は科学技術に基づく近代工学やコンクリート等の強度の高い材料が用い
られるようになり,高い堤防やダム開発によって,治水・利水の安全度を一層高める努力が続
けられている.その結果,顕在化した国土保全上の問題の解決策を考えるために,次章におい
て,江戸時代の河川管理技術について分析を進める.
68
参考文献(第2章)
[第 2. 1 節]
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71
72
第 3 章 河川管理技術の特徴とその変化
江戸時代には,幕藩体制の下で,比較的安定した時代が 300 年近く続いた.領国の支配を認
められた領主は,領内の村から徴収する年貢によって,独立採算の経営を行っていた.この領
主と村の関係が江戸時代の土地利用の基本であった.領主は,治水や利水のための河川開発を
領内のすみずみにまで広げ,村々のコメ生産(税収)の増加を図った.また洪水や渇水の際に
は,村々の利害を調整して,損害の最少化に努めた.
ここで地方行政を担った役人は,徴税と河川管理を担っていた.彼らは,伝承された知識や
経験的な技術を駆使して,河川を管理し,持続的なコメ生産を可能にしていた.言い換えれば,
地域の持続性的な土地利用を可能にする技術を身に付けていた.彼らの技術が江戸時代の河川
管理技術であり,現在,河川伝統技術とも呼ばれている.
第 3 章では,河川管理技術の本質的な特徴と,河川技術者の位置づけについて,図 3-1 に示
す江戸時代の古文書から抽出し,現在の河川管理との比較しながらその特徴を明らかにする.
第 3 章は,次の 2 節で構成する.
第 3. 1 節は,
「河川管理技術の特徴」である.
江戸時代は河川整備が十分ではなく,常に河川の流下能力を上回る洪水に対する備えが必要
であった.他方,河川管理を行うための材料は現場周辺から入手できるものに限られていた.
そのため江戸時代には,河川技術者の経験と創意工夫による河川管理技術が発達した.その原
点を,技術的内容に富んだ古文書から抽出する.検討対象とする文献は,1680 年ころに書かれ
た『百姓伝記防水集』と 1720 年の『川除仕様帳』である.
第 3. 2 節は,
「河川技術者の役割と変化」である.
江戸時代は,それぞれの村が自律的な生産と納税を行い,地方役人が徴税と河川管理を行っ
ていた.ただし,河川技術者の位置づけは,治水事業の進展や財政状況の悪化などの影響で時
代とともに変化している.そこで,江戸時代の前中後期の古文書から河川管理態勢の変化を整
理するとともに,最終的に河川技術者に期待されるようになった役割を考察する.対象とする
文献は,前期(17 世紀)の『百姓伝記防水集』
,中期(18 世紀)の『享保の修築例規』
,後期(19
世紀)の『隄防溝洫志』である.
73
『百姓伝記』
1680-82 年に三河から遠州の村役人
層の著作,全 15 巻からなる農書の
巻 7 に「防水集」として河川技術が
まとめられている.
河川管理技術
の特徴
河川管理施設等
構造令
河川技術者
の役割と変化
災害対策基本法
水防法
河川法
『川除仕様帳』
1720 年,甲斐の小林丹右衛門の著し
た地方書.技術を後継者に伝授する
ため,河川管理の経験を体系的にま
とめている.
『享保の修築例規』
1723 年,享保の改革の一環として,
河川改修の経済的設計の強制と幕
府による費用査定を記した河川技
術者への通達.
『隄防溝洫志』
1800 年代の前半に,経世家佐藤信有
が記した河川技術者向けの実務要
領.河川管理の考え方と標準工法の
解説からなる.
図 3-1 江戸時代の文書と現在の法令の関係
74
3. 1 河川管理技術の特徴
3.1.1 はじめに
江戸時代には,河川の付け替えなどの大規模な事業も可能になり,河川への働きかけが積極
的に行われた.幕府や藩の役人である河川技術者が中心となって河川が永続的に管理され,流
域の土地と水資源が最大限に開発された.その結果,度重なる洪水被害の中でも,地域の生産
活動を持続的な行うことが可能になっていた.
この点に着目して,1999 年に,河川審議会河川監理部会河川伝統技術小委員会から,今後の
河川伝統技術の保全と活用のあり方について提言が示された.河川伝統技術は,日本の川と人
の長い歴史で培われた先人たちの知恵とされている.しかし,20 世紀にコンクリート等を多用
した近代工法による河川整備が行われ,地域住民と川との関係に変化が生じた.不自然で画一
的な川づくりが進められ,川との触れ合いを求める地域住民の欲求が高まり,生物の生息生育
環境としての川の重要性の認識されるようになった.人々の記憶や記録の中にある川の原風景
を取り戻すためには,伝統河川技術を効果的に用いることが求められている 1).
また,近年の激甚な被害によって自然災害への考え方が変化した.1995 年の阪神淡路大震災
や 2011 年の東日本大震災と津波災害の経験を踏まえて,
想定を越えるような災害が起きても被
害を最小限にする対応が求められるようになっている.加えて地球温暖化に伴う気候変化への
影響により,水災害の頻発・激甚化や渇水被害の深刻化が,現実的課題と認識されるようにな
っている.治水事業においては,計画を越える洪水への対応も計画に組み込む必要が生じてい
る.これは,治水安全度が低かった江戸時代の川づくりでは,不可避的に考慮されていたもの
で,対処方法を河川伝統技術の考え方の中から探すことは有意義である 2).
このような背景を踏まえ,本節では江戸時代の河川管理の背景を整理し,
『百姓伝記防水集』
と『川除仕様帳』を手掛かりとして河川管理技術を分析する.河川伝統技術の本質的な特徴を
明らかにして,これからの川づくりに活用していくための方策について考察するものである.
75
3.1.2 江戸時代の河川管理の背景
江戸時代以前から,日本人は洪水等の災害が頻発する国土で,河川へのはたらきかけ続けて
きた.江戸時代になって,国内の治安が安定するとともに,沖積低平地の開発が進んだ.頻発
する洪水被害を最小化し,税収となる農業生産を最大化するために,幕府や諸藩が計画的な治
水事業を行うようになった.このような江戸時代の河川管理の変遷について,
「明治以前日本土
木史 3)」は次のように表現している.
“改修工事の方法としては,上古は主として川筋の付け替えを行い,次で断続せる小
堤を築造して,大体の河道を一定せしむると共に,水制を設けて流身の移動を防ぎ,
且つ勉めて旧来の遊水地を存置する工法を採りしが,後年に至りては漸く堤防を高め,
且つ之を連続して画然河川敷を制限するの策を採るに至れり.
”
ここに洪水対策としての主体として河岸に堤防が築かれ,河岸や堤防の侵食を防止するため
河川管理が行われるようになった.このころには現在のような定量的な河川の分析は行われて
いなかったが,河川の観察と河川管理の経験に基づいて,図 3-2 のような定性的な川の特性の
分類がなされていた.谷川,石川,砂川,泥川という表現は,河床勾配を目安にした現在の河
川分類の考え方とおおむね一致している.このような工学的な知見をもって,堤防をはじめと
する護岸,水制,堰,水門などが設けられた.これらは,草木や石,砂などの天然材料が用い
られ,河川技術者の創意工夫で整備と管理が進められた.しかし,18 世紀前半の享保の改革と
よばれる財政改革期には,設計基準書が作成され,その内容に従って河川管理が計画されるよ
うになった 4).
本節では,河川技術が基準化される前の理念や考え方などの情報を当時の文献から抽出する
こととする.対象とする文献は,
『百姓伝記防水集』と『川除仕様帳』である.両文献には,河
川分類の概念とともに,河川管理の基本理念,河川管理施設,土木技術について記述されてい
る.
これらを江戸時代の河川管理技術の特徴を表すものとして分析し,
現在の技術と比較する.
その上で,これからの川づくり応用するための留意点を整理することとする.
図 3-2 近世と現代における河川分類の比較と縦横断図
76
4)
3.1.3 『百姓伝記防水集』
(1) 著者および背景
『百姓伝記』は,全 15 巻からなる体系的にまとめられた農書であり,全 15 巻のうちの巻 7 が
『防水集』として洪水対策の取りまとめに当てられている.これは,河川技術が比較的まとま
った記述されたものとしては,現存するものの中で最初のものである.
著者は不詳ながら,三河から遠州にゆかりのある村役人層が,1680-1682 年に著作したもの
と考えられている.著者は,
「本朝の大河には池,堀のかこひ,普請の仕かた善悪,見及び聞伝
えたる所を,予,ひそかに書付,防水集と名づけ百姓伝記の類巻にのする」と序文で述べてい
るとおり,内容は,農作業と見分に基づいた経験的な知識を体系化したものである.
著者は,村単位の自給自足的な農業を堅実に発展させる方法を書き残している.農業と河川
の関係について,治水は農耕の成立の基礎であり,川との関わりが土質や水掛かりの良否を決
めると認識されている.そして,治水の技術は,地域の河川の特性に応じて,地域の農民が熟
知するものとしている 5).その上で,水防対策では,奉行職の役人が農民を指揮して,地域全
体の被害を軽減するとしている.
(2) 『百姓伝記防水集』の構成
『百姓伝記防水集 6)』の目録を,技術的内容を踏まえ再構成したものを表 3-1 に示す.
表 3-1 『百姓伝記防水集』の構成
○
○
○
○
○
○
○
序
大河の堤をつくこと
みよとめ堤をつくこと
雨池,堰,堤普請心得のこと
川除こころへのこと
大水をふせぐこと
その他
(河川管理の基本理念)
………〔A1〕
(堤防の考え方)
………〔A2〕
(河川締切による新田開発事例)
(用水確保の考え方)
(河道管理の考え方/土木工作物の例示)……〔A3/A4〕
(水防活動の考え方)
(海岸堤防,津波被害,土石流対策など)
「序文」は河川管理の基本理念が記されている.これに続く前半は,堤防による耕地保護,新
田開発,水資源開発からなる.まず堤防を語るのは,既存耕地を洪水から守ることが最優先さ
れたためである.次いで河川締切の具体例が続く.当時の沖積平野には未利用地が多く,河川
付替による新田開発の余地が大きかったことを示している.これに渇水対策のための用水確保
が続く.この構成からも,農業指導者が耕地の開発と保全に主眼を置いていることが判る.
「川除こころへ」以降は,土木工作物と水防活動の解説に紙数が割かれている.河川関係の記
述はやや定性的なものに留まるが,水防活動については具体的で詳細な内容である.洪水氾濫
の頻度が高く,被害最小化のための努力が,村の存続に必要であったことを示している.なお
この著作は,
沖積低平地での治水と利水を中心に書かれており,
海岸堤防等が補足されている.
77
全体構成のうち,
[A1]河川管理の基本理念,
[A2]堤防の考え方,
〔A3〕河道管理の考え方,
〔A4〕土木技術の例示について,河川技術に関する記述を表 3-2~3-5 に示すとともに,内容
を以下に要約する.
〔A1〕河川管理の基本理念
河川管理のしごとは,農耕が始まって以来,農民のしごとと定義して,地域の農民が地域の
河川の管理責任を負うという考えが述べられている.
また河川管理は,
当面の洪水対策よりも.
数十年先の子孫のための安全確保としている.いずれも,河川管理は長期間継続することで安
全対策の効果が発現するという認識が示すものである.
表 3-2 『百姓伝記防水集』の河川管理の基本理念
我々が住国村里に往古より有来る池,河をば,年々歳々修理を加へ,水災のしのぐ心得肝要なり.
堤,井溝,川除普請は,世に耕作初りし上代よりこのかた土民の役たり.末代も猶油断ありては,
子々孫々水災にあふべし.
〔A2〕堤防の考え方
田畑や家屋を守る堤防は,武家の城郭に例えられ,洪水対策の基本とされている.同時に,
洪水は堤防を乗り越えることがあり,地域の水防が必要と注意喚起している.
堤防の構造では二線堤を推奨している.それぞれの堤防敷を広く,法面勾配を緩く,天端幅
を広くとるのがよいとしている.注目すべき点は,流水に対する堤防の抵抗力に限界を強く意
識していることである.まず洪水の勢いを弱めた上で,堤防を築くことを原則としている.そ
れでも水が当たる場合に堤体を保護するのが,杭,しがらみ,捨て石による護岸である.
表 3-3 『百姓伝記防水集』の堤防の考え方
堤は我々が村里の田畑のかこひ,在家のかこひにつく.たとへば武家の城郭にことならず,大切
なる普譜なり.堤を大河の水かこひにつくる事,いか程つよき洪水有共,我々かかゑの所をきらさ
ぬ様につくが功者なり.たとへ満水に及びて,堤をのり越水たり共,半日か一日は,手をあてても
ふせぐ心得肝要也.
大河の堤をば二重つきたるがよし,万一の時は二つめの堤にて大水をふせぎ,流れ田地をすつべ
し.一の堤も二の堤も,ねじきをひろく取,堤はらをなる程のいにつき,馬乗をひろくすべし.
水はつぼみてながるるときは川深くなり水勢つよし.ひろがりて流るる時は,水勢よはし.此条
は水をきしる堤をつく儀にてはなし.水のつねつよくあてぬ,しづかなる堤をつくぎ也.
大河の流,つねに堤の腰を水の流る堤は,なをなを根敷をひろく,かうばいをのいにつきて,堤
の腰に杭をふり,しがらみをかきて,すて石を多く取込,水にて堤の腰をあらはぬやうに普請せよ.
〔A3〕河道管理の考え方
堤防を守るために河道管理を行うとして,土木技術を駆使したみお筋の修正の考え方が示さ
れている.要点は,川の両岸に河川構造物を置いて,水当たりを緩和した上で,堤防を強化し,
堤防前面に淵が発達すること防止することとしている.土木技術として,水制,枠工,杭出し
などが列挙されているが,これらは節を改めて説明される.
みお筋の維持管理の重要性を指摘しており,洪水氾濫原で持続的な生産活動行うための必要
78
条件であるとしている.さらにみお筋は経年的に変化するものとして,常に構造物を管理する
よう注意を促している.
表 3-4 『百姓伝記防水集』の河道管理の考え方
川除は堤を切らさぬ備えなり.つねの水にも,川のまがりめありては,水あて,堤の根ほれて淵
となり,次第に堤あせきれるなり.さやうなる処を,川むかひとこなたに水よけをして,水の押付
をやわらげ,堤をつよくし,淵には洲を居させ,瀬をちがふる事肝要也.大水の時は,取わけさや
うなる所へ水当り,あぶなし.つねにかこひをするが備へ也.
河よけには色々の方便あり.さる尾・石わく・袖わく・うし,柳を植,竹を植,芝を付,水草を
植て置,満水をしのぐ.
多年の心懸能ければ,安々と水難をのがれ,田畠無事にして,在家安穏なり.国々村里の者不心
懸にしては,ねみみに水の入事うたがひなく,作毛を流し,国土のついゑをなす.つねに水なき山
川・小川なり共,四季ともに油断有ては,其費多かるべし.水を流す処をば,急度修理し,拵置べ
し.是常住の備へ也.
御当世は国々里々大河有之所は,堤を能つき,さる尾・石わく・袖わくを以かこはせらるれば,
水難すくなし.されどもうつりかはりて,川筋は淵瀬のかわること多きなり.
つねに水のあたらぬ所,俄に淵と成,堤かけ損じ,ひたもの堤裏に置土をし,また水除のさる尾・
石わく・袖わくをしてかこゑども,次第々々に堤くゑて,後には大わくに成,川むかひは次第に河
原と成.
つねのかこひあしくしては,其期に至て,片時の間も堤かかゑがたし.
〔A4〕土木工作物の例示
河道管理に用いられる土木工作物を列挙し,説明を加えている.ただし,施工技術としての
説明と河川構造物としての機能が混在している.また表現が定性的であり,実際の現場では施
工経験と試行錯誤が必要であったと考えられる.
石わくは,木材で枠を組み,石材を充填させる工法である.堤防の脚部を保護する護岸の基
礎工として紹介されている.また最小量の枠工でみお筋を安定させる者を巧者と呼び,技術者
の経験を重視する姿勢を示している.
さる尾とは,
堤防から付きだした水制である.
頭部の低い下向き水制として紹介されており,
洪水時には水没して流水を岸から遠ざける構造である.対岸に水衝部をつくらないよう,長い
水制を諌めている.
蛇籠を水衝部の河床に投入する根固めとしている.構造は,竹で編んだ円筒形の籠に石材を
入れるものである.
現場に製作するものとされ,
竹加工の技術が一般的であったと考えられる.
なお,渓流河川の水衝部にも用いるとしており,土木技術の中では最も強度を期待している.
連結した杭のことを袖枠と呼んでいる.堤防表面への水当たりを受ける構造とされ,のり覆
工として例示されている.
うしとは,三本の木材を組んだ牛枠である.機能は,流水の中に置く透過性水制で,短時間
で設置することができるとしている.
のり覆工として柳植栽を推奨している.低木のカワヤナギを密植し,毎年維持管理しておけ
ば,洪水時に堤防表面を保護する機能があるとしている.芝付けは,必須の堤防被覆工として
いる.柳植栽と合わせて,植生による堤防保護を重視している.
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表 3-5 『百姓伝記防水集』の土木工作物の例示
大河の堤には,川のまがりめ,また堤ぎはへ水押付,淵となりて,堤よはく成処々に,わくをふ
せて堤をかこひ,水をふせぐ.田地をかこふたてなり.松の大丸太にて組ても,水の付処はくさら
ざるものなり.水ぎはより堤腹まで二重わく,三重わくに組でのぼり,内へ石を取り込み,嵩へも
石を高く置くなり.
わく一ヶ所にて,水筋をすなをにして,堤に煩いなきやうに普請仕事,川除の巧者なり.
川除にさる尾と云事あり.水のつよく押付る所か,また水をむかいの岸へ押付る様にしたき処に
つくなり.川へつき出す小堤なり.さる尾先を川下にむけ,さる尾根を川上になすべし.さきへ出
るかたをばひきくつき,根の方は高くつくべし.敷を大きに取て,かうばいをのいにつき,高水を
ばこさすべし.水に強く当る事なかれ.
さる尾を長く出せば,むかいに水の当り出来て,よはみ付き,其水をまたつよくふせげば,こな
たにをし付らるる.其見斗肝要也.
蛇籠は川除水をふせぐに第一のものなり.大竹をひしぎ,籠に組.長さは処によりて見斗用る事
なり.廻りも同意なり.内へ石を入て置.籠の目を大きに組む.石を流さぬかこひなり.
じやかごはつよく水の押付る堤腹,山川のさかさまになりて,水たぎりて落る川よけ,浪うちぎ
はの堤を洗所にふせて第一の物也.いくつも堤のごとくに重てふせる.
袖わくは,川よけ水をふせぐに便有.川の方より堤の腹まで,杭を五本も拾本もふり,貫を三通
も四通もぬき,扨かせを三通も四通も,ねそ藤を以結ひ,竹木のそだを川よりかき付をさへ,ふち
を結,当る水をしのく.
水をふせぐに,うしと云ものあり.木二本をがつせうのごとく組,また一本をがつせいの頭にも
たせ,三本結合組たる頭に,土俵か石をくくり付,牛の足にはかせを結て,竹木のそだを当て,水
の押付処々にをきてふせぐ.手がろく水をふせぐものなり.
水をふせぐ川よけには,堤に柳を植るにましたる事なし.川柳と云て,枝の多くさき,木たけの
延ぬ,葉ほそき柳あり.是を水つきより堤腹に,ひしと植起き,年々かりては,枝ほそくやわらか
にして,大水の時,堤腹へ柳の枝ひたとねるによりて,土をあらはず.
新堤,裏置,腹置をしては,必芝を付る.堤に柳・竹・芝を付けるは,土をしめるかこひなりと
知べし.
(3) 『百姓伝記防水集』のまとめ
『百姓伝記防水集』は,洪水被害が頻発する沖積低平地で,持続的に農村の生活と生産を維持
する知恵である.人が川沿い住む限り,必然的に,河川管理は永続的に続けなければならない.
江戸時代の洪水対策では,堤防を“大切なる普請”とし,川除による“堤を切らさぬ備え”
が重視されていた.備えとしては,川の流れの力でみお筋を遠ざけるながらも,堤防前面に淵
が大きくなる場合には護岸が施された.
“弱めてから守る”という考え方である.それでも守り
きれないために,洪水時の水防活動が必要とされていた.
これらを実施するために,枠工,水制,蛇籠,牛,植生の土木工作物が用いられている.河
川構造物としての役割は,現在の根固め工,基礎工,のり覆工,被覆工に相当する.これらは
常に変形,劣化していたが,農民が主体的に監視と補修を行うことで機能を維持していた.
江戸時代には,相対的に大きな洪水外力に対して人為的な防御力が小さく,洪水被害の発生
頻度が高かった.そのため,予防的措置と対応的措置によって,被害を軽減する工夫が凝らさ
れていた.
80
3.1.4 『川除仕様帳』
(1) 著者および背景
『川除仕様帳』
には,
甲斐の下級武士であった小林丹右衛門が 1720 年に著作した地方書である.
小林のような武士が,地方行政の一環として河川管理は当たっていた.著作の目的は,小林の
経験に基づく技術を後継者に伝授することにある.その技術の基本姿勢は,
“洪水に勝つことよ
りも,負けない工夫”を重視することである.技術的には,堤防で洪水を防ぐよりも,洪水を
素直な川筋に導き,川岸を砂で遠浅にするのがよいとしている.これは甲斐で進められていた
川幅を狭める河川改修に,批判的な立場で述べられたものと考えられている 7).
河川の流下能力を上回る洪水にどのように対処するのかは,超過確率洪水を想定する現在の
河川技術者に対して参考になるものである.
(2) 『川除仕様帳』の構成
『川除仕様帳』の構成を表 3-6 に示す.これは原文 8) の順序を尊重しながら,技術的内容を踏
まえて章立てしたものである.
表 3-6 『川除仕様帳』の構成
○ 河川管理の基本理念
………〔B1〕
○ 流水の特徴
………〔B2〕
○ 河川特性の分類
(大河川の礫川,石川,砂川,小河川の石川,砂川,大小の渓流)
………〔B3〕
○ 河川構造物の解説
(堤防,根固め,護岸,みお筋締切,土砂堆積,水寄せ水制,水除け水制) ………〔B4〕
○ 土木工作物の解説
(水防,土工,石積み,笈牛,蛇籠,用排水路)
………〔B5〕
○ 維持管理の解説
(植生の管理,構造物の管理)
………〔B6〕
本書は,河川技術者のための手引き書である.そのために全体構成は,河川特性の分類,河
川構造物の解説,土木技術の解説と実務者にとって理解しやすいよう工夫されている.特に自
然科学的な内容の河川特性の分類は,土木技術者としての必須知識として重要であった.また
現場実務に関する事項は,河川構造物と土木技術に書き分けられている.構造物の機能を理解
した上で,現場条件や材料に応じた土木技術を組み合わせるためと考えられる.
以下に〔B1〕河川管理の基本理念,
〔B2〕流水の特徴,
〔B3〕河川特性の分類,
〔B4〕河川構
造物の解説,
〔B5〕土木技術の解説,
〔B6〕維持管理の解説について,原文 10)の記述を表 3-7~
3-12 に示すとともに,技術的な分析を加える.
81
〔B1〕河川管理の基本理念
冒頭の 4 項は,
『川除仕様帳』の全体を貫く基本理念である.以下に主文を直訳する.
① 河川管理においては,川に勝つことではなく,負けないことを第一に考えなければ
ならない.
② 河川構造物が強く大きくなれば,川の勢いも強く大きくなる.水の流れが集中し,
深く洗掘されれば,構造物は崩壊し,修復が難しくなる.
③ 河川管理の目的は,洪水排除ではなく,河岸をなだらかにし,みお筋を穏やかに修
正することである.
④ 川のみお筋は洪水ごとに変化する.変化する度に上下流をよく観察して,その要因
と今後の変化を分析しなくてはならない.
表 3-7 『川除仕様帳』の基本理念(抜粋)
川除仕様と申すハ強川に勝事を不好,不負事を第一とする心得,能可有之候.①
川除強く大なれハ川水も又強く大きに集り,其所川瀬不除,深ク堀立是非押崩,其跡普請仕にく
き者也.②
川除ハ川水可除ニ而ハ無之,川瀬を陸に川筋をすくに直すを専とす.③
川瀬ハ満水の度々変するものにて有之所に,水出,瀬変りの度々一,二里上下の瀬向を見定,後々
のためを能々可勘.④
〔B2〕流水の特徴
河川をその規模,流水の激しさ,河床材料から分類している.川の規模については,川幅と
推進で認識できる.川の激しさは河床勾配と洪水痕跡から,河床材料は手に取ることで確認で
きる.すなわち,この分類法は,技術者が河川の現場での判断を助けるよう考えられた実用的
分類といえる.
ただしこの分類は,以下のような自然科学的な原則に基づいたものであり,現在の河川技術
者にとっても有効である.
① 水深が大きければ,河床に働く掃流力が強くなる.
② 流れが強ければ,河床材料の粒径が大きくなる.
③ 河床の粗度が大きければ,低層流の流速は小さくなる.
表 3-8 『川除仕様帳』の流水の特徴
川に品々有.一筋の内にも右の品々有.川の品々了簡して場所をよく見立,川除仕様勾倍品々有
之候.大川ニ而水荒き川,のろ川.小川に茂荒き川有,のろ河有.大川,小川共に石川有,砂川有.
水上へより水下のろき川有.水下早く水上のろき川有.尤,川一筋の内にも右之品々有.
然に,何れの川も水情ハ底ほと強き物①なれ共,荒き川ハ水上ヘから水下のろし.是ハ水荒きに依
て砂ハ流行,石ハれんれん流留り②,石に水当りてさかまくゆへ水のろし③.のろ川ハ水上ヘから水
下早し.是は水下程水情強ク,砂川にて水下障りなきに依て③,水上に波たたへ打かへし水上のろし.
82
〔B3〕河川特性の分類
流水の特徴に照らして,河川特性が分類され,それぞれ河岸保護の基礎的な考え方が示され
ている.以下に,河川分類の別に要点を示す.
① 礫河床の大河川:水衝部では,洗掘は避けられない.それでも後背地を守るためには,高
い石積み堤防を築き,立籠で護岸を施し,根固め水制を入れること.水
深が浅ければ,牛垣の水制と背割堤を入れること.
② 石河床の大河川:洪水流の分派したみお筋を止めるには,みお筋に牛垣を置くこと.水衝
部の淵が深く田地が流されるような場所では,牛を連結して入れ,かが
んを十分に補強すること.
③ 砂河床の大河川:洗掘される河岸に,千鳥に杭を出し,網をかけること.みお筋が岸に当
たれば,杭に網をかけ瀬割りすること.
④ 石河床の小河川:侵食されにくいので,石積みの根固めを入れること.
⑤ 砂河床の小河川:水当たりに杭を打つか,柳羽口で法面を保護すること.柳が根付けば,
管理しなくてよくなる.
⑥ 大規模な渓流:山間でも水量の多い川では,降水時には満水になり,川原が広くなる.石
積み堤防を引いて築き,前面の河床を蛇籠で保護すること.
⑦ 小規模な渓流:水が滞留させずに,真っ直ぐに流れるようにすること.
表 3-9 『川除仕様帳』の河川特性の分類
大川にて水荒く大石流れ出る川有是而,瀬向岸へ寄付,其所深ク成,一切川瀬不除.川除後に田
地,家屋有是而,越水為致事も不成所ハ,満水の分量を了簡して石積高く,かまほこなりに筑立,
立籠ニ而くるミ,載出シ,小出しを可付.
地水浅ハ小出シハ牛垣にて吉.ケ様の場所ハ向より突付来ル故,背割を付.①
大川にて水荒く水出之節,小石,砂計流ル川にて枝川抔有是而不断も水通り,以来其所本瀬にも
可成と及見候ハバ,牛垣にて可留置也.
河田地ヘ寄付深ク堀立,水底たけも不立,はば上壱,弐丈も有之而田地押欠所有之.笈牛を二組
立,繋牛にしてはば岸ヘ付ケ,尤,元を能堅メへし.②
大川にてのろ川ハ,石無之,砂計にて水下はやく,田地岸へ寄付,其場所深く成候者,埋出し弐
通り打にして,水上の尺木あみ敷を懸へし.
田地岸又ハ土手岸へ横切に川筋付来らハ,岸から一,二間ひきのけ,尺木垣をして,勿論あミ敷
をかけて川中へ出シ,瀬割スヘシ.③
小川にて水荒き川,尤,大石不流出,地行茂堅く岸を掘事まれなり,石積元を高サはばと同迄に
して,出崎下りに成程のせにして出崎籠ニて可繕.④
小川ニ而水のろき川ハ水当り候所へ尺木垣を結,或いは柳端口に土手築へき也.柳根付候ヘハ,
以来川除不仕物也.⑤
山沢川の内にも大川にて常水少々有之而,雨天の節ハ満水して水荒く,渡りも無之程の川有.ヶ
様之所ハ河原も広きもの成に依て,先本川除を後へ引去り前を広く,かまほこなりに石積して,水
当りより先を鍍り立籠か横籠ニ而くるミ,一間か九尺ほと指のけ.⑥
山沢の内にも小沢ハ常に少シも水無之,雨の節満水して川除押埋,或ハ岸を掘立,破損する物也.
水の滞無之様に川筋をすくにすへし.⑦
83
〔B4〕河川構造物の解説
河川分類に応じて設置される河川構造物の機能や注意事項がまとめられている.以下に,構
造物ごとに記載された要点を示す.
① 上下流調査:川の流れが河岸に寄ってきても,
その場所で河川を保護するのは困難である.
まず上下流を調査して,上流の方からみお筋を修正すること.
② 堤防:堤防を築く場合には,場所にもよるが,満水を防ぐように高くするのはよくない.
3-5 年に一度しか水が来ない部分に小動物が穴を開け,漏水破壊の原因になるから
である.満水の 7~8 分の高さとすること.
③ 根固め:河岸の高い水衝部では,河床に埋めこんで設置すること.直接構造物を置くと,
後ろが侵食されるので注意すること.
④ のり覆工:石積みなどでは持たない水衝部には,護岸を補強すること.粗朶の切口を石積
みから出して,其の上に大きな石を積み,段々に積み上げると強くなる.
⑤ みお筋締切:みお筋を埋めるには,上下流の河床の高さの石積で仕切ること.
⑥ 水寄せ水制:石積みや籠の水制で,頭部,基部,河床を固め,高く大きく角を立てておけ
ば,洪水時に水が当たり,みお筋が寄ってくるものである.
⑦ 水除け水制:低い水制は破損しにくい.頭部,基部,河床を保護して,川を遠浅にするこ
とができれば,
他の川除は必要ない.
先下がりの水制を水の高さに出すこと.
表 3-10 『川除仕様帳』の河川構造物の解説
当分川除へ寄付候共,其所にて川除不持物也.先其所から川の上下一,二里の内を見分仕,水上
から直したるかよし.①
川辺越水を除かため土手筑事,所にハ寄へけれ共,満水をも可防心持大形悪し.只七,八合の水
を防様に可筑.子細ハ満水といふ事五,三年に一度も有かなきかに土手高く筑置候へハ,水不乗所
ニハ鼠穴,へび,うくろもちの穴出ル.満水の節少シも水通し候へハ,其所へ悪様之水情集り大破
損出来,田地流跡数年を経されハ起返らさる物也.只七,八合の水を防様に可筑.②
川岸の水早く,はば上高くハ,はばを成程のせに水底まてきりさけ,岸を向へ四,五間も出て尺
木垣その他にても相応の川除すへし.岸高き所へ川除仕候而ハ一切不持,後切する物也.③
川水あらくして大石流れ,石積計にてハ押崩し,籠を付れハ打切,或ハ,押しひねり,笈牛・尺
木垣・牛垣出シハ打ひしき,或ハ,川木流出て出しヘ懸り押潰シ,不持所有之.川表裏共にそた切
口を四,五寸宛石つらから外へ出し,一通ならへ,其上へ成次第大き成石を積,段々そたを大根お
ろしのことくに成心持に石積仕上ケ,馬踏へもそだ切口引出し可筑.④
古瀬跡地窪にて常ハ水不通候へ共,水出之節水通,不埋物也.能場所を見立,前後地形之高サに
石積を以,仕切置へし.⑤
石積,籠出しにて元,崎,水底を能堅メ,出しに角をあらせ,堅き事をすれハ,水不除物とする
べし.瀬筋付度と思ふ所へ高く大き成出し,かとをあらせ出置候へハ,水出之節其出シヘ水当り岸
を掘立候ニ付,善悪川瀬寄るものと知へし.⑥
出しのひくきハ能持こらゆる物也.川除出シハ田地又ハはば岸をのぞかんため成に依て,只出し
元,出し先勿論,水底を能固め者岸を遠浅になすを専とすへし.但,石積ハ越水致ハ後から崩るる
物なれハ,石積後を籠にて包むへし.遠浅にさへなれハ重而川除不仕か吉.出シ崎下りにして,出
崎ニ而ハ水上ハ切にも成候様ニ可仕候.其遠浅になす事少々ニハ難成物なり.⑦
84
〔B5〕土木工作物の解説
河川構造物を設置,保守するための土木工作物について解説されている.以下に,技術ごと
に要点を示す.
① 木流し:水位が上がっている間は,籠,杭,牛を用いないこと.水深が大きいと作業が出
来ず,悪影響が出る.竹木による木流しをかけて,河岸を保護すること.
② 堤防補強:盛り増しや前付けは春に行うと,芝の根が茂り堤防が強くなる.夏秋には後付
けしてもよい.竹藪はよく分けて盛ること,刈り取れば生えにくくなる.
③ 新規築堤:新たに堤防を築くときは,前面に空き地を取ること.植生を植えたり,川除を
施すためである.
④ 漏水対策:堤防には穴が空いて水が通ることが多いので,水の通り道を掘り割って,止め
ておくこと.
⑤ 石積み:石積み工事では,現場の大石をどんどん投げ入れること.外見にとらわれず,石
と石が噛む合うように積み,ほぼ設計の形ができたら,見苦しい部分を積み直す
こと.
⑥ 笈牛:牛は,牛が押し流されるならば,足元に蛇籠を入れること.籠を抱けば牛の足が埋
まって,倒れないようになる.大石が流れ出る川でも,後ろに水がぬける所では有
効である.水の抜けない所や一組立てでは持たない.
⑦ 蛇籠:籠のせ出しをつくるのに,流れの激しい深いところでは,石が少なければ押し流さ
れてしまい,石が多く詰まれば運び難くて籠の先が河床に付かないことになる.
表 3-11 『川除仕様帳』の土木工作物の解説
水出之時分はば欠込,又ハ,川除破損候共,籠,尺木牛抔を以,防事延引すへし.水深くしてハ
仕ほとの事あしく,仕候程悪敷成物也.其節ハ竹木を切,俵に石砂,芝なと入,能ゆひて竹木のさ
きへしかとゆひ付,竹木のさき地底へしつむやうにして,はば岸にならへ,つなき置くへし. ①
土手上置,前付,後付仕様之事.春ハ上置,前付を致して吉.芝の根しけり候故土手強し.夏秋
ハ後付致して吉.竹藪ハ能々結わけて可筑.切取候へハ竹生兼る物也.②
新土手筑ハ川筋よくよく見分して,引込前にらい地を取置へし.以来らい地へ竹木等植,又ハ,
出し川除する為也.③
川除土手,堤土手,堰土手共に常々穴出来通,油断仕候ヘハ大破損出来する物也.其通を掘割,
可留.④
石積ハりつはにかまハす石積可仕所へ,其所に有之内にて大石を成次第めたとなけ入,石と石喰
合候様に積せ,大方目論見ほと出来候而,余り見苦敷出目入直すへし.⑤
笈牛立候場所水荒くして,たまらす押かへすならハ,牛壱組の足元川表へほたし籠二ツ三ツ,川
にから五ツ六ツも入べし.籠たけハ牛足も埋り,足元不掘,ころはさるものなり.
笈牛立候ニハ,大川,小川水あらく大石流出ルにも不限,牛後へ水ぬけ候所ハ持ものなり.水後
にぬけさる所ハ悪し.勿論はばきしへ付,壱組立などハ持かね候間,其心得を以,立べし.⑥
籠のせ出しするに水あらく深き所にてハ,石少クつめて出せば押流し,押ひねられ,多く詰れハ
うこかすして籠先地底に不付,仕ぬくき物也.⑦
85
〔B6〕維持管理の解説
最後に植生管理と構造物の修繕の解説がある.維持管理として,要点を示す.
① 植生管理:堤防の大木は,枝を落とすか,幹を半分に切ること.枝のある高木は,風で根
が緩んだり,倒れたり,流水阻害となって氾濫の原因となるからである.なお,
柳,松,竹,葭などの植栽方法が解説され,法面保護の機能を期待している)
② 構造物修繕:春の工事は秋に修繕し,秋の工事は春秋に修繕すること.被災すればすぐに
修繕すること.水衝部は春秋に修繕すること.小破が大破に至ってから修繕す
れば大きな損失となる.
表 3-12 『川除仕様帳』の維持管理の解説
川除土手に大木有之ハ,枝もき立ルか,中ウ切にして置へし.枝有之大木ハ風に当り木の根くつ
ろぎ,又ハ,根かへりして土手切,又ハ,川のませと成,田地流ル物也.
(柳,松,竹等の植栽)①
春仕たる普請ハ其秋繕,秋仕たる普請ハ春秋繕候様ニ仕へし.勿論,右之通にも不限,水当りつ
よくして損ル所有之ハ其時に可随.縦少々能候共瀬向を能見立,出先水当りつよき所春秋繕置たる
かよし.小破から及大破,油断して大破繕候故,大き成損か.②
(3) 『川除仕様帳』のまとめ
『川除仕様帳』には,大きな洪水外力に対し,河道と河川構造物を永続的に維持管理していく
ための,経験工学である.
『百姓伝記』を比較すれば,農民の心得としての水防活動についての
記述はなく,河川技術者のための専門技術に関する記述が多くなっている.
その基本理念は,
“川には勝たず,負けず”
,
“強大な構造物は不可”
,
“河岸をなだらかに,み
お筋を素直に”
,
“川の変化を洪水の度に観察する”の 4 点である.越水を許容して破堤を回避
するという考え方や,河川の力を利用してみお筋を整える技術に特徴がある.具体的には,流
水の掃流力,分級作用,粗度計数の概念から河川を分類し,河川特性と目的に応じた河川構造
物を選択して,現場材料を用いた土木技術で施工し,管理するという構成となっている.
河川構造物の解説では,堤防,根固め,護岸,みお筋締切,土砂堆積,水寄せ水制,水除け
水制が列挙されている.現在の河川工学とほぼ同じであるが,堤防は洪水時に越流することが
前提となっており,河川の営力によるみお筋形成を重視している,特に水制については,水寄
せと水除けが書き分けられており,現在よりも多様な利用がされていたことが判る.
土木工作物については,土工,石積み,牛工,蛇籠などが,現場経験を盛り込んで具体的な
表現で解説されている.いずれも現場付近で入手可能な材料を組み合わせて利用するよう工夫
されている.維持管理の面では,植生の手入れについて詳述する.大木の弊害を指摘しつつ,
植生の持つ流速低減や法面保護の効果に期待している,また構造物の管理では,春と秋に常に
補修することとしている.小破の内に補修し,大破に至らぬようにすることが基本である.
現在も用いられている河川技術は,
『川除仕様帳』の時代にほぼ完成していた.ただし,人力
施工の能力や土木材料の強度には限界があり,
これを技術的に補う必要があった.
そのために,
川が川をつくる営力を活用する技術と人手をかけた日常的な維持管理の態勢が確立していた.
86
3.1.5 現在の河川構造物との比較
(1) 河川構造物の法的位置づけ
前節までの江戸時代の河川技術のうち,
河川構造物について,
現在のものと特徴を比較する.
現在の河川管理施設は,
『河川法』に法的根拠があり,その第 13 条に「河川管理施設(ダム,
堰,水門,堤防,護岸,床止め,樹林帯その他)等は,水位,流量,地形,地質その他の河川
の状況及び自重,水圧その他の予想される荷重を考慮した安全な構造のものでなければならな
い」とされている.
この中には,江戸時代にはなかったダムがある.近代の河川工学と材料工学の発達で,河川
の流量調節が可能になったものである.その他,調節後の流量を安全に流下させる施設として
列挙される河川構造物は,すべて江戸時代にも使われていた構造物である.
(2) 『河川管理施設等構造令』の規定
現在の構造基準である『河川管理施設等構造令』の内容を確認する.構造令には,表 3-13
に示すとおり,堤防について一章が設けられ,その中に堤防の一体施設として護岸および水制
が規定されている.それぞれについて,特徴を要約し,江戸時代との相違点を考察する.
表 3-13 『河川管理施設等構造令』の堤防,護岸,水制
第 17 条(適用の範囲)
この章(第 3 章堤防)の規定は,流水が河川外に流出することを防止するために設ける堤防及び
霞堤について適用する.①
第 18 条 (構造の原則)
堤防は,護岸,水制その他これらに類する施設と一体として,計画高水位以下の水位の流水の通
常の作用に対して安全な構造とするものとする.①
第 19 条(材質及び構造)
堤防は,盛土により築造するものとする.ただし,やむを得ないと認められる場合においては,
コンクリート,鋼矢板等とし,またはコンクリート等の胸壁を有するものとすることができる.①
第 25 条(護岸)
流水の作用から堤防を保護するため必要がある場合においては,堤防の表法面又は表小段に護岸
を設けるものとする.②
第 26 条(水制)
流水の作用から堤防を保護するため,流水の方向を規制し,又は水勢を緩和する必要がある場合
においては, 適当な箇所に水制を設けるものとする.③
① 堤防
現在の堤防は,計画高水以下の洪水を河川外に流出させることなく,安全に流下させるた
めの連続した施設と定義される.ただし,自然現象である洪水外力に対し絶対的な安全確保
は求め得べくもなく,堤防の安全確保のため水防活動が不可欠である 9).
治水の基本を堤防とする考え方は江戸時代から不変である.また,土堤構造を原則とし,
流下能力を超える規模の洪水に対して破堤の危険があることも同様である.
『百姓伝記防水
集』と同じように,現在も地域主導の水防活動との連携した安全の確保が必要である.
87
ただし,堤防の高さは,江戸時代よりも高く設計されるようになった.
『川除仕様帳』では,
3~5 年に一度の流量に対応した堤防高が示されているが,現在では計画高水位に余裕高を加
えた高さとしている.格段に治水安全度が上がり,河川が氾濫する頻度が減少している.
② 護岸
現在は,護岸をのり覆工,基礎工,根固工に分類する考え方が取られている.のり覆工は,
堤防の表面の洗掘作用を防止するもの,基礎工は土留めとなっているのり覆工の基礎部分,
根固工は基礎工前面の河床の洗掘を防止するものである.全体として,護岸は流水の作用か
ら堤防を堅固に直接的に保護している 9).
現在の整理は,
『川除仕様帳』の河川構造物の分類を踏襲したものである.構造に関する基
礎的な考え方は,江戸時代に完成しており,現在はこれを体系化したものである.しかし,
現在ではコンクリート等の材料が一般的になったことから,のり覆工の強度が高まり,浸透
水の遮水機能が加わっている.また堤防上の植生の強度や機能を期待しなくなっている.
③ 水制
水制は,流水の侵食から河岸や堤防を保護する構造物である.現在では,主として大河川
の湾曲部で流水の方向規制や急流河川での流速緩和のために設けられている.
中小河川では,
ほとんど使用されていない.その構造は,流速現象に有効は透過型と,水はねの効果が大き
い不透過型に分類されている 9).
上記は『河川管理施設等構造令解説』による説明である.大河川での流向の修正は『百姓
伝記防水集』のさる尾が発展したものといえる.また,急流河川の水制は,
『川除仕様帳』に
ある大規模な渓流の籠出しの機能そのものである.しかしながら『川除仕様帳』に詳述され
た水制(表 3-11 の⑥および⑦)については『構造令解説』から読み取ることができない.
江戸時代に多用された水制は,洪水に対する抵抗の小さな不透過型である.河床洗掘を水
制頭部付近に固定する水寄せ水制,あるいは,みお筋を遠ざける水除け水制である.これら
は材料強度の高まった護岸への信頼性が高まったため,みお筋管理がされなくなり,解説も
されなくなったものと考えられる.現在ではほとんど使用されることがなくなっている.
(3) 江戸時代の河川構造物からの変化
河川構造物の特徴を比較することで,江戸時代の河川技術の多くが,現在も使われているこ
とが明らかになった.堤防を洪水対策の要とする位置づけや,のり覆工,基礎工,根固工から
なる護岸と流水を制御する水制で堤防を保護する考え方はまったく変わっていない.
しかし,堤防高さ向上と氾濫頻度の低下,護岸の材料強度の増大,みお筋管理の放棄には明
らかな違いが見られる.その結果,河川構造物の設置の検討順序が変化している.江戸時代に
は,水制,堤防,護岸の順であったものが,現在では堤防,護岸,水制の順で検討されるよう
になっている.
88
3.1.6 まとめ
本節では,江戸時代の『百姓伝記防水集』と『川除仕様帳』から河川伝統技術の原形を抽出
し,現在の『河川管理施設等構造令』との比較分析を行った.
『百姓伝記防水集』は農民の心得として書かれている.そのため理念的な記述や各地の見聞録
が多い反面,洪水時の水防活動については詳細に書かれている.河川管理については,堤防を
中心とする考え方で,洪水外力を予防的に減少させるみお筋の安定に主眼が置かれている.個
別技術として,水制や蛇籠などの説明があるが,現地での制作方法が多く,河川構造物として
の機能は十分説明されていない.
『川除仕様帳』は,河川技術者のための手引書であり,構成,内容ともに.工学的な記述とな
っている.河川特性の分類と,堤防,根固め,水制などの河川構造物の機能解説が詳細である.
土工,石積み,蛇籠などの土木工作物が大まかに説明されるのは,個別技術が一般に普及して
いたからであろう.また,土木構造物が変形劣化することを織り込んで,春秋随時補修する必
要があるとしている.
『河川管理施設等構造令』に記される構造物,および,その機能は,おおむね『川除仕様帳』
と同様である.江戸時代初期の技術が高い水準にあったといえる.ただし堤防の高さとのり覆
工の強度の考え方については明らかな違いが見られる.併せて,植生と水制の機能を高く評価
しなくなっている.
これらの分析と現在の技術との相違を考慮して,江戸時代の河川管理技術の特徴を次の 2 点
に集約することができる.
特徴① 河川の営力の活用
『百姓伝記防水集』では,
“流水を弱めてから,堤防を保護し,守り切れなければ水防活動”
という考え方で,みお筋の安定を重視し,淵の成長を警戒していた.
『川除仕様帳』には,
水制や締め切りによって,積極的にみお筋を管理する方法が伝えられている.これらの洪
水対策の基本理念を以下に要約する.
・堤防は村里を守る要.
・河川特性を把握し,河道の変化を予測する.
・河道を管理し,水勢を弱めて,堤防を守る.
・洪水には,勝たずに負けずに災害をしのぐ.
・しのぎきれない氾濫に対して全員で備える.
すなわち河川管理としては,コメ生産を守る要の堤防を,構造物で直接的に保護するよ
りも,河川の営力を活用した間接的な保護が優先的に検討された.ただし,河川営力の活
用は,洪水外力と時間経過を利用するため,経験と予測に基づく高い技術力が必要であっ
た.
89
特徴② 設置可能な構造物の選択
河川営力の活用のために必要な構造物が配置された.
『川除仕様帳』では,河川特性の分
類に応じた河川構造物の機能解説に力点が置かれている.河川技術者には河川構造物の選
択における判断力が必要とされていた.
・まず水制を用いて,みお筋を安定させ,水当たりを弱める.
・堤防は,越水も考慮して,切れないように築く.
・護岸は,必要なところに,必要な材料で設ける.
しかし構造物は任意に選択できるものではなかった.
『川除仕様帳』の土木工作物の項に
は,種々の制約条件が列挙されている.主たる条件は,入手可能な材料,現場での施工技
量である.これらから設置可能な河川構造物が検討され,水制,堤防,護岸が選択的に設
置されていた.また,構造物は経年的に変形,破損することものであり,日常的な点検補
修を行うことが設置の前提条件であった.
最後に,江戸時代の河川管理技術(いわゆる河川伝統技術)と現在の技術を比較する.
本章で分析した,河川の営力の活用と設置可能な構造物の選択を柱とする河川伝統技術の考
え方を図 3-3 に示す.基本的な考え方は,現在の河川管理と同じである.
コメ生産の最大化
(目標)
河川と洪水の
特性分析
河川の
営力の活用
入手可能な材料
現場の施工技量
設置可能な
構造物の選択
水制でみお筋管理
必要な堤防と護岸
日常の点検補修
予算の制約
経費の節減
図 3-3 江戸時代の河川管理技術(河川伝統技術)の考え方
90
しかし,
コンクリート等の強い材料と機械による大規模施工が一般的になっていることから,
検討の技術的内容に差異が見られる.
○ 構造物の強度が高まり,みお筋管理のための水制が用いられなくなった.連動して,河川
と洪水の分析が疎かになりがちである.
○ 材料と技量の制約が小さくなったため,構造物の選択の自由度が高まった.併せて,構造
物の長寿命化が進み,点検補修が軽視されるようになった.
現在の河川管理は,治水,利水,環境(利用)の複合的な目標を達成するために,河川伝統
技術の活用が期待される.その際には,指摘した技術的内容の違いに留意する必要がある.
91
3. 2 河川技術者の役割の変化
3.2.1 はじめに
1603 に江戸幕府が開かれると,日本には戦乱のない日々が訪れ,幕府と藩が人民を統治する
幕藩体制が敷かれた.
幕府領や各藩では,
それぞれ領内で治水工事や新田開発が盛んに行った.
組織的な土木技術による築堤や水路開削が行われ,水田が飛躍的に広がった.これを基盤とし
て,度重なる自然災害や財政的な危機を経験しながら,社会全体として持続的な生産活動を行
われるようになった.
安定的な領国経営を実現するために,幕府領や藩領では,それぞれ勘定奉行や郡奉行など地
域管理を担当する地方役人が置かれた.彼らは,管内の村々からの税収を確保するために,地
域防災や農業生産を支えていた.地方役人の主要任務のひとつが河川管理である.
本節では,江戸時代の河川管理の方法を把握するために,実務を担った河川技術者の位置づ
けに着目した考察を行う.
江戸時代の河川管理のしくみを知る手掛かりとして古文書を用いる.江戸時代には農書や地
方書と呼ばれる比較的多くの古文書が残されており,農業生産に必要な利水,治水のしくみを
述べている.これらのうち江戸時代の前期,中期,後期の代表的な古文書を取り上げ,河川技
術者の位置づけと役割の変化を分析することとする.
前期の資料は,17 世紀後半の『百姓伝記防水集』である.農業技術全般を網羅した農書であ
り,一章が河川管理に割かれており当時の考え方がまとめられている.
中期の資料は,18 世紀前半の『享保の修築例規』である.徳川吉宗の行った財政健全化の一
環として,幕府の河川管理の改革を伺うことができる.
後期の資料としては,19 世紀の『隄防溝洫志』を取り上げる.治水・利水施設の管理につい
て論評した書籍であり,河川管理の考え方を知るのに有効である.
これらの中から河川技術者に関する記述を抜き出し,それぞれの時代に与えられていた任務
を整理する.さらに時間的な変化を見ることによって,河川管理の方法や河川技術者の位置づ
け考察することとする.
92
3.2.2 『百姓伝記防水集』
江戸時代初期の 17 世紀の農村の様子が『百姓伝記 10)』に記録されている.著者不詳である
が,その具体的な記述内容から,三河から遠州にゆかりのある村役人層が,諸国の情報を収集
して 1680-1682 年に著したと考えられている.当時の河川管理に対する考え方や,当時用いら
れた土木技術がまとまった記述され,
江戸時代前期の自営的農業の全容を知ることができる 11).
『百姓伝記』は,全 15 巻からならなっており,そのうちの巻七が『防水集』として洪水対策
の取りまとめに当てられている.
『防水集』の構成(表 3-14)は,原文の目録を参考にしつつ,
技術的内容を踏まえ再構成したものである.このうち,
「序文」
,
「大河の堤をつくこと」
,
「川除
こころへのこと」
,
「大水をふせぐこと」の河川管理にあたる基本的な心得が述べられている.
表 3-14 『百姓伝記防水集』の構成
○
○
○
○
○
○
○
序
大河の堤をつくこと
みよとめ堤をつくこと
雨池,堰,堤普請心得のこと
川除こころへのこと
大水をふせぐこと
その他
(河川管理の基本理念)
(堤防の考え方)
(河川締切による新田開発事例)
(用水確保の考え方)
(河道管理の考え方/土木技術の例示)
(水防活動の考え方)
(海岸堤防,津波被害,土石流対策など)
『百姓伝記防水集』の技術的内容を表 3-15 に示すとともに,その要点を以下に整理する.
① 池や川は毎年維持管理して,水害を防ぐことが重要.堤防,用水,川除の管理は,農耕が
始まってからずっと農民(地域住民)のしごと,子孫の代の水害を防ぐしごと.
② 堤防は,我々の田畑と家屋を守る城郭.どんな洪水に対しても堤防を切らさないこと.満
水しても越水しても堤防を守ることが重要.
③ 川除は,破堤を防ぐ備えであり,洪水の当たり方を弱めて,堤防を強化し,堤防の全面に
淵が来ないようにすること.常に補修しておくことが常住(持続的な村の生活)の条件.
④ 洪水時には,全員が集まり,堤防を守ること.ただし,現在は奉行衆が堤防の保護を考え
ているので,早く参集して,指示に従って行動すること.
⑤ 非常な洪水時には,被害が小さくなるように考えて,堤防を切ることがある.川の淵と瀬
は変化することが多いので注意すること.
『百姓伝記防水集』に記された 17 世紀の河川管理には,農民,村役人,奉行衆が登場している.
ただし,古くから農民が子孫のために河川を管理してきたと自覚しており,奉行衆を新たな幕
藩体制の下で設置された河川技術者と認識している.戦国時代の地縁的な自衛集団であった村
の社会に,幕藩体制の地方行政が浸透してきたという時代の変化を反映したものといえる.
洪水対策については,すでに堤防を要とする考えがあり,破堤を極力回避することを基本方
93
針としている.破堤を回避するために,予防的な河川改修を行うとともに,大洪水の越水は許
容して,全員で水防活動を行うこととしている.組織的な自衛行動であり,村を単位とする「共
助」が確立していた.これを前提として河川技術者が存在した.彼らは,広域的な被害の最小
化を図るため,特定の堤防を切るという非常時の判断を行うことがあった.これが,現在にも
引き継がれている河川技術者による「公助」の発生と考えられる.
表 3-15 『百姓伝記防水集』の記述内容
序
抑,水は方円の器にしたがひ,人のこころにかなひ,船をうかべ,筏を流すに便有.宝土のうる
をひとなりて,万物を養ふ.一滴をもたつとまずと云事なし.
しかりといへども,洪水・満水に及びては,山を崩し,宝地を洗ひ,人家を流す費あり.天地の
災難なげきてもあまりあり.物の及ばざる事は,大水を手にてふせぐと世話にもいへリ.されども
我々が住国村里に,往古より有来る池・河をば,年々歳々修理を加へ,水災のしのぐ心得肝要なり.
依之,本朝の大河には池・堀のかこひ,普請の仕かた善悪,見及び聞伝たる所を,予,ひそかに書
付,坊水集と名づけ,百姓伝記の類巻にのする.堤・井溝・川除普請は,世に耕作初りし上代より
このかた,土民の役たり.末代も猶油断ありては,子々孫々水災にあふべし①.
大河の堤をつく事
堤は我々が村里の田畑のかこひ,在家のかこひにつく.たとへば武家の城郭にことならず.大切
なる普譜なり.
堤を大河の水かこひにつくる事,いか程つよき洪水有共,我々かかゑの所をきらさぬ様につくが
功者なり.たとへ満水に及びて,堤をのり越水たり共,半日か一日は,手をあててもふせぐ心得肝
要也②.洪水たり共,半日か一日の大雨にて満水多かるべし.大雨・大風の二日を過たる事なし.二
時三時をふせぎ,かこへば引水となる.
川除こゝろへの事
河除は堤をきらさぬ備へなり.つねの水にも,川のまがりめありては,水あて,堤の根ほれて淵
となり,次第に堤あせきれるなり.ひたもの堤裏に土を置て,逃げつきに堤をつけば,其処弥よま
がりて水あたる.さやうなる処を,川むかひとこなたに水よけをして,水の押付をやわらげ,堤を
つよくし,淵には洲を居させ,瀬をちがふる事肝要也.大水の時は,取わけさやうなる所へ水当り,
あぶなし.つねにかこひをするが備へ也.河よけには色々の方便あり.さる尾・石わく・袖わく・
うし,柳を植,竹を植,芝を付,水草を植て置,満水をしのぐ.時に取て不叶.⑦多年の心懸能けれ
ば,安々と水難をのがれ,田畠無事にして,在家安穏なり.国々村里の者不心懸にしては,ねみみ
に水の入事うたがひなく,作毛を流し,国土のついゑをなす.つねに水なき山川・小川なり共,四
季ともに油断有ては,其費多かるべし.水を流す処をば,急度修理し,拵置べし.是常住の備へ也③.
川除・石わく・袖わく・さる尾普請仕といへども,押斗て当座になす事,人夫等につき其費多し.
我々が国郷の普請場をば,兼て絵図認置,其図に堤の間数,水の押付,さる尾・石わく・袖わく・
うしのふせ置処を記し置,万一洪水の節,水下の村里より出て,堤をかかゑる人足等のつもりをし
てしり,何方より何方まで,何村何千石の人足にて堤をかかゑ,大水をふせぎ分と定,杭に書付を
して,つねに川下の村里の土民,男・女・子どもまでも知るやうに云合定置,夜中たり共出集り,
堤をかかゑて水難をのがるる心得かんやうなり.まして御当代は御公儀の御奉行衆,左様なること
に油断なし.其節は御指図にまかせ,少もはやく罷出,堤をふせぐことほんいなり.国々村里に御
定の郡司・庄官・五人組,猶以油断致間敷事なり④.
堤をかかゑる事
我々が住村里も他の村里も,堤のよはき処・つよきかかゑ場の人足,常々たがひに知べし.無勢
なる方,必堤にはやくいたみ付べし.御地頭には,堤のつよみ・よはみ・水当・かかゑ処つねに能
しろしめし,川筋の絵図,双方村々里々の田畠御所務,また在家の水にをぼれて人馬の生死有処ま
で御かんがへ,何方にて災難のかろき方を,堤をきりて水をちらし,人馬をたすけらるる⑤.御当世
は国々里々大河有之所は,堤を能つき,さる尾・石わく・袖わくを以かこはせらるれば,水難すく
なし.されどもうつりかはりて,川筋は淵瀬のかわること多きなり.
94
3.2.3 『享保の修築例規』
江戸時代初期の幕府領の河川管理は,ほとんど代官などの現場の担当者に任されていた.し
かし,河川技術者の判断力の低下によって,費用が過大に見積りや不必要な場所で工事が行わ
れるようになり,幕府財政を逼迫させる一因となっていた.そのため,八代将軍吉宗の享保の
改革の一環として,河川改修の経済的設計の強制と幕府による費用査定が厳しくなった 12).
幕府の方針は,1723(享保 9)年に出された『修築の濫費を戒む通達 13)』に示されている.
表 3-16 に示す通達の要点は,河川改修の方法をよく検討し,補修経費を減少させるため,標
準的な方法を考慮して積算することである.
『通達』に示す河川技術者の基本的な任務が次の 2
点である.
① 常に管内を巡視し適切な管理を行うこと.
② 常に農村からの税収増加を図ること.
表 3-16 享保九年の『修築の濫費を戒む通達』
享保九年(1723)八月復た修築の濫費を戒む.曰く,
今囘堤防の工費を興起するに際し,代官各自其經費を積算し,帳簿を制成して,以て之を進呈せし
に由り,勘定員を發遣し,之を協議し,官費は言を俟たず,修築の方法を審覈せしに,官費減少する
こと其半に過ぎたり.蓋し代官は,其管下の事頂なるを以て,常に注意して,豫め考定する所有らば,
當に其積算に特殊の錯違を生ずること無かるべし①.然るに此の如くなる所以のものは,其事を等閑に
付して手代に放任し,官費の濫費を省かざるの致す所なり.其罪嚴糺すべしと雖も,今囘は之を寛恕
するに由り,今後は百事に注意し,後來の弊習を改革し,常に其管下を巡檢し,宜しく修築すべき時
期を以て稟候すべし.但し取箇(年貢)は常に檢覈して,漸次に增加するを要す②.
さらに幕府は,1732(享保 18)年に,
『修築の例規 4)』を出して,河川技術者に具体的な指示
を与えている.
『修築の例規』は,10 条からなる命令書であり,その各条の主文(表 3-17)の
要点は次のとおりである.
① 河川管理にあたっては,小破を補修し,大破を予防すること.村役人は,毎年河川を補修
し,管理経費を節減すること.
② 村役人は,担当区域を日常巡視し,洪水時には,担当外であっても支援すること.
③ 用水管理にあたっては,分担を決めて,毎年,草を刈ること.
④ 河川改修は,洪水時の水衝部,水当たりを調査し,全体の損益を考慮して計画すること.
⑤ 必要な資材は,注意して点検し,補完すること.
⑥ 必要な木材は,近隣の森林から適宜伐採すること.
⑦ 必要な石土は,支障のない近隣の場所から掘削すること.
⑧ 改修予算は,被災の規模,流水の強弱に注意して,適切に見積もること.
⑨ すべての材料費,
工事費を精査し,
経費を節減すること.
工事の請負方法を検査すること.
⑩ 堤防は,必要があれば,補修予算を申請すること.その他の施設の補修は村が費用負担す
ること.予防を疎かにして税収を減らし経費を散らすことのないよう,日常から村役人を
注意し,指揮すること.
95
18 世紀の享保の改革では,幕府は抜本的な財政再建に取り組んだ.河川管理においては,標
準工法を示して過大積算を防止するよう,河川管理の実務責任者である地方代官を監視するこ
ととした.また代官は,自ら現場を巡視し,農民に適切な維持管理をさせることで,経費節減
と税収増加を図った.
また幕府は代官に対して,河川管理の原則を示した.災害復旧を含めて経費節減を図るもの
で,
「小破を補修し,大破を予防する」という考え方である.河川管理施設は,大規模な洪水外
力に抵抗するに十分な強度はなく,かつ,経年的は変化が避けられない.これを最小の経費で
管理する方法として,日常的な巡視を欠かさず,小破を発見,補修することの重要性が強調さ
れている.
この考え方を実践するために,代官による村役人の指導が強化された.村役人には,日常の
巡視と洪水時の水防を命じており,さらに,堤防補修以外の費用負担を義務づけている.その
上で,代官自身による現場の視察,洪水時の流れの調査,工事費の見積もりなどを求めている.
代官の任務は,管内の村役人を指導し,全体の損益を調整することであった.
なお,享保期には,川除普請定法書(設計基準書)が示され,これ以降の幕府領の河川技術
者は基準書から妥当な施設を選択するようになった.諸藩の河川管理については,必ずしも明
らかではないが,藩が財政再建に取り組む中で幕府と同様の任務があったと考えられる.
表 3-17 享保十八年の『修築例規』の各条主文
(一) 諸國代官所委託地の堤防,溝洫,閘椿,橋梁等の官修若くは民修を問はず,都て注意して大壞に
及ばさるを要し,必らず其修築に怠懈する勿れ.且つ河渠下流に沿ふ村里は,日常心を用ひ,小
破する有らば,其際を以て直に之を修築せば,逐年其破壞の各所自ら減少し,随つて官民の兩費
を節約するを得.①
(二) 每年農隙を候し,小破の際を以て官修所及び民修所を修築し,水荒の難を防御するを最も專務と
なす.村吏等日常巡視して,其擔當地小破するも之を等閑に付する者有らば,則ち必ず之を料覈
すべし.且つ洪水横流の際は,假令其擔當區域の外なるも,村吏等其水勢の強弱を候定し,之を
援禦せしむるを要す.②
(三) 溝洫の浚治は,冬春涸水の際聯合の各村若くは聯合なき各村も亦一村中を協約し,分區擔當の地
を劃定し標表を建植し,每年刈浚を懈怠する勿れ.③
(四) 沿岸修築の方法は,平水の觸激する所と,盈水の觸激する所とを量り,其水勢の強弱を檢考し,
以て計畫するを緊要となす.修築は全體の損益を勘定するを緊要とす.④
(五) 修築所に資料する諸材具等は,宣しく點檢して,保存に注意し,且つ冗費を節約すべし.⑤
(六) 官費修築所の近隣に官林あるの村里は,必ず代官所委託地の區別を問はず,宜しく其材料を伐用
すべし.⑥
(七) 堤防溝洫等官修の豫圖をなすの際,石土を掘採するを得べき地所は,該村里の習慣に係らず,障
害無きの地所を以て檢定するを緊要とす.⑦
(八) 諸國修築所禀候中,或は其村格の良不良に随ひ,修築所不適當の豫算をなす者あり.今後は破壞
の大小に随ひ,行水の觸激に注意し,適應の豫算をなすを以て專務とすべし.⑧
(九) 總て官修所に資用する竹木總諸具,及び諸工費は細査し,其保存方を考量し,隨つて官費を節減
するを要す.宜しく,巡視臨檢の際に當り,其擔負方法の諸事を檢覈すべし.⑨
(十) 堤防は修築の有無,年數等を檢覈し,官修所たるの明文あらば,前例に準じて之を査覈し,其已
むべからざるものに係らば,速に修築の豫算を禀真申すべし.其他溪河小渠の近傍田圃の崩流水
柵の破壞等は,民修の繼ぎ難きものを除くの外,專ら村費を以て修築し,若くは隣鄕の助功を命
じ,專ら官費を仰がざるを要す.古來の堤防の如き,常年の洪水に破壞せられ,多少の耗損を招
くは,全く其各村胥吏等豫防の疎略なるに基き,收租に響障し且つ冗費を散消するに由り,各自
巡村の際は言を俟たず,日常之を注意指揮すべきは,職務上最も緊要と爲す.⑩
96
3.2.4 『隄防溝洫志』
江戸時代後期の河川管理の様子を伝えているのが,1800 年代前半に佐藤信有が著した『隄防
溝洫志 14)』である.佐藤信有は,蘭学,儒学など広く学習した経世家であり,河川管理の実務
者ではない 15).しかし,享保の改革からおよそ 100 年の間に河川管理に携わった先人の経験を
取りまとめた書籍は,この時代の河川管理の実務要領といえるものになっている.
『隄防溝洫志』は,全 4 巻から構成され,巻一は「前段」および「普請処理取計の事」である.
河川管理の考え方を示す箇所を抜粋して,表 3-18 および表 3-19 に示す.なお巻二~四は,隄
防,石垣,石出し,蛇籠,杭出し,杭,牛枠,用水,橋,掘割の標準工法の解説となっている.
表 3-18 の「前段」においては,河川管理の任務を建国の根本とし,これに携わる「水土を司
る役人(河川技術者)
」の能力を重要視している.河川技術者には,能力の高い人材を充てると
ともに,現地調査や他河川視察によって河川を研究するよう求めている.また,村々を巡回し,
その管理について技術的な指導を与えることとしている.
表 3-18 『隄防溝洫志』の前段(抜粋)
一 抑,隄防ヲ築キ立テ洪水ノ難ヲ防キ,溝洫ヲ修理シテ旱魃ノ患ニ備フルハ,國家ヲ建ルノ根本ニ
シテ,國土ニ主タル者ノ常務ナレバ,豫テ其業ニ鍛煉ナル者ヲ撰テ普請奉行ノ役ニ申シ付,常々
村里ヲ巡廻セシメテ,井路ト川附ノ土手ヲ見分シ,少シニテモ危キ塲處アラハ速ニ此ヲ目論見ヘ
シ.村方ヨリシテ破損アルコトヲ訴ヘ出ルヲ待ツコト勿レ.
四 凡ソ水當リノ強弱ハ,渴水ノ時ト満水ノ時トハ意外ニ様子ノ違ヒタル者ニテ,渴水ノ節ノ水勢ヲ
見テ目論見スルトキハ,天晴丈夫ニ出來テ,手抜ケノ少シモ無ク仕立タリト思ヒ定メタル川除普
請ニテモ,大水ノ出ルニ及テ,其水刎ノ一向ニ役ニ立サルコト多シ.故ニ水土ヲ司ル役人ハ洪水
ノ出タル時ニハ諸方ニ手分ヲ定メテ,川々ヲ巡回シ處々ノ水勢ヲ精シク熟覧シテ置クベシ.且ツ,
水土ノ事ヲ司ル者ハ心ヲ用ヒテ,諸國諸川ヲ視ヨ.水理ニ熟達シタル人仕立タル水刎ハ,大水ニ
破損スルコト甚タ強シ.是レ水當ノ極テ劇シキ塲處ヲ撰ヒテ仕掛ルカ故ナリ.又,不巧者ナル人
ノ仕立タルハ,度々大水ニ遇フト雖トモ,破損スルコト無ク何年經テモ其儘ニテ在ル者ナリ.
続く表 3-19 の「御普請處取計ヒノ事」では,冒頭に河川実務者の具体的な任務を列挙してい
る.記述は,
『修築例規』の記述内容をおおむね踏襲している.ただし,技術的に必要ならば経
費をかけ,
技術基準書に拘らないとし,
河川技術者に一層の工夫を求めている点が注目される.
① 平常時の維持管理では,河川を巡視し,破損があれば村に補修させること.
② 規模の大きな災害対応では,必要に応じて,自ら応急復旧を実施すること.
③ 堅固な補修を行って,農業を振興することは,費用がかかっても国益に適う.
④ その土地の安全度と洪水の特性を勘案して,工夫を巡らし,費用の多少に関わらず,永久
堅固の良計を立てることが河川技術者の任務である.
⑤ 河川管理の技術を村役人に周知させ,河川技術者自らが現場を巡視すること.
⑥ 洪水時には,現場に出て,人夫を集め,水防活動を指揮すること.
⑦ 標準工法を標準とするが,現場に河川に応じた適切な工法を採用すること.
97
このように,
『隄防溝洫志』には,実際の河川管理の反省から生じた意識改革がみられる.技
術基準からの工法選択によって画一的な河川工事が行われ,現場の実態に合わず,繰り返し被
災する弊害が顕著になっていたためと考えられる.そのために,経済的な妥当性と技術的な合
理性の両立が必要となり,河川技術者による創意工夫が求められたのである.
「前段」4 条にあ
る熟練工の水制はその典型的な例示である.これは,水制を水当たりが強い効果的な場所に置
き,被災すれば補修をする構造物である.すなわち,
『修築例規』の「小破を補修し,大破を予
防する」という考え方を発展させ,
「小破しやすい水制で,堤防の大破を予防する」というもの
である.繰り返される大きな外力に抵抗して,永続的に重要施設を守るための知恵である.
いずれにしても,
『隄防溝洫志』は,村の中の河川技術者の役割を重視している.江戸時代後
期には,河川技術者が技術力を発揮して,村役人を統率することが期待されていたといえる.
表 3-19 『隄防溝洫志』の御普請處取計ヒノ事(抜粋)
一 隄防,川除,其外諸ノ土方御普請塲處ノ事ハ,平生能ク心ヲ用ヒ,少シニテモ破損アラバ早速注
進スベシト,兼テ村々ニ申シ付ケ置クベシ.若シ村方ニテ修復出來ル程ノ事ナラハ,時日ヲ移サ
ス取リ繕ヘシ.或ハ村方ノ力ニ及ハザルコトナラハ,其ノ村並ニ組ミ合村々ト相談シテ,其旨ヲ
早ク注進シ,聊カモ御普請處ヲ麁末ニ致ス間敷ノ趣キ,急度申シ付ケ置クヘシ.①
二 平日能ク川々ノ隄防ニ心ヲ用ルト雖トモ,萬一各別ナル洪水アリテ决處ノ出來ルコトハ,非常ノ
天災ナレハ是非ニ及ハス.若シ村方ノ力ニテ繕ヒ難キ程ノ破損アル時ニ,地方役人コレヲ見分シ
テ繕ヒ方ヲ目論見.…能ク川々ノ水勢ヲ校定シ慥カナル目的テアル處ハ,御入用ニ拘ルコト無ク
丈夫ニ普請ヲ仕立テ,國家永久ノ御為ヲ謀リ,百姓ヲ安堵セシメテ,農事ヲ勵ムニ便利スベシ.②
三 右ニ説キタル如ク,隄防ヲ堅固ニスルトキハ,百姓皆水難ノ絶テ無キコトヲ知リ,御上ノ御仁德
ヲ仰キ奉ルコト殊ニ厚ク,別シテ能ク農業ヲ勵ムヘキヲ以テ國内漸々冨實スベシ.然レハ一旦御
入用ハ多ク掛ルト雖トモ,畢竟永久ノ御國益ナリ.③
四 隄防ノ修理ハ堅固ヲ專要トスト雖トモ,目的モ無キ塲處ニモ過分ナル御入用ヲ費スベキノ謂ニハ
非ズ.只能ク川々ノ水勢ヲ熟察シテ,利害ヲ見極メタル上ハ,御入用ノ多少ニ拘ラス存分丈夫ニ
普請スベシ. …尤モ隄防ヲ修理スルニハ,石川,砂川,泥川ノ差別アルヲ以テ,能ク其地ノ土性
剛柔ト水當ノ強弱トヲ踹確シテ,懇誠ニ工夫ヲ廻ラシ,永久堅固ナル良計ヲ為スベキコト,水土
ヲ司ル役人ノ專務ナリ.④
五 御普請塲ノ御定法ハ,川附村々ノ名主,組ミ頭,惣百姓共マテニ兼テ嚴シク申シ渡シ置キテ,隄
防ノ石一箇抜ケタルモ早速ニ挿石ヲ致スベク,亂杌一本脱タルモ即時ニ此ヲ打チ足シテ,聊モ麁
畧ニ致シ捨テ置クマジキノ旨,年々三四度ツツモ申シ渡シ置クベシ.且ツ上役ノ者モ自身ニ廻村
シ,下役タル者ハ殊更ニ時々巡廻シ,能ク念ヲ入レテ見分シ,若シ其行キ届カサルコト有ルニ於
テハ,村役人ヲ急度咎メ申シ付ヘシ.⑤
六 大水ノ出タル時,・・・・・・洪水九合或ハ一盃ニ出ルトキハ些許リノ漏リ水,或,馬蹈ノ卑キ處ヨリ
越水スルトキハ,其漏水越水ノ處ヨリ堤ハ直ニ决ル者ナリ.此等ノ事ヲ兼テ能ク心得居テ,馬蹈
ノ卑キ処ニハ土囤ヲ積ミ並ヘテ杌ヲ打タセ,漏リ水スル處ニハ杌ヲ打テ速カニ此ヲ塞キ,大水ノ
時ハ役人共早ク出テ人夫ヲ數多川端ニ集メ置キ,水防キヲ嚴重ニスベシ.⑥
十五 凡ソ隄防ノ普請ノ事ハ上ニ説タル如ク,國々處々ノ川ノ様子ニ因テ仕立方モ違ヒ,又前々ヨリ
其塲處ノ仕來リモ有リ.其川ニ應シテ仕立ル普請アルカ故に,定法ニ泥ミテ一概ニハ心得ベカラ
ス.…凡ソ目論見仕立ル時ハ,下ニ説タル定法書ヲ模範トシテ,川除,水刎,用水,樋類,橋等,
定式ノ法ニ從ヒ目論見積ルベシ.且ツ又,國々處々ニ因テ相違ナルコトモアル者故,其處ノ地理
ニ不案内ナルニ於テハ,損失アルニ論ナシ.必ス其處ノ土方ニ精キ古老ニ詢ヒ,謀リテ,手抜ノ
無キ様ニ取リ計ルヘキコト第一ノ上策ナリ.⑦
98
3.2.5 明治以降の治水と水防
明治維新を期に,幕藩体制下の河川管理態勢は一旦消滅した.しかし江戸時代に完成してい
た村役人と河川技術者からなる水防と治水の関係は,旧来の慣習として地域で存続し続け,や
がて中央政府によって順次法的根拠を与えられることとなった.
村の水防に関する規定は,1881 年の区町村会法改正で,旧慣として行われていた水利・水防
作業(水利土巧)
,1884 年の区域を定めて設置する水利土巧会の規定がある.いすれも費用負
担は区町村会であった.1890 年には水利組合条例によって,水利土巧は,普通水利組合と水害
予防組合の分化し,費用はそれぞれの受益者負担とされた.
治水については,河川法 16)が 1896 年に制定され,地方行政庁あるいは政府が河川管理者と
された.実務を担う河川技術者は,国の営造物である河川を管理するものとされ,徴税を除い
て,江戸時代の機能をすべて引き継いだ.なお表 3-20 に示すように,洪水時には,河川技術
者は,土地や資材を使用し,地域住民を使役して,災害を防御することができるとされている
が,ここでも費用負担は,市町村もしくは水利組合であった.
表-3-20 1896(明治 29)年の河川法の洪水防禦の規定(第 23/40 條)
(抜粋)
第二十三條 洪水ノ危險切迫ナルトキハ地方行政廰又ハ其ノ委任ヲ受ケタル官吏ハ其ノ現場ニ於テ
真ニ防禦ノ為ニ必要ナル土地ヲ使用シ土砂,竹木其ノ他ノ材料,車馬具ノ他ノ運搬具及器具等ヲ
使用若ハ徴収シ又ハ其ノ現場ニ在ル者ヲ使役シ家屋其ノ他ノ障害物ヲ破毀スルコトヲ得
第四十條 第二十三條第一項ノ處分ニ因リ著シク損害ヲ受ケタル者アルトキハ地方行政廰ハ其ノ管
内ノ市町村組合若ハ水利組合ニ命シテ其ノ物件ノ價額ヲ補償セシムルコトヲ得
‰
法制度は整えられたものの,洪水被害は減少しなかったため,1916
年には水害予防訓令
17)
が示された.表 3-21 に示すように,市町村,市町村組合,水害予防組合の責任として水防施
設を整備することとされた.1949 年制定の水防法の基本的な考え方がすでに示されている.や
がて 1955/1958 の水防法改正により水防活動や経費支出が市町村行政の中に組み入れられ,
1961 年の災害対策基本法には国,県,市町村と並列して,住民の防災責任を明記した.
表 3-21 1916(大正 5)年の内務大臣水害豫防訓令(抜粋)
洪水氾濫の虞ある地方にして未だ水防に関する施設の完からざるものに在りては市町村,市町村組
合,町村組合又は水害豫防組合をして其の土地の状況河川の状態等に鑑み大體左の標準に依り水防施
設を完備せしむると共に之が監督指導に努め以て水害豫防の實跡を挙ぐることを期すべし
一 地域廣闊其の他特別の事情あるものに對しては適宜水防區を設けしむべし
二 水防の必要ある公共團體に對しては左の設備(貯蔵小屋,材料及器具,洪水標を爲さしむべし
八 水防の必要ある公共團體には左の水防員(水防長,水防部長,水防組頭,水防小頭,水防夫)
を置かしむべし
前述したものを含めて,明治から平成までの洪水対策に関する関連法令を表 3-22 に示す.一
連の法整備によって,地域単位の水防と広域的な治水の関係が現在の社会に継続している.表
3-23 に書き出したようにおり,現行法では,江戸時代以来の「自助・共助・公助」の地方防災
態勢が,災害対策基本法,水防法,河川法の中で位置付けられている.
99
1873 (明治 6 年)
1881 (明治 14 年)
1884 (明治 17 年)
1890 (明治 23 年)
1894 (明治 27 年)
1896 (明治 29 年)
1908 (明治 41 年)
1916 (大正 5 年)
1947 (昭和 22 年)
1949 (昭和 24 年)
1955 (昭和 30 年)
1958 (昭和 33 年)
1961 (昭和 36 年)
1964 (昭和 39 年)
1997 (平成 9 年)
2001 (平成 13 年)
2005 (平成 17 年)
2012 (平成 24 年)
表 3-22 明治以降の洪水対策に関する法令等
法令
洪水対策関連の内容
河港道路修築規則 河川・用水の修繕は地方官,その費用負担は受益者
区町村会が行う利水事業や水害防御の慣行(水利土巧)を規定,経費は地域
區町村會法改正
負担
區町村會法改正
区町村会とは別に,区域を定めて設置する水利土巧会を規定
水利組合条例
かんがい排水を行う普通水利組合と水害防御を行う水害豫防組合を規定
消防組規則
水火災の警報防御を行う消防組を規定,国の統制下で,経費は市町村負担
河川管理者を規定(地方行政庁/政府)
,水防は市町村の義務とし,洪水時の
河川法
土地使用や障害物破毀などを規定
水利組合法
旧町村会,水利土巧会を水利組合とみなす
市町村,市町村組合,町村組合又は水害豫防組合が,水防区,水防施設,
水害豫防訓令
水防員を設置
水火災又は地震等の災害被害を軽減する消防の任務,市町村長の管理,市町
消防組織法
村の費用負担を規定
水災を警戒・防御して被害を軽減する水防の目的,水防管理団体(水害予防
水防法
組合/市町村組合/市町村)の水防責任,水防団/消防機関の水防行動,水防管
理団体の費用負担を規定
土地改良法
土地改良区を規定(水利組合法の普通水利組合に代わって)
水害予防組合法
水害予防組合を規定(水利組合法を改正して存続)
国による洪水予報,水防による受益市町村の経費負担,水防活動への県費/
水防法改正
国庫補助などを規定
市町村の水防責任,水防事務組合の創設(水害予防組合からの移行,市町村
水防法改正
の経費負担)などを規定
災害対策基本法
国,都道府県,市町村,住民等の防災責任を規定
一級河川と二級河川の河川管理者の責任,河川管理者の水利権管理などを規
河川法改正
定
河川環境の目的化,河川整備基本方針と河川整備計画,洪水頻発区域での災
河川法改正
害軽減措置などを規定
水防法改正
都道府県による洪水予報,浸水想定区域の公表などを規定
水防法改正
洪水ハザードマップの配布などを規定
災害対策基本法
住民等の防災責任の明確化,教訓伝承や防災教育の強化などを規定
改正
表 3-23 洪水対策に関する「自助・共助・公助」の規定
災害対策基本法 第 7 条 2 項:
住民は,自ら災害に備えるための手段を講ずるとともに,自発的な防災活動への参加,過去の
災害から得られた教訓の伝承その他の取組により防災に寄与するように努めなければならない.
水防法 第 3 条:
市町村は,その区域における水防を充分に果すべき責任を有する.
同第 5 条 3 項:
水防団及び消防機関は,水防に関しては水防管理者(市町村長)の所轄の下に行動する.
河川法 第 22 条:
洪水,高潮等による危険が切迫した場合において,水災を防御し,又はこれによる被害を軽減
する措置をとるため緊急の必要があるときは,河川管理者は,その現場において,必要な土地を
使用し,土石,竹木その他の資材を使用し,若しくは収用し,車両その他の運搬具若しくは器具
を使用し,又は工作物その他の障害物を処分することができる.
同 22 条 2 項:
河川管理者は,前項に規定する措置をとるため緊急の必要があるときは,その附近に居住する
者又はその現場にある者を当該業務に従事させることができる.
100
3.2.6 まとめ
以上のように,江戸時代の河川技術者の位置づけを,江戸時代前期の『百姓伝記防水集』
,中
期の『享保の修築の例規』
,後期の『隄防溝洫志』から抽出し,明治以降の法制化の経緯を整理
してきた.それぞれの要点をまとめる.
・江戸時代前期(17 世紀)
:河川技術者の発生
村社会に河川技術者が登場した.洪水に対して村は自らの安全を守る「共助」を行い,
河川技術者は生産活動(税収)を守る「公助」を担った.地域全体の被害を最少化する河
川管理が行われるようになった.
・江戸時代中期(18 世紀)
:標準工法と日常管理
財政再建のため河川管理の経費節減と税収増加が求められた.河川技術者は,標準工法
を用いて河川管理施設を整備するとともに,村役人を指導して施設の維持管理を行った.
日常的な維持管理を徹底して,洪水時の被害を最少化する態勢が取られた.
・江戸時代後期(19 世紀)
:河川技術者の創意工夫
村を基本とする地域社会の持続的な存続が目的化した.河川管理では,経済的な妥当性
と技術的な合理性が追求された.
河川技術者には,
持続的な地域社会の活動を支えるため,
現場に応じた施設整備と管理態勢の構築が期待された.
・明治以降(19 世紀末~21 世紀初等)
:水防と治水の法制化
洪水対策についての村単位の防御と広域的な治水の関係が法制化された.現在では,災
害対策基本法,水防法,河川法の中で法的に位置づけられ,
「自助・共助・公助」の地域防
災態勢となっている.
江戸時代を通じて持続的な土地利用のための地域社会のしくみが模索され続けた.その結果
として江戸時代末に至って,河川技術者に求められる役割が具体的に示されたものと言える.
以下に 3 点に要約する.
特徴③ 地域防災における「公助」
河川技術者は,江戸時代前期に発生したものである.年貢の徴収を目的として,洪水に
よる被害を軽減するよう河川を管理していた.村の「共助」と広域行政の「公助」の関係
が生まれ,繰り返される洪水へ対応することとなった.明治以降の河川技術者は,徴税機
能は持っていないものの,
「公助」機能はそのまま引き継いでいる.河川とのつきあいが減
少した現在では,
「自助・共助・公助」における「公助」への期待はより高まっている.
101
特徴④ 地域特性に応じた技術的な創意工夫
『隄防溝洫志』では,河川技術者に対して,高い能力と現場観察と創意工夫を求めている.
緊縮財政の享保改革からおよそ 100 年が経ち,技術基準に頼った画一的な河川整備を反省
し,必要な工事には経費をかけることが国益に適うとしているのである.無論,強大であ
ればいいわけではなく,経費縮減に取り組まなければならない.河川技術者には,経済的
で効果的な,河川の実態に応じた川づくりが求められていた.
特徴⑤ 住民連携による日常的な河川補修
『百姓伝記防水集』の序文で宣言されているとおり,江戸時代の洪水対策は村の農民の責
務と認識されていた.これは沖積低平地で持続的な生活と生産を維持する知恵であった.
これに経費縮減のための破損箇所の早期補修の必要が加わり,
『川除仕様帳』に見られるよ
うに,日常的な施設の維持管理が定着していた.日常的管理こそが,変形・劣化の避けら
れない河川構造物の機能を永続性に発揮させる知恵であった.
江戸時代の河川技術者に求められた役割は,修正することなく,現在でも重要である.現在
の河川技術者には,江戸時代の河川技術者に求められた上記の役割を深く認識し,河川を研究
し,現場での創意工夫の能力を磨かなくてはならない.
102
3. 3 まとめ
第 3 章では,江戸時代の持続的な土地利用を可能にしていた河川管理のあり方について,河
川管理技術と河川技術者に着目した分析を行った.
河川管理技術については,
『百姓伝記防水集』
,
『川除仕様帳』と『河川管理施設等構造令』を比較した.河川技術者の役割については,
『百姓
伝記防水集』
,
『享保の修築例規』
,
『隄防溝洫志』を整理した上で,明治以降の洪水対策に関す
る法令を整理した.その結果,次の 5 点の特徴が明らかになった.
河川管理技術について,
特徴① 河川の営力の活用
特徴② 設置可能な構造物の選択
河川技術者の役割について,
特徴③ 地域防災における「公助」
特徴④ 地域特性に応じた技術的な創意工夫
特徴⑤ 住民連携による日常的な河川補修
これらは,江戸時代の河川管理の基本を示すものである.それぞれ,社会情勢に応じた質的
な変化はあるものの,現在に引き継がれている.しかしながら,④の創意工夫と,⑤の住民連
携については変化が大きく,これからの河川管理を考える上で注意すべきである.
④の創意工夫については,技術の基準化が進み,創意工夫がなっていることが懸念される.
技術の基準化そのものは,治水対策を効率的に推進するためには必要なものである.しかし,
画一的な構造物設置が進められると,近年のさまざまな河川への要請に応えられない.これか
らの河川技術者には,求められる機能を確保するために,制約条件の下でできる限りの創意工
夫をしなければならない.
⑤の住民連携については,江戸時代とは背景が異なっている.江戸時代は地域住民の大半は
農民であり,コメの生産を守る治水は住民の総意で行われていた.河川技術者は徴税官でもあ
り,村役人を介して,住民とともに河川管理を行っていた.この連携のしくみによって河川構
造物の日常的な点検補修が可能になっていた.しかし現在では,河川に直接関心を寄せる地域
住民は限られている.河川管理に地域住民の声が届きにくく,河川の維持管理への不満にもな
っている.河川技術者と地域住民の連携関係を構築することは,河川管理技術としての課題の
一つである.
本章では,江戸時代に成立した河川管理の基本を分析し,現在との類似点と相違点を整理し
た.ただし,江戸時代と現在とでは,河川管理の実務を担う河川技術者の位置づけに明瞭な違
いがあることを認識しておかなければならない.
江戸時代の河川技術者は,河川を管理するとともに,地域全体を統括して領国からの年貢を
103
集める徴税官でもあった.河川技術者は,納税者である村の農民(地域住民)を指導して,有
限な土地および河川の持続的な管理を行っていた.徴税官と納税者は,コメ生産の最大化とい
う共通の目的のため,地域の実情に詳しい村代表と協議しながら,日常的な河川補修を行って
いた.この目的の共有によって地域の土地利用と連動した河川管理が行われていた.
しかしながら現在では,河川技術者は徴税をしておらず,地域住民の多くは農業に従事して
いない.現在の地域社会は江戸時代とは異なる.その中で,地域づくりの一環として,持続的
に治水・利水・環境を良好に保持,創造する川づくりが求められる.現在の河川技術者には,
江戸時代の河川管理をよい前例として,江戸時代の河川技術者以上に,現場での創意工夫と住
民連携ついて研究的に実践することが求められる.
104
参考文献(第3章)
[第 3. 1 節]
1)
河川審議会管理部会河川伝統技術小委員会:生活・文化を含めた河川伝統の継承と発展―
川における伝統技術の活用はいかにあるべきか―,1999.
2)
社会資本整備審議会:水災害分野における地球温暖化に主な鵜気候変化への適応策のあり
方について(答申)
,2008.
3)
土木学会編:明治以前日本土木史,pp.1-3,岩波書店,1936.
4)
知野泰明:日本農書全集 65(治河要録解題)
,pp.286-306,日本農山漁村文化協会,1997.
5)
古島敏雄:百姓伝記上(百姓伝記について)
,pp.197-214,岩波書店,2001.
6)
作者不詳:百姓伝記上(防水集)
,pp.186-231,岩波書店,2001.
7)
安達満:日本農書全集 65(川除仕様帳解題)
,pp.45-58,日本農山漁村文化協会,1997.
8)
小林丹右衛門:日本農書全集 65(川除仕様帳)
,pp.5-44,日本農山漁村文化協会,1997.
9)
河川管理施設等構造令研究会:解説・河川管理施設等構造令, pp.103-105/128-136,山海堂,
1978.
[第 3. 2 節]
10) 作者不詳:百姓伝記(上)
,pp.186-231,岩波書店,2001.
11) 古島敏雄:百姓伝記(上)
『百姓伝記』について,pp.187-188/202-203,岩波書店,2001.
12) 知野泰明:日本農書全集 65(治河要録解題)
,pp.286-306,日本農山漁村文化協会,1997.
13) 土木学会編:明治以前日本土木史,pp.6-11,岩波書店,1936.
14) 佐藤信有:隄防溝洫志,名山閣,1800 年代前半
15) 山本晃一:河川計画の技術史,pp.42, 60,山海堂,1999.
16) 国立公文書館アジア歴史資料センター:明治二十九年・法律第七十一号・河川法
[http://www.jacar.go.jp/DAS/meta/image_A03020221600?IS_KIND=SimpleSummary&IS_KEY_S
1=%E6%B2%B3%E5%B7%9D%E6%B3%95&IS_STYLE=default&IS_TAG_S1=InfoD&]
17) 神 戸 大 学 付 属 図 書 館 新 聞 記 事 文 庫 : 河 川 (1-042) , 時 事 新 報 1916.4.15( 大 正 5)
[http://www.lib.kobe-u.ac.jp/das/jsp/ja/ContentViewM.jsp?METAID=10074929&TYPE=IMAGE_
FILE&POS=1]
105
106
第 4 章 河川技術者の先駆的な取り組み
前章までに,
遠賀川流域を対象として,
土木技術の発展と土地利用の拡大の経緯を確認した.
特に江戸時代に,持続的な土地利用を可能にしていた河川管理技術,河川技術者の役割につい
て分析し,現在は,
「地域特性に応じた技術的な創意工夫」と「住民連携による日常的な河川補
修」が不足していることを指摘した.これらを踏まえ,将来のための地域づくり,川づくりに
ついて考察を進める.
現在は,土地利用の高度化や治水を目的とした河川改修が進捗に伴って,河川の自由度が小
さくなっている.その中でも河川管理は,地域の自然環境を改善し,よりよい地域社会を将来
に残す行為であり責任ある対応が必要である.現在の河川技術者には,自然環境と社会環境に
有効に働きかける技術が求められている.
そこで本章では,現場での創意工夫と住民連携という課題について,現在の具体的な川づく
りから事例を取り上げ,その技術的効果や川づくりの意義について分析する.対象事例は,連
続水制によるメコン川の河岸保護技術,粗朶沈床を通じたラオスの技術体系づくり,遠賀川の
河川改修における地域の合意形成である.
第 4 章は,次の 3 節で構成する.
第 4. 1 節は,
「連続水制による河川営力の活用(メコン川)
」である.
河岸侵食はアジア諸国の重要な国土保全問題の一つであるが,メコン川の継続的な河岸侵食
に対し,ラオスには有効な対策技術がなかった.そのため新たな技術として,ラオス北部で連
続水制が提案され,1998 年から 2005 年にかけて 20 基が設置された.侵食されていた河岸は緑
に覆われて安定している.この連続水制技術について,原因の分析,技術的制約,予算の制約
から検証を行う.
第 4. 2 節は,
「粗朶沈床による国際技術協力(ラオス)
」である.
首都ビエンチャンの河岸侵食対策に有効な手段がなかったラオスに対し,日本からの国際技
術協力として,粗朶沈床が 1999 年から導入された.粗朶沈床はラオス技術者の間に定着し,現
在では組織的な技術管理が行われるようになった.本節では,技術協力の具体的な方法を検証
するとともに,良好な成果を上げた要因について,河川伝統技術の活用のあり方という観点か
ら分析を行う.
第 4. 3 節は,
「新たな合意形成手法による川づくり(遠賀川)
」である.
直方市の遠賀川では,地域住民の地域づくりの想いを反映して,2005 年から緩傾斜河岸の河
川改修が行われた.これは 1996 年から,川づくりのイメージの提案,共有,公開,修正という
107
プロセスをとる夢プラン方式の合意形成が図られた結果である.本節では,これからの川づく
りにおける地域社会への働きかけの手法として夢プラン方式の特徴を検証し,その有用性を分
析する.
108
4. 1 連続水制による河川営力の活用(メコン川)
4.1.1 はじめに
河岸侵食は,アジアの発展途上国にとって,最も深刻な国土保全問題の一つである.解決を
困難にしている要因は,侵食形態の大きさと河川管理予算の不足である.モンスーン地域の河
川は,毎年の明瞭な雨季と乾季による水位変動のため,河岸侵食の規模が大きい.これに対し,
河川管理に充てられる財源が限られているのが一般的である.
このような状況の中で,ラオスではメコン川の河岸侵食が問題となっていた.ゴールデント
ライアングルに位置するボケオ県(図 4-1)では,3km にわたる河岸侵食が進行し,村落の流
出などが発生していた.これに対してラオスは,日本からの国際技術協力によって石積みの連
続水制が導入された.水制の設置は 1998 年に始められ,2005 年までに 20 基が完成した.以来,
現在まで河岸侵食の進行が止まり,安定した河岸が緑に覆われるようになっている.さらに,
技術を身に付けた技術者がラオス各地で継続的に施工し,河川管理の主要工法となっている.
本節では,メコン川の連続水制の効果について,河川伝統技術の考え方に照らして,要因の
分析,施工能力,予算の制約の観点から検証する検証する.併せて,今後の河川伝統技術の可
能性と国際技術協力のあり方について考察する.
図4-1 メコン川と水制プロジェクトの位置
109
4.1.2 河岸侵食の原因分析
(1) 河岸侵食の概要
メコン川は,795,000 km2 の流域面積と 4,880 km の幹線流路延長をもつ東南アジアの大河川
の一つである.その源流はチベット高原に発し,2,200 km を下って中国からミャンマー,ラオ
ス,タイの三国国境に流れ下り,さらにカンボジア,ベトナムを経て南シナ海に至る.メコン
川の流量変化は,顕著なモンスーン気候の降水によって特徴づけられる.基底流量はチベット
高原の雪解け水で確保されており,これに 5 月から 10 月の広域の降雨が流量増加をもたらす.
年間降雨量の 80%が雨季に集中する 1).集水面積 189,000 km2 のシャンセン水位観測所の 8 月の
最大月流量 2)は,3 月の最小月流量の約 8 倍である(表 4-1)
.このため水位変動が大きく,年
間水位差はおよそ 10m に達する.毎年の最低流量がおおむね 500 m3/s 程度 3)であるのに対し,
既往最大流量は 1966 年の 16,000m3/s であった.なお流水中の年間流送土砂量は,シャンセン地
点での 6.12 百万トンと推計されている 1).
ラオス国ボケオ県トンペゥン村の侵食現場は,ミャンマー,ラオス,タイの三国国境から 7km
の左岸にあたる.河岸侵食は長期間進行しており,現地からは過去 20 年間に 20m の河岸後退
が起こったと報告されていた(図 4-2)
.村の対岸のタイ国シャンセンは,中国との河川貿易の
港であり,多くの観光客が訪れていた.ラオスでは,トンペゥン村に新たな経済特区を設ける
計画を立て,河岸侵食対策が緊急の課題となっていた.
2)
Jan
1,150
Feb
930
Mar
830
表 4-1 シャンセン水位観測所の月平均流量(m3/s)
Apr
May
Jun
Jul
Aug
Sep
910
1,300
2,460
4,720
6,480
5,510
3)
図4-2 トンペゥン村の河岸侵食の位置図
110
Oct
3,840
Nov
2,510
Dec
1,590
(2) 侵食現場の調査
河岸侵食対策のために行われた現地調査(1997 年 11 月,1998 年 2 月)の状況を示す.
i) 河川の概要
侵食現場は,メコン川が大きく右に湾曲する外側の河岸である(図 4-2)
.侵食範囲は約
3km,川幅はおよそ 400m,平均河床勾配は 1/2,5004)である.対岸のタイ領には広い砂州が
形成されていた.表面流速は,高水位期の河川中央付近で最大 3m/s,調査時点での侵食河
岸の前面では 1m/s に満たないものと見られた.
ii) 河岸の地形
侵食地形は明瞭で,侵食崖の高さは約 10m で,崩落したままの急な勾配をなしていた.
高水位期には冠水し,表面の土砂が移動するため,植生は見られない.侵食は村の中に及
び,半分程の面積が流失したとされた(写真 4-2)
.
iii) 河岸の地質
河岸の地質は,洪積層の泥岩層や砂礫層からなり,深部までラテライト作用を受けてい
た.露出した泥岩は,湿潤状態では極めて軟弱で,層を指ですくい取ることができた(写
真 4-3)
.礫河岸の一部は最大 10cm ほどの礫に覆われていた(写真 4-4)が,メコン川が
運んだものではなく,地層の中から供給されたものと考えられた.対岸の砂州は,川幅の
半分ほどになっており,0.1mm の細砂で覆われていた.古い洪積地層を,メコン川が新た
に侵食している状況であった.
iv) 河岸保護施設
周辺の河岸保護施設としては,シャンセンの市街地にはコンクリートと捨て石の護岸が
施されていたが,トンペゥン村では船着場に杭と土嚢による簡易な法面保護があるのみで
あった(写真 4-5)
.また行き交う中国やタイの船の航走波による河岸からの土壌吸い出し
が見られた.その他は自然河岸で,小舟係留,釣り,洗濯,沐浴などに利用されていた.
写真 4-1 河岸侵食の全景(1998 年 2 月)
写真 4-2 村内の侵食状況(1997 年 11 月)
111
写真 4-3 露出した泥岩層(1998 年 2 月)
写真 4-4 礫が堆積した河岸(1998 年 2 月)
写真 4-5 船着場の河岸保護(1997 年 11 月)
写真 4-6 花崗岩の小丘陵(1998 年 2 月)
v) 土木材料
工学的な材料については,トンペゥン村周辺には,鉄鋼,セメント,石材などは見られ
なかった.家屋は木造であったが,森林保護政策の下で大量の伐採は禁止されていた.し
かしながら,花崗岩の貫入がラオス-ミャンマー国境地帯にあると,ソビエト時代の地質
調査報告に記されていた 5).現地踏査を行ったところ,トンペゥン村の北約 10km にあっ
た硬い花崗岩でできた小丘陵を確認した(写真 4-6)
.現場の岩石表面の風化は少なく,持
ち帰ったサンプルは比重 2.8 を示した.
vi) 施工技術
付近の土木施工の実績としては道路建設工事があり,建設業者の機材によって発破作業
とトラック輸送が可能であることを確認した.
vii) 聞き取り調査
現地の住民からは,聞き取り調査で貴重な情報があった.
・河岸侵食は村の存続を脅かす深刻な問題である.
・侵食は毎年起こるわけではなく,河岸はおおむね 5 年に 1 回くらい崩れる.
・1966 年の最高水位では左右の河岸が冠水したが,例年は河岸には達しない.
・水位の高低に関わらず,住民の日常生活には,水面への行き来が必要である.
112
(3) 侵食形態の分析
現地調査の結果から,
河岸侵食の直接的な原因にはすべり破壊によることは明らかであった.
現地での河岸侵食は,すべり破壊が数年の周期をおいて連続する現象であった.これは,大規
模な水位変動と脆弱な洪積地層が要因となっており,河岸では次の①,②,③の事象が繰り返
される河岸侵食スパイラル(図 4-3)があるものと分析された.
① 水面下の直立崖の形成
湾曲河道の外側河岸に発生する螺旋流の掃流力で河岸と河床には洗掘作用が働く.とく
に高水位期の河床の掃流力によって,大粒径の礫以外は流失してしまう.この現象が繰り
返されると,水面下に抵抗力のある洪積地層からなる 10m 近い崖地形が形成される.
② 直立崖の浮上とすべり破壊
崖地形は低水位期には空気にさらされ乾燥する.乾季の間は,地層の中の間隙水も失わ
れ,崖地形はそのまま維持される.しかしながら,雨季の初めの強い雨によって,崖の上
部に水が浸透して重くなり,重力バランスが失われてすべり破壊が発生する.この時,河
岸はおよそ 5m 後退し,崩落土砂によって安定する.
③ 崩落土砂の経年的な流失
水位が再び上昇した時に,崩落土砂に掃流力が働く.流失しなかった土塊も,水位変動
期の航走波や乾季の乾燥収縮によって細粒化し,次の高水位期に流失する.これが毎年の
水位変動によって繰り返され,②で発生した崩落土塊は徐々に減少し,おおむね 5 年程度
をかけて,①と同じような新たな崖地形が形成される.
図 4-3 水位変動に伴う河岸侵食スパイラル
113
4.1.3 侵食対策の構造物設計
侵食原因の分析に対し,工学的な対策工法の検討が行われた.河岸侵食スパイラルの①,②,
③の過程に対して効果が期待できる工法として,蛇籠護岸案,押さえ盛土案,連続水制案が考
案された.
案 a: 蛇籠護岸
首都ビエンチャンで実績のある護岸工法をトンペゥン村に応用し,①の崖地形を直接保
護する案である.蛇籠と吸い出し防止材を輸入し,現地調達可能な石材を中込材とする施
工可能である.
案 b: 押さえ盛土
河岸が安定している②の状態を維持し,すべり破壊を防止する案である.崖地形の法尻
に押さえ盛土を置き,低水位期においても崖地形の重力バランスを保つものである.高水
位期に小舟から石材を投入する方法により,予算の範囲で順次施工が可能である.
案 c: 連続水制
崖地形が形成されていく③の過程を抑止するため,河岸前面の流速を低減させる案であ
る.逆に,高水位期の送流土砂を堆積させて,低水位期には押さえ盛土として機能させる
ものである.人力による捨て石工と,粗度を高めるメコンヤナギの植栽が予定された.
表 4-2 侵食対策工法の代替案
案 a: 蛇籠護岸
案 b: 押さえ盛土
案 c: 連続水制
材料入手の
確実性
輸入する蛇籠と吸出防止
材は入手困難
石材は入手可能だが,大
量調達が必要
石材とメコンヤナギは入
手可能
現地の
施工能力
ビエンチャンでの
施工実績あり
水中施工となり,
出来高確認が難しい
捨て石工と植栽工で
実施可能
維持補修
の方法
蛇籠が崩落しても補修可
能(追加費用)
石材が流失しても,追加
投入が可能
水制工が破損すれば,石
材追加,水制工追加
予算の制約
1,530 USD/m(ビエンチャ
ン実績)を超過
石材の投入量による(積
算困難
石材の採取・運搬コスト
による(積算困難)
評価
予算の制約上
採択できない
十分な石材確保と工事品
質の管理が難しい
一基ずつの
段階的な施工が可能
代替案
114
3 つの代替案に対して,材料入手の確実性,現地の施工能力,維持補修の方法,予算の制約
の観点から比較検討が行われた.
i) 材料入手の確実性
すべての材料は,
コストのみならず入手の確実性の上で,
国内調達することが望ましい.
とくにラオスの場合,財政規模が小さく,公共事業のための資材を国外から調達すること
は困難である.その意味で,蛇籠や吸い出し防止材を利用する蛇籠護岸案は不利である.
ii) 現地の施工能力
現地の建設業者は,
道路の建設や空港の造成の実績があり,
十分な施工管理能力がある.
蛇籠護岸案は,ビエンチャンでの施工実績があり,トンペゥン村でも施工は可能である.
連続水制案は,
捨て石と植栽の比較的容易な施工が中心であり,
十分に可能と考えられる.
しかしながら押さえ盛土は,
水上施工の経験がなく,
濁った水で出来高管理が困難である.
iii) 維持補修の方法
蛇籠護岸案では,局所洗掘で蛇籠崩落が崩落した場合,輸入材を再度調達しなくてはな
らない.一方,押さえ盛土案は,材料の沈下・流失が懸念されるが,石材の追加投入が可
能である.連続水制案も,空石積みの小規模な変形は許容でき,積み増しも可能である.
.
iv) 予算の制約
蛇籠護岸案の輸入材料は高額で,国際資金協力が得られることが条件となる.押さえ盛
土案と連続水制案は,材料を国内調達できる.ただし,全体の事業量と予算額は不明瞭で
ある.
上記の比較検討の結果(表 4-2)
,現地材料による施工性が評価され,他の工法に比べて優位
になることが期待されて,案 C の連続水制が採択された.そこで実際のコストや効果について
確認する試験施工を行うこととなり,構造物の設計が行われた.
水制は,流水の作用から河岸を保護するため,流水の方向を規制し,又は水勢を緩和するた
めに設置される.ただし,構造や配置によっては,周辺に局所洗掘を生じたり,流れが対岸に
強く当たることを考慮しなければならない.トンペゥン村の連続水制の基部として考えられて
いた石積み水制は,一般に不透過な構造物で水刎ね効果が大きい.そのため,先端勾配を緩く
するとともに,高さを河岸に対して低く抑え,高水位期の水刎ね効果を小さくすることとされ
た.ヤナギ植栽は,石積みが目詰まりを起こしてから行うこととされ,試験施工では考慮され
なかった.このような検討から,設計諸元(表 4-3)が決められ,縦横断面図(図 4-4)が準備
された.
115
表 4-3 石積み連続水制の設計諸元
諸元
根拠
3m/s の流水中で,比重 2.8 の石材が安定する粒径 6)
20cm 程度のコンクリート塊が河床に存在
最深河床の礫径 5cm の 4 倍
石の粒径
:
20cm 以上
長さ
:
40m
低水位期に人力施工が可能な延長
流れが対岸に当たらない目安として川幅の 1 割
高さ
:
6m
河岸の高さの半分程度
(最大流量時に水没させ,水刎ね効果を弱める)
堤頂幅
:
3m
メコンヤナギの生育空間としての幅を確保
(毎年の高水位期には水没する空間を確保)
法勾配
:
下流面 1:3
上流面 1:1.5
下流面には周辺の安定河岸の勾配を採用
上流面はコストと施工性から、急勾配を採用
水制の間隔
:
100m
施工順序
:
下流側から
水制長の 2.5 倍
侵食河岸 3km の早期保護のため大きな間隔に
(水制間に崩壊が発生すれば、中間に石積み水制を追加)
施工順序は下流側から
(水制工の回折流による下流の侵食を防止回避)
図 4-4 石積み水制の横断面と縦断面(1998)
116
4.1.4 連続水制の施工
設計諸元が決まってから,ラオス政府は,試験施工として石積み水制の設置を開始した.
(1) 試験施工(1998-2000)
1 号機の設置場所は,河岸侵食区間の最下流のトンペゥン村の船着き場の上流 200m 地点で
ある.採掘された花崗岩は,採石場で径 30-70cm 程度に整形され,工事現場までダンプ運搬さ
れた(写真 4-7)
.石材は,低水位期の水際にバックホウと人力でほぼ円形に敷き並べられ,法
面勾配を整えつつ高さ 6m にまで積み上げて,不透過の水制基部を形成した.
1998 年 5 月までに 2 基が概成し(写真 4-8)
,水位上昇のため工事は中断された.1998 年 10
月,水位低下に伴って水制が姿を現し,工事が再開された(写真 4-9)
.
2000 年 4 月までに 4 基の石積み水制が完成し(写真 4-10)
,試験施工の成果が以下のとおり
確認され,工事の継続が決定された.
・2 度の高水位期を経験したものの,石積みに変形や沈下は認められなかった.
・水制間の土砂堆積が始まり,河岸安定に寄与していた.
・石積みの上にはメコンヤナギの活着が確認された(写真 4-11)
.
・石積み 1 基の実質工期は約 2 ヶ月,工費は 30,900USD 相当(河岸 1m あたり 309USD)
.
写真 4-7 河岸に運ばれた花崗岩材料(1998 年 5 月)
写真 4-9 建設中の 3, 4 号基(1998 年 10 月)
写真 4-8 建設中の 1, 2 号基(1998 年 5 月)
写真 4-10 完成した 1, 2, 3, 4 号基(2000 年 4 月)
117
写真 4-11 メコンヤナギの幼木(2000 年 4 月)
写真 4-12 水制群と堆積土砂(2002 年 1 月)
(2) 継続施工(2000-2005)
2000 年以降の施工は,水位低下期に継続的に進められた.毎年 2~4 基の水制が順次設置さ
れ(写真 4-12)
,2004 年には 18 号基が完成した.2005 年に下流側の船着場付近に 2 基が増設
され,侵食河岸区間の約 2km に連続水制が設置された.20 基の水制と土砂堆積の様子を衛星
から確認することが可能である(写真 4-13)
.
トンペゥン村での水制工事は 2005 年に打ち切られた.理由は,泥岩が露出する崖地形の河岸
の保護が終了したこと,経済特区がより上流に変更されたこと,予算をより緊急性の高い河岸
侵食に予算を振り向けたことによる.
写真 4-13 連続水制群と施工順序(2010 年 2 月 ALOS)
118
4.1.5 連続水制の効果
試験施工が始まってから 12 年後,最後の設置工事から 7 年後の 2010 年 6 月時点で,トンペ
ゥン村の現地調査が行われた.確認された石積み連続水制の効果を,以下に示す.
(1) 河岸の状況
連続水制が設置されてから,メコン川は 2002 年と 2008 年に観測史上 3 番目と 4 番目の水位
記録し,河岸は満水状態となった(表 4-4)
.これにより,石積みの水制は完全に水没し,強い
掃流力を受けるとともに,送流土砂を補足する機会に恵まれた.20 基の水制と堆積土砂が保護
する河岸は,新たな崩落はなく,安定を保っていた(写真 4-14)
.
(2) 連続水制の状態
1998 年に設置された 1 号基の石積みは目視確認することが出来なかった(写真-15)
.自然植
生に完全に覆われていたためである.雑多な植生が石積みの上に繁茂し,透過型の水制として
表 4-4 シャンセン水位観測所の年間最高水位
年
海抜(m)
1996
370.9
1970
366.9
写真 4-14 連続水制の遠景(2010 年 3 月)
1971
368.1
2002
367.5
7)
2008
367.7
写真 4-15 植生に覆われた1号基(2010 年 6 月)
写真 4-16 2 号基と 3 号基の間の静水域(2010 年 6 月)
119
写真 4-17 11 号基のメコンヤナギ(2010 年 6 月)
機能している.また石積みは,植生の根によって固定され,隠し水制として機能している.
2 号基と 3 号基の間にでは,土砂が河岸前面に堆積し,元の崖地形の半分程度を覆っていた.
堆積土砂にも草本類が繁茂しており,地層を直接観察することはできなかった.堆積土砂は緩
やかな水際線を描き,水制間は,小舟が舫われた静かな水域となっていた(写真 4-16)
.
メコンヤナギは,比較的新しい 11 号基の上に生育していることを確認した(写真 4-17)
.た
だし,1 号基のように,数年で他の植生に遷移していくものと考えられる.
(3) 設置工事の実績
一連の工事は順調に行われ,
平均として 1 回の低水位期に 3 基が設置された.
設置コストは,
20 基の平均として,河岸 1m あたり 237 USD であった(表 4-5)
.ただし水制の設計は,当初
設計よりも使用石材が少なくなるように修正されていた(図 4-5)
.
(4) 河岸の利用状況
また,現地調査時に実施したアンケート調査から,日常的に河岸を利用している地域住民に
よる連続水制に対する評価が得られた.また水制間の静水域は,魚釣り,畑,沐浴,ボートレ
ースなどに利用される空間を提供していた.以下に,代表的な意見を示す.
・水制は,質が高くて安い.河岸侵食を止めるのに効果があった.
・以前は河岸侵食を心配したが,水制を建設してからは侵食がなくなった.
・水制の周りには魚が住み着いている.河岸に緑が増えた.
year
1998-99
1999-00
2000-01
2001-02
2002-03
2003-04
2004-05
total
表 4-5 水制群の建設費用の実績
number
cost (Lao Kip)
2.5
540,000,000
1.5
338,000,000
2
600,000,000
4
800,000,000
4
700,000,000
4
800,000,000
2
400,000,000
20
4,278,000,000
8)
図 4-6 石積み水制の縦断面(2009)
120
cost (USD)
75,949
47,539
63,830
85,106
74,468
85,106
42,253
474,552
4.1.6 河岸侵食対策の評価
現地の確認調査を受けて,トンペゥン村の河岸侵食対策全体について評価する.
(1) 水制構造物の安定
水制に用いられた石材は,十分な重量があり,単体で流失するおそれはない.先端部の河床
洗掘による変形も確認できなかった.捨て石であるため微小な移動はあり得るが,むしろ石材
同士のかみ合わせが強固になったと考えられる.さらに間隙には土砂と植物の根が進入してお
り,構造物としては安定が増している.植生の侵入は,設計段階で想定していなかったほど早
く,
メコンヤナギの植栽は必要なかった.
全体として安定した透過型水制として機能している.
(2) 侵食河岸の安定
連続水制の区間において,水制間の河岸前面に,送流土砂の捕捉を確認した.とくに 2002
年と 2008 年の高水位期に,水制天端の高さまで土砂堆積が進んだと考えられる.水制上部と河
岸前面の土砂が移動しなくなり,数年間の間に植生が侵入している.崖地形の河岸では,土砂
堆積がすべり破壊を防止する押さえ盛土となり,植生は表面を保護する被覆工として機能して
いる.相乗効果によって,水位変動や航走波に対して充分な河岸保護機能を発揮している.
(3) 経済性の評価
河岸侵食対策のための河川構造物の建設コストは,ビエンチャンの蛇籠護岸の場合,河岸 1m
あたり 1,530 USD(表 4-2)であったのに対し,トンペゥン村の連続水制では 237 USD(表 4-5)
に減少した.これは工法も現場条件も異なるので単純に比較することは意味をなさない.しか
しながら,自国の予算制約の範囲内であり,かつ,材料を現地近傍で調達可能であることから,
ラオスにとって連続水制は,継続的に河岸侵食対策を行うことを可能にした工法といえる.
(4) 人材の育成
事業継続の結果として,ボケオ県の担当技術者が経験的な技術力を蓄えている. 2010 年の
現地調査では,彼らが自ら侵食対策効果を確認しながら,水制設計や現場管理を行っていてい
ることを確認した.後続事業やコストダウンは,現場の河川技術者の創意工夫の成果である.
(5) 維持管理の課題
現在のところ連続水制と河岸は安定しているが,あえて,維持管理上の課題が指摘できる.
何らかの不具合が発生した場合に,速やかに補修を行う態勢を整えることである.なお,この
点についてラオスでは,毎年の水位低下時に河川技術者が現地を巡視するともに,日常的に河
岸を利用している住民から携帯電話による連絡が入る申し合わせがあることを確認している.
121
4.1.7 まとめ
これまで述べてきたように,メコン川で実施した石積みの連続水制は,河岸侵食対策として
の効果を発揮している.この成功事例は,当該現場のみならず,一般的な河川管理にける重要
な留意事項をわれわれに示している.最後に「河川営力と自然植生の活用」
,
「河川技術者の創
意工夫」の視点から,本事業から得られた教訓を述べて本節のまとめとする.
(1) 河川営力と自然植生の活用
メコン川の連続水制の設計は,河岸侵食の原因分析に基づいて行われた.その原因とは,モ
ンスーン気候に起因する大きな水位変動で,すべり破壊が断続的に繰り返され進行する現象で
ある.この河岸侵食スパイラルを断ち切るため,河岸前面の土砂洗掘域を土砂堆積域に変える
ことを目的に導入したのが連続水制である.連続水制によって,高水位期の送流土砂を河岸前
面に補足し,低水位期のすべり破壊を抑制された.
連続水制による河岸侵食対策は,河岸を直接保護するものではない.侵食河岸の全面を被覆
する護岸を「面防御」
,法尻を連続して保護する押さえ盛土を「線防御」とすれば,連続水制は
「点防御」といっていいだろう.
「点防御」の利点は,単位延長あたりの施工量を減らして,長
大な河岸侵食対策を経済的かつ即効的に行うことである.加えて,点と点の間を河川営力と自
然植生で補完するため,機能が劣化する可能性が小さく,永続的な維持管理が行いやすくなっ
ている.
このようは河川営力と自然植生の活用は,掃流土砂の多くの河川において検討されるべきで
ある.ただし,河川特性によって効果の発現のしかたが異なるため,それぞれの河川の現地条
件を分析に十分に行うことが重要である.
(2) 河川技術者の創意工夫
連続水制の技術が定着し発展していることは,ラオス政府によって同工法を用いた河岸侵食
対策が継続されていることで明らかである.しかし設計当初に,連続水制の持続性まで考慮し
ていたものではない.現地の材料,現地の技量,現地の予算の制約条件の下で,実現可能性が
高いとして選択されたものに過ぎない.ただし,この検討過程にラオスの河川技術者が参画し
たことが重要であった.彼らの技術力によって,設計の考え方が伝えられ,10 年以上にわたっ
て,施工管理,効果確認,設計改良の好循環が生まれている.
現在も,ラオスの技術者が知識と経験を応用することで,条件の異なる河岸侵食対策を継続
的に行うことが可能になっている.メコン川での連続水制というプロジェクトでは,水制とい
う河川構造物の設置よりも,その機能を理解する河川技術者が育成されたことに意味があった
といえる.また国際技術協力のみならず,河川技術者が材料,技量,予算の制約の下での創意
工夫することが重要性を示している.
122
4. 2 粗朶沈床による国際技術協力(ラオス)
4.2.1 はじめに
1999 年 11 月に河川審議会管理部会河川伝統技術小委員会は,河川伝統技術についての報告
を取りまとめた.
『生活・文化を含めた河川伝統の継承と発展―川における伝統技術の活用はい
かにあるべきか―9)』において,次のような提言を示している.
「河川伝統技術は決して古い技術ではなく,変化する時代とともに,常に将来的な需
要を潜在させている技術である.したがって,積極的に河川伝統技術の保全を推進し,
長期的観点から将来に向けて活用を図っていくことが重要である」
「我が国のもつ多種多様な河川伝統技術を発展途上国へ技術移転し,国際協力の観点
からの活用を推進すべきである.河川伝統技術は大きな機材を使わず,地域にある資
材を活用し,現地でメンテナンスができるといった特性があり,例えば、我が国の粗
朶沈床の技術をメコン川において技術移転するという活動も行われているところで
ある.なお,技術移転の際には,我が国でその技術が生み出された背景等を十分理解
した上で,技術移転先の地域特性・河川特性を十分把握し,単なる「モノ」としてだ
けではなく,維持管理の方法を含めた,システムとしての移転に留意する必要がある」
ここで例示されている「メコン川での粗朶沈床の技術」は,ラオスで 1999 年に始められた取
り組みである.メコン川の河岸侵食が課題となっていたラオスでは,日本の伝統的な技術であ
る粗朶沈床の導入が試みられ, 13 年後の 2012 年現在では,設置した粗朶沈床は河岸保護機能
を発揮しており,ラオスによる維持管理が行われている.本節は.技術協力の経緯とその成果
を題材として,河川伝統技術を国際技術協力に活用する際の留意事項を考察するものである.
メコン川の粗朶沈床は 1999 年 1 月に国際建設技術協会プロジェクトとして始まった.
引き続
き,首都ビエンチャンの河岸侵食対策として,JICA の開発調査が 2001-2004 年に,技術協力プ
ロジェクトが 2005-2007 年に行われた.パイロット事業として改修された河岸は現在も安定し
ており,対策工事は成功したものといえる.また,2011 年からは,粗朶沈床技術を地方の現場
に応用するため,JICA の第二次技術協力プロジェクトが進められている 10).
一連のプロジェクトについて,
「システムとしての移転」について考察するため,手順として
は,以下の 4 つのテーマを設定し,最後に全体を総括して,河川伝統工法を活用した国際技術
協力のあり方について考察する.
① 河岸侵食の原因と対策
② 現地で調達可能な材料
③ 手から手への技術移転
④ 財源負担と河川管理者
123
4.2.2 河岸侵食の原因と対策
メコン川は,全長 4,620km,流域面積 795,500km2 の東南アジア最大の河川である.このうち
ラオス国内の延長は 1,865km におよび,沿岸の人々に水資源や漁業,交通などの恵みを与えて
いる.ビエンチャン地点のメコン川は,河口からの距離が 1,610km,集水面積 299,000 km2 であ
る.しかし河床標高は 160m に過ぎず,1/10,000 程度の緩流河川となっている.ビエンチャン
地点での川幅はおよそ 1km で,流速は最大でも 3m/s 程度である.流れの最大の特徴は,典型
的なモンスーン気候による流量変動で,水位差は年間に 10m にも達する 11).
メコン川周辺の地質は,中生代の浅海成堆積物の層状の礫岩・砂岩・泥岩である.これらは,
強度のラテライト作用を受けており,
一般に強度は高いものの,
乱された場合には極めて脆い.
この地層が河岸侵食を受けると,河岸は高い崖地形となり,メコン川の側方侵食が断続的に進
行する(写真 4-18,写真 4-19)
.侵食は過去から繰り返されていたが,対岸のタイの護岸工事
やラオスの都市化のため,侵食被害が顕著となった.そのためラオス技術者は,1990 年以降,
諸外国の資金協力を得て,蛇籠を輸入し,護岸工事を実施してきた.
しかし施工後数年が経過すると,蛇籠下端が滑落する不具合が多発した(写真 4-20)
.補修
する場合には,新規設置と同じように蛇籠の輸入が必要となるが,ラオスには充分な維持管理
予算がなかった.維持管理には国際協力が行われることがないため,技術者は現場を放置し,
被害は毎年のよう拡大していくという悪循環に陥っていた(写真 4-21)11).
写真 4-18 市街地の河岸侵食 (1999 年 11 月)
写真 4-19 堤防道路の河岸侵食 (2000 年 5 月)
写真 4-20 蛇籠護岸の滑落 (1998 年 2 月)
写真 4-21 護岸上流側崩壊 (2000 年 2 月)
124
加えて,蛇籠護岸の本質的な問題点は,予算確保ではなく,工学的な分析がなされていたい
ことにあった.河岸侵食対策の検討にあたっては,蛇籠護岸のもつ問題点を検証し,ラオス政
府の十分な理解を得ることが重要であった.そのため,1998~1999 年の低水位期に,蛇籠護岸
の崩落箇所を中心としてメコン川の現地調査が実施された.
調査では,ビエンチャン周辺での河岸において,急峻な勾配で人の背丈の数倍におよぶ崖地
形がいたるところで観察された(写真 4-22)
.一方,河岸の低い位置にメコンヤナギの群落(写
真 4-23)が見られた.ヤナギ群落の周辺では,土砂が堆積して河岸が安定しており,植生によ
る流速低減効果が見られた.なおメコンヤナギは,3m 程度の樹高,広く枝が広がり無数の細
い葉が着く樹形,岩盤や礫質の河床に定着する根,高水位期に水没しても成長を続ける耐冠水
性をもっている.
人為的な河岸侵食対策としては蛇籠護岸があり,設置当初は河岸を保護しているが(写真
4-24)
,数年後には法尻から崩落が始まっていた(写真 4-25)
.崩落は,護岸前面に局所洗掘が
発生し,河岸の低下したことが主たる原因と考えられた.
ヤナギ群落と蛇籠護岸の間で,河岸の安定に著しい違いが見られることは,粗度係数と水位
上昇が大きく影響している.一般的に,蛇籠護岸は,整備前の自然河岸に比べて,粗度係数が
小さい.粗度が小さくなれば,流速が大きくなることは,マニング式から容易に理解できる.
V = 1/n ・ R2/3 ・ I1/2
(V:流速, n:粗度係数, R:径深,
I:動水勾配)
写真 4-22 侵食進行中の河岸(1999 年 3 月)
写真 4-23 植生に保護された河岸(1998 年 2 月)
写真 4-24 蛇籠で保護された河岸(1998 年 1 月)
写真 4-25 崩落し始めた蛇籠(1998 年 2 月)
125
また自然河道では,水深が大きいほど,河床材料に働く掃流力は大きくなる.メコン川の場合,
10m 近い水位変動があり,高水位期の掃流力は低水位期の数倍になる.
τ0 = ρ ・ g ・ H ・ I1/2
(τ0:河床に働く掃流力, ρ:水の単位体積重量,
g: 重力加速度, H:水深, I:河床勾配)
このような基礎的な説明とともに,1999 年 1 月に護岸技術セミナーが開催され,蛇籠護岸の
設置,局所洗掘の発生,蛇籠の滑落という被災プロセス(図 4-6)が示された.ラオス技術者
からも,メコン川における蛇籠護岸のもつ構造的な欠陥について理解が得られた.そこで,欠
陥を補う工法として粗朶沈床が提案された.粗朶沈床は,河床を面的に保護し,低下を抑制す
る効果をもっている.また,小枝と石材という自然素材から製作するため,材料輸入の必要が
無くなることが期待できる.粗朶沈床は,現地での原因分析への理解とともに,新たな対策工
法として導入が検討されることとなった.
図 4-6 蛇籠が滑落するプロセス
126
4.2.3 粗朶沈床のための材料
粗朶沈床は,ラオスでは全く新しい工法である.その実現可能性を探るにはまず,材料とな
る小枝と石材の調査が行われた.材料には,十分な機能を有することを前提として,必要な数
量を安価に入手できることが求められた.
本格的な材料調査が行われたのは,次の低水位期の 1999 年 12 月であった.粗朶沈床の主材
料となる木材には,石材を支える強度と曲げ施工に耐える粘りが必要とされ,日本では,クリ,
カシ,クヌギ等の落葉広葉樹の枝で,7~10 年ほど成長したものが用いられる.日本から招聘
した粗朶職人とともに,ビエンチャン近郊の村を巡回し,適当な木立から枝を伐採した(写真
4-26, 4-27)
.職人によれば,採集した木の枝は,常緑樹であるが柔軟性があり帯梢に使えると
いう見通しであった.ラオスでは,かつての日本のように薪として木材が使われるため,集落
近傍に薪炭供給林が多い.薪炭供給林の細い枝であれば,多くの樹種が利用可能とされた.な
お,強度の必要な小杭については,十分な供給量があった.
石材については,河川伝統技術では,河床材料の中から粒径の大きなものを用いる.しかし
メコン川の場合,最深河床の採取は容易ではなく,粒径も最大でも 5cm 程度を充分な重量がな
い.そのため,道路舗装材料に用いられていた石灰岩を購入することが検討された.ビエンチ
ャンの西に採石場の生産態勢の調査により(写真 4-28)
,そこから施工性のよい 10cm 程度の粒
径の割石を調達することとなった.
写真 4-26 粗朶沈床の木材調査 (1999 年 12 月)
写真 4-27 粗朶の伐採 (1999 年 12 月)
写真 4-28 粗朶沈床の石材調査 (1999 年 12 月)
写真 4-29 デモンストレーション (1999 年 12 月)
127
この調査結果については,1999 年 12 月に再びセミナーを開いて,ラオス技術者に詳しく説
明された.一連の説明の中では,粗朶職人による実際の粗朶沈床の製作デモンストレーション
がとくに効果的であった(写真 4-29)
.見学したラオス職員たちには,これなら自分たちで上
手くできるという印象を与えることができた.セミナーの議論を経て,緊急対策が必要な河岸
侵食現場において,粗朶沈床の試験施工を行うことが決定された.
結果的には,2 度目のセミナーによって,粗朶沈床の試験施工を行うこととなった.ラオス
側の意志決定の根拠となったのは,
ほとんどの材料を現地で調達可能と判断されたことにある.
輸入材料を必要としない護岸工法は,持続的な事業展開や破損寺の補修に不可欠である.
4.2.4 手から手への技術移転
試験施工の実施が決まると同時に,技術研修を行うため,ラオス人技術者を日本に派遣する
こととなった.ラオスの施工現場での指導的役割を担うためである.ラオス人技術者 2 名は,
2000 年 8 月から信濃川の粗朶山での研修を行った(写真 4-30)
.彼らは,日本の現場で,枝の
伐採から搬出,施工現場での連柴の製作,沈床の組み立て,河岸への沈設の一連の工程を学ん
だ 12).現地のことばで指導できる技術者がいなければ,粗朶沈床の製作はできない.ラオス人
技術者の育成は,粗朶沈床プロジェクトの目的の 1 つとされていた.
技術を学んだ 2 名が帰国した 2000 年 11 月から,ラオスでの粗朶沈床の試験施工が開始され
た.粗朶の材料の集積、連柴の製作、格子の組立の作業が進められた.2001 年 1 月には,日本
の粗朶職人がラオスを訪れ,現地での技術指導にあたった(写真 4-31)
.粗朶職人の指導は,
現場で雇用された労働者に対しても行われ,粗朶沈床の組み立ても順調に行われた.
このように,現場の技術ノウハウが,日本とラオスの現場で,日本人職人の手からラオス人
技術者の手へ,現場の技術が直接手渡されたことが,試験施工全体の成功の鍵であったと考え
られる.
写真 4-30 ラオス人技術者の日本での研修 (2000)
写真 4-31 日本人職人のラオスでの指導 (2003)
128
人づくりを取り入れた技術移転の成果は,後続したプロジェクトで現れた.その代表例が,
粗朶沈床の設置方法の変更という現場での技術開発であった.日本の粗朶沈床は,陸上で製作
され,大型クレーンで吊り上げて設置される.ラオスでも,2001 年の国際建設技術協会の試験
施工では,台船に積んだ小型クレーンにより水上から設置(写真 4-32)され,2003 年の JICA
プロジェクトでは,陸上の大型クレーンで工事を行った(写真 4-33)
.
しかしラオスでは,クレーンの台数が少なく,施工上の課題となっていた.そのため,2008
年のラオス政府による事業では,クレーンを用いず,粗朶沈床を水上移動させて沈設する方法
が採られた(写真 4-34)
.これはかつての日本でも行われていた方法であるが,現地製作の竹
筏で浮力を得る方法は,ラオス人が提案した技術開発であった.この新技術によって,コスト
縮減と工期短縮が図られ,ラオスでの粗朶沈床の普及に目途が付いた 13).
このような粗朶沈床の新たな技術進化は,粗朶沈床の仕組みや作業手順をよく理解し,ラオ
スでの建設事情や施工能力を把握したラオス技術者の指導に負うものである.人づくりが技術
協力成功のための必須要件である.とくに粗朶沈床の場合,人から人への技術の手渡しが効果
的であったといえる.
写真 4-32 台船上のクレーンによる沈設 ( 2001)
写真 4-33 陸上大型クレーンによる沈設 (2003)
写真 4-34 筏上で製作した粗朶沈床の水上移動 (2008)
129
4.2.5 財源負担と河川管理者
粗朶沈床プロジェクトでは,導入以降,徐々にラオス政府の費用支出割合を増加している.
1999 年に始まった国際建設技術協会プロジェクトでは,1つの工区を対象とした試験施工であ
り,費用は協会の負担であった.また,2001 年からの JICA 開発調査で行われたパイロット事
業の改修工事も,ラオス政府の負担は発生していない.これは石油備蓄基地を保護ずる本格的
な護岸改修工事であった(写真 4-35~4-37)
.しかし,2005 年からの JICA 技術協力プロジェ
クトでは,工事費についてラオス政府が支出している.さらに 2007-2008 年にはラオスは独自
で,粗朶沈床の事業を展開している.
ラオス政府に費用負担が発生したことは,技術協力が成功するための 1 つの要件であったと
考えられる.先述の 2008 年の粗朶沈床の水上製作は,財源制約のために必要となったコスト縮
減の一環であるからである.ただし,粗朶沈床の機能を損なうことなく行われており,熟練し
た技術者による,現地に適合した新たな技術開発として評価されるべきである.
また,
このコスト縮減には,
当時のラオス政府の河川行政組織に大きな変化が影響している.
それは河川管理組織の拡充である.2007 年末の省の再編に伴って,河川管理を担当していた,
は公共事業省道路局の河川部が,河川局に格上げされ,独自に予算を管理するようになったの
である 14).
(旧) Inland Waterways Administration Division,
Department of Road,
Ministry of Communication, Transport, Post and Construction (MCTPC)
↓
(新) Riverbank Protection and Flood Control Division,
Department of Waterways,
Ministry of Public Works and Transport (MPWT)
河川管理を継続的に実施するためには,予算管理のみならず,技術力の保持・向上,河川情
報の蓄積等を専らとする組織が必要である.現在は,河川局 (Department of Waterways) の護岸・
治水課 ((Riverbank Protection and Flood Control Division) がその任を負っている.護岸・治水課の
職員は,国内の指導的役割を担って地方の河川を巡視し,不具合への対応について指導してい
る.さらに護岸・治水課とラオス国立工科大学等が協力して,粗朶沈床を中心とした技術セミ
ナーを開き,技術者の育成に努めている.
このようにラオス政府では,財源確保と組織再編によって粗朶沈床プロジェクトに積極的に
取り組んできた.外国の資金・技術支援に頼るばかりではなく,政府としての自助努力を払っ
てきたことが,粗朶沈床プロジェクトの発展の原動力である.
130
写真 4-35 河岸改修前 ( 2002)
写真 4-36 河岸改修直後 (2003)
写真 4-37 河岸改修の 5 年後 (2008)
131
4.2.6 まとめ
これまで述べてきたとおり,ラオスへの粗朶沈床の導入は,1999 年に始められ,試験施工,
プロジェクト事業,ラオス事業によって,現場での実績が上がってきた.現場の粗朶沈床その
ものは,2008 年 8 月の観測史上最高水位などを経験しながらも,大きな変状は見られず,河岸
を保護している.河岸侵食対策のための構造物として,十分に機能を発揮しているといえる.
粗朶沈床の技術は,ラオスにおいて「大きな機械を使わず,地域にある資材を活用し,現地で
メンテナンスできる」技術として発展途上にある.
河川行政のしくみづくりという観点では,ラオス政府に河岸侵食対策を所管する部署が設置
され,河川管理者の位置づけが明確になった.彼らが中心となって,地方に粗朶沈床の技術者
を育成する取り組みが進められている.今後の事業の継続・発展が期待できる.
「ラオスが自力
で持続的に河川を維持管理できる」態勢づくりは,1999 年からの目標であり,10 年をかけて達
成されたといえる.
「地域特性・河川特性を十分把握し,単なるモノとしてだけではなく,維持
管理の方法を含めたシステムとしての技術移転」の成功例としてよい.
冒頭の「河川伝統技術小委員会報告」に示された河川伝統技術を用いた国際協力における留
意事項は,ラオスへの粗朶沈床の導入によって満足可能であることが示された.さらに,技術
協力プロジェクトとして成功するための必要条件を得ることができた,
以下の 5 点に要約する.
① 要因分析 (Cause analysis)
災害の原因と対策を工学的に分析し,理解できる方法で説明すること
② 土木材料 (Material availability)
主要な原材料および労働力について,現場周辺で調達可能であること
③ 施工技量 (Technical capacity)
施工能力を有する現地技術者を育成すること,さらに新たに育成すること
④ 財源制約 (Cost reasonability)
現地政府により予算が管理され,また,事業計画や技術革新が行われること
⑤ 管理態勢 (Managing agency)
維持管理を行う河川管理者が位置付けられ,技術や情報を蓄積・活用すること
これらは,河岸侵食対策のみならず,他分野の国際技術協力を実施する場合にも,具体的に
取り入れられるべき条件である.さらに,気象条件や財源制約が厳しさを増す中で,日本の河
川管理の現場において考慮していかなければならない.
「河川伝統技術小委員会報告」の結びに
あるように,
「河川伝統技術は決して古い技術ではなく,変化する時代と共に,常に将来的な需
要を潜在させている技術」であると考えている.
132
4. 3 新たな合意形成手法による川づくり(遠賀川)
4.3.1 はじめに
明治時代以来,遠賀川は筑豊炭田の川であった.石炭は,江戸時代には遠賀川舟運で搬出さ
れ,海岸で製塩の燃料として利用されていた.明治時代以降は,機関燃料や製鉄材料として需
要が増え,筑豊炭田は日本の石炭生産の半分を産出した.しかし戦後のエネルギー転換で生産
は急減,1976 年までに炭鉱が相次いで閉山した.閉山とともに筑豊の賑わいが失われ,水質汚
濁や地盤陥没など,炭田の歴史は負の遺産となっていた 15).
直方市は,筑豊の鉄道結節点にあり,その盛衰は筑豊炭田とともにあった.市を貫流する遠
賀川は,沿川の炭坑を守るため,明治から大正にかけて堤防が整備された.その一方で遠賀川
は,炭坑から排出される洗炭水で濁り,
「ぜんざい川」とも呼ばれていた.炭坑閉山後の遠賀川
は,小学生が黒色で描く川であり,住民の日常生活や関心から切り離された川であった 15).
そのころ全国的に治水最優先の画一的な川づくりに対する反省から,河川技術者と地域住民
の連携による川づくりが模索されていた.その中で,1992 年に市民団体,学識経験者,行政関
係者が集まって玉地方の水と緑の保全を議論する多摩川の湧水崖線研究会が始まった.研究会
は,
「三つの原則・七つのルール(表 4-6)
」に基づいた運営が,建設的に進められていた 16).
この運営方法が 1996 年に建設省遠賀川工事事務所の直方出張所長によって遠賀川に持ち込
まれた.以来,
「3 つの約束 7 つのルール」を掲げた直方川づくり交流会が組織されて川づくり
構想が練られ,2005 年からは緩傾斜河岸という設計で河川事務所が改修工事を行った.この改
修は,
地域住民の地域づくり・川づくりの想いを具体化したものとして高い評価を受けている.
本節では,交流会が行った夢プラン方式による合意形成について分析する.そのため交流会の
活動と河川改修工事の経緯を整理した上で,整備後の外部評価の内容を評価する.最後に,夢
プラン方式の持つ,合意形成手法としての特徴と河川管理にとっての利点について考察する.
表 4-6 遠賀川の 3 つの原則 7 つのルール
16)
1. 自由な発言
・参加者の見解は所属団体の公的見解としない.
・特定の個人・団体のつるしあげをおこなわない.
2. 徹底した議論
・議論はフェアプレイの精神で行う.
・議論を進めるにあたっては実証的なデータを尊重する.
3. 合意の形成
・問題の所在を明確にしたうえで合意形成をめざす.
・係争中の問題は,客観的な立場で事例として扱う.
・プログラムづくりにあたっては,
長期的に取り扱うもの及び短期的に取り扱うものを区分し,実現可能な提言を目指す.
133
4.3.2 遠賀川夢プラン作成の経緯
直方川づくり交流会は,河川法改正の前年にあたる 1996 年 8 月に発足した.きっかけとなっ
たのは,当時の直方出張所長が,
「直方市を流れる遠賀川の将来の川づくりを,直方市民自ら考
えて提案していただきたい」と,地域の方に働きかけたことである.これに応え,女性 11 名,
男性 11 名のメンバーが集まった.交流会には,建設省,福岡県や直方市の職員もメンバーとし
て,定期的な意見交換を行うこととなった 17).
交流会の独自性は,発足当初から「自ら学習,行政への提案,市民レベルの合意形成」とい
う 3 つの目標(表 4-7)を揚げていたことにある.
自発的な学習は,
海外を含む先進地視察や専門家による講習会などの形で実施された.
また,
実現性を高めるために行政関係者の考えを聞くことも効果的であった.交流会メンバーは,内
外の河川の知識と行政の専門情報を仕入れて見識を深め,実現性のある提言を出そうとした.
なお,行政関係者は情報源として扱われており,行政へのはたらきかけは提言活動によるもの
と認識されていた.
交流会からの提言は,
「夢プラン」と名付けられた.
「夢プラン」の特徴は,実現性が担保さ
れていないことである.盛り込まれたアイディアは,交流会メンバーの見る夢であり,実現を
望むものである.しかしながら,その夢が大多数の住民の意見を反映したものであれば,行政
行為としてアイディアが実現される可能性が高まる.
交流会は,これまでに 4 次にわたって「夢プラン」を発表した.それらは,行政に向けて示
されるとともに,
市民にも公開され意見や参画を呼びかけるものであった.
交流会メンバーは,
持続的な学習イベントの開催などを通じて,
「夢プラン」をより多くの市民に知ってもらう努力
を続けていった.
以下に,
「夢プラン」が最発表されるたびに,その内容が具体化し,実現性が高まっていった
過程について紹介する.
表 4-7 交流会の 3 つの目標
18)
目標① 直方市の中心を流れる遠賀川について、市民みずからの手で望ましい将来像を考
える。
目標② 遠賀川が地域住民に親しまれ、愛される川になるよう、今後の川づくりのあり方
について関係行政機関に積極的に提案していく。
目標③ 会員相互および行政機関との意見交換のための交流会を開催し、今後の川づくり
について市民レベルの合意形成を図ることにより、行政への住民参加を促す。
134
(1) 遠賀川夢プラン 1998(遠賀川の将来像)
発足から 3 年後の 1998 年,直方川づくり交流会は議論を一枚の絵にまとめた「夢プラン」提
言を発表した.提言には口上(表 4-8)が添えられて,交流会の考え方を端的に表している.
この口上で,
「50 年後」という目標の設定は重要である.50 年という時間は,義務教育を終
えた若者が高齢者になる時間である.施設計画として長すぎる期間の目標は,行政機関にとっ
ても共有可能である.また,口上の結語は「希望します」となっている.個別施設の要望活動
とは異なり,
「夢プラン」へ賛同を求めるのが趣旨となっており,さまざまな立場の人が提言を
受け取ることができるようになっている.
さらに提言には,
「誰が」整備するのかを明示していない.現実に河川空間の管理には河川管
理者,道路管理者,市役所などの行政や地域住民などが関与しており,特定の機関が責任を負
えるものではない.それぞれの制度や予算の制約の中での協力イメージを示したのが「夢プラ
ン」であった.
「夢プラン」の構成として第一次案(図 4-7)は,3km ほどの河川延長について,背後地の特
表 4-8 夢プラン 1998 の口上
18)
「50 年後の遠賀川はこんな姿にしたい!」という想いを絵にしてみました。 私たちが理想とする
川は、自然が豊かで、市民の憩いの場であり、安心して川を散歩でき、いつ見てもゴミも無く、水
質もきれいで川に棲む生き物にも優しく、洪水にも安全な川です。そして、そのなかに直方の特色
を盛り込めたら、きっと素晴らしい遠賀川になることでしょう。このような想いをこめて、私たち
が理想とする遠賀川の「夢プラン」の実現に向けて「川の自然を大切にし、人にも生き物にも優し
い遠賀川」づくりを提案します。
この「夢プラン」は、現在の川の姿から出発したものです。将来、治水のために川を広げ河川敷
を削ることがあるのは承知しています。治水上必要なものには、ある程度柔軟に対応しなければな
りません。その場合でも、ここに夢プランで提案したゾーニングには最大限の配慮をされ、
「夢プラ
ンの精神」を尊重した川づくりが行われるよう希望します。
18)
図 4-7 遠賀川夢プラン 1998(遠賀川の将来像)
135
徴を考慮して 5 つにゾーニングして説明している.それぞれのゾーンには個別施設の提案があ
るが,率直な意見を反映した,素朴で理想論的なものが多い.たとえば河川博物館,ウシやヤ
ギの放牧など盛り込まれているが,誰がどのように管理するのかは考慮されていない.河川構
造物の素材や形状についても検討されたものではない.このように,実現可能性という観点で
は,提言の熟度は低かった.
(2) 遠賀川夢プラン 2000(夢の中之島づくり)
第一次案の発表から 2 年後の 2000 年,第二次案が中之島づくりに絞り込まれて発表された.
2 度目の口上(表 4-9)には,市民レベルの合意形成に向けた願いと表現され,合意形成への意
気込みが強く盛り込まれている.
提案事項も,市民の利用の多い遠賀川と彦山川の合流するゾーンの河川空間利用に着目して
いる(図 4-8)
.市外からの利用者の多いオートキャンプ場を評価するとともに,水上ステージ
の土砂堆積を問題としていた.また遊びを体験できる「春の小川」と環境学習施設「水辺館」
の設置が提案され,一年を通じて来訪者が増えるよう呼びかけている.
表 4-9 夢プラン 2000 の口上
18)
平成 10 年 (1998 年) に『遠賀川の将来について』の第一次案を提案し、住民のみなさんに多自然型川づく
りについて理解をふかめてもらうきっかけとなりました。今回の第二次提案書は、第一次提案書で直方のシ
ンボルとなるゾーンとした「日の出橋~勘六橋ゾーン」について、具体的にどうしたらいいのか、どうあっ
たらいいのかを議論を重ねて作成に至りました。これはあくまでも直方川づくり交流会の夢プラン。この提
案をきっかけにたくさんの住民の方々に参加していただき、住民の総意として遠賀川の有効な活用が現実に
なっていけばと願っています。
18)
図 4-8 遠賀川夢プラン 2000(夢の中之島づくり)
136
(3) 遠賀川夢プラン 2001(夢の水辺館の提案)
第三次提案は,
「水辺館」を中心とした交流活動に焦点を絞り,内容をさらに具体化した提案
となっている.
それまでに直方川づくり交流会は,外部講師による自然環境保全の課外授業や,中之島とそ
の周辺での子どもたちの体験学習会を開催してきた.そして,中之島を日本一の環境学習と交
流の場として,直方市の今後のまちづくりの核にしようという提案がなされたのである.新た
な提案では,中之島(導流堤)に水生生物のための「春の小川」や活動拠点となる「水辺館」
の設置を提案している(図 4-9)
.
「夢プラン」は再提案されるたびに具体的になっていった.当初の提案の熟度が低かったから
こそ,さまざまな意見が寄せられ,交流会メンバーにとって次の学習が必要となった.さらに,
年 2 回の季刊誌「遠賀川夢だより」を市報に折り込み,市民への情報発信を進めていった.こ
のように,
「夢プラン」は行政への提言活動であるとともに,交流会の活動継続の原動力になっ
ていたといえる.
18)
図 4-9 遠賀川夢プラン 2001(日本一の環境学習と交流の場)
137
4.3.3 改修工事の経緯
2003 年 7 月 19 日,遠賀川上流の飯塚市では,1 時間 75mm の集中豪雨があり,広範な内水
氾濫が発生した.これを受けて飯塚市の排水機場の整備など床上浸水対策と,中下流の上下流
バランスを保つための河道拡大が計画された.直方市においては,流下能力を 1,700m3/s から
1,900m3/s に増大させることとなった.
遠賀川河川事務所は,直方市長や学識経験者などからなる「遠賀川を利活用してまちを元気
にする市民協議会」が組織し,改修計画を諮った.計画は,直方川づくり交流会の「夢プラン」
の考え方を参考にしつつ,予算制約や施工性,持管理方法などを勘案して決定された.基本設
計は,堤水護岸を撤去し,堤防から水際までがなだらかにつながる緩傾斜として高水敷を掘削
し,河川断面を拡大することとされた(図 4-10,写真 4-38)
.これに緩やかな起伏をもたせ,
既存樹木を移植するなど,水辺らしさや奥行きを感じさせる景観設計の下で工事が行われた.
また,オートキャンプ場や既設駐車場を保全し,利用頻度の低い水上ステージは撤去した(写
真 4-39, 4-40)
.
図 4-10 直方の緩傾斜河岸の考え方
写真 4-38 緩傾斜河岸の改修工事(2006 年 3 月)
写真 4-39 緩傾斜河岸の改修前(2005 年 6 月)
写真 4-40 緩傾斜河岸の改修後(2006 年 9 月)
138
4.3.4 川づくりの評価
河川改修後の遠賀川は,水際を歩く住民が増え,市民からおおむね好意的な評価を得た.さ
らに 2009 年には土木学会からデザイン賞が与えられた.デザイン賞の解説 4)では,河川改修を
「市民のための水辺の創出」と評価し,直方川づくり交流会の活動を紹介している.
以下は,デザイン賞の講評 19)から引用する.
○ そうした履歴を秘めた空間を歩き,
土木のデザインは,
目で見るデザインというよりも,
居住活動する人間の身体的時空間デザインともいうべきであるという思いが浮かんだ.デ
ザインされた時空間に身を置いた者は,その感性をどのように刺激され,その触発によっ
て何を感じ,何を考え,また何を経験として蓄積するのだろうか.そうであるならば,デ
ザイナーは,多様な人々(関心・懸念とその背景にある意見の理由の来歴を異にする人々)
の感性的多様性にどれほど配慮できるかということを課題とするであろう.
直方の水辺の,いわば「虚な」空間は,そのことによって感性の刺激を受けるのに十分
な「のびやかさ」を感じさせてくれた.
(桑子敏雄選考委員)
○ 遠賀川に架かる橋から下流を見た時,眼前にひろがる河道と左岸側の高水敷の風景は,
筑豊の河川に対する先入観をみごとなまでにくつがえしてくれた.
このような川辺の街に生まれ育った人々,特に子供たちにとっては,生涯忘れることの
ないふるさとの風景となるにちがいない.
(宮城俊作選考委員)
○ 遠賀川は,
「近代の空間の履歴との決別」を土木デザインによってなしえたことを私は
高く評価している.
(中略)改修する前の固められた河川は,直方の水辺の整備によって
緩やかな起伏とのびやかな空間としてよみがえった.景観デザイン力が河川や地域のイメ
ージまで変えてしまうことを示した記念碑的な作品である.
(島谷幸宏選考委員長)
上記の評価はいずれも河川や河川構造物の形状などではない.
河川改修の基本方針となった,
地域住民の遠賀川への想いを感じ取ったものであろう.このような想い込めた河川改修は,河
川事務所の業務や水害後の市民協議会で表現することは難しい.遠賀川の場合は,直方川づく
り交流会が,将来像の検討,関係機関への提案,市民レベルの合意形成の「夢プラン」活動を
10 年前継続してきたことによって実現可能になったものである
そこで次項では,夢プラン方式によって得られる川づくりへのメリットについて考察する.
139
4.3.5 合意形成手法としての特徴
遠賀川で行われた夢プラン方式による川づくりは,住民参加型の地域づくりや河川整備の試
みであり,結果として,実際の川づくりに成功した事例と考えている.その要因分析として,
夢プラン方式の合意形成の特徴と河川管理に与える影響について考察する.
(1) 夢プラン方式の合意形成の特徴
川づくりでは,一般に多くの利害関係者があり,全員が納得する合意形成を行うことは容易
ではない.夢プランの場合は,河川区域での改修という限定的な合意形成ではあったが,地域
での合意形成に有効な特徴が見られた.以下に列挙する.
① 郷土愛の表現
夢プランの精神は,
「川の自然を大切にし,人にも生き物にも優しい遠賀川づくり」であ
る.これは,地域に住む人の立場で 50 年後の住民ために川づくりを行おうとするもので,
地域と次世代への愛情に貫かれている.そのため,経済面や政治的な利害がなく,根本的
にところで批判されることがない.地域住民が自発的に夢プランを提案することが,地域
全体や関係行政に受け入れられる要因である.
② 計画の公開と修正
夢プランは,想いを表現したもので,地域づくり計画としての熟度は低い.これを積極
的に公開し,外部から寄せられる賛同や批判を活かして修正を加えることが,交流会活動
の目的ともなった.同時に地域のすべての関係者にとっていつでも意見することができる
という参加型プロセスが,計画に反対するという人を最少化していった.結果として,修
正を繰り返された夢プランが,
実質的な地域を代表する川づくりの基本構想となっていた.
③ 裏付けのなさ
夢プランは,公的な裏付けはない.仮に 2003 年の水害がなければ,河川改修は行われて
いなかったであろう.いわば無責任な計画である.そのために,市民生活を改善する直方
市役所と川づくりを行う河川事務所の職員を交流会の議論に巻き込むことができた.一方
で,公的な計画決定のためには,協議会による意思決定が必要であった.
④ 地域住民と市役所と河川事務所の三角関係
地域住民と市役所と河川事務所による議論では,相互の立場や意見の隔たりが度々表面
化した.しかし,常に三者で率直に議論できる関係によって,決裂を回避してきた.また
住民の考え方を一緒に聞くことで,それぞれの行政内部の意思疎通は円滑化されていた.
三角関係の構築は,議論を持続させ,さまざまな壁を乗り越える原動力となっていた.
140
図 4-11 地域住民と市役所と河川管理者の三角関係
前述のような,基本的な考え方,活動方法,地域住民と市役所と河川管理者の三角関係が,
夢プラン方式の特徴と考えられる.地域への情報発信を行ったマスコミと女性作家を含めて,
交流会と協議会の関係者の関係を図 4-11 に示す.
(2) 河川管理に与える影響
夢プラン方式は,河川管理の行政内にも好ましい影響を与えた.改修工事を行う前の段階で
地域との一体感が形成されていたことにとどまらず,
断片的になりがちな実務が円滑化された.
これも以下に列挙する.
① 河川と地域のつながり
河川事務所は,治水事業や安全確保のため,河川区域と管理責任の範囲内で行動を選択
することが多い.その場合,改修方針を河川事務所が説明し,地域住民の理解と承認を求
めるという計画作成が行われやすい.ところが,夢プラン方式の議論では,河川は地域の
生活空間の一部であり,地域のための河川という理解が当然のこととなる.直方では,地
域住民と河川事務所の議論は,河川のあり方や利用方法から,学習や子育てなど河川管理
と直接関係しない方向へ議論が展開している.
このような手法は,堤防の内外で思考分断されない,幅広い視野をもった河川管理を可
能にする.また日常的な河川管理と並行して地域の想いを理解し,必要に迫られたときに
河川改修を行う.夢プラン方式の合意形成は,長期的な地域づくり・川づくりの観点で効
率的な手法である.
141
② 構想から管理へのつながり
直方川づくり交流会では,50 年先という長期的な目標設定を行うため,理想の姿をどの
ように維持していくのかが,必然的に議論された.長期的な河川管理において,河川事務
所のできることの限界が説明され,地域住民が参画したいという希望が語られた.さらに
両者が担うことができない課題については,直方市役所による補完が期待された.
このような将来の河川管理方法が想定された上で,河川改修を予算化し,工事を実施さ
れたのである.したがって構想段階から,河川事務所,直方市役所,あるいは,地域住民
による管理によって目標が達成されると認識されていた.
結果として,
夢プラン方式では,
構想,設計,工事,管理までが,一連のものとして進められた.夢プラン方式の合意形成
は,河川事務所にとって理想的な構想段階の事業評価であったといえる.
③ 職員から職員へのつながり
河川管理の実務は,河川に対する専門知識をもち,地域情報を収集した職員が担当して
いる.しかしながら,行政職員は定期的な転勤,交代が避けられず,新任者は前任者の業
務を引き継ぐ.往々にして,担当が代わることで業務の連続性が損なわれることが多い.
直方の場合,夢プラン方式が,業務の不連続を防止してきた.夢プラン方式は,構想は
常に公開,修正されており,議論への中途参加,既存構想の学習,自分の意見を付加が新
任者に求められる.新任者は議論を通じて,業務の連続性を理解した.緩傾斜護岸の整備
は,構想段階から 6 人の出張所長が交代しながら工事完成に至ったものである.加えて,
率直な議論に参加することは,聴く能力を磨く機会であり,河川技術者の資質向上のため
に貴重な機会である.
④ 災害から環境改善へのつながり
現状の河川管理では,財源の制約から,洪水に対する予防的な防災に比べて,災害が発
生した場合の事後防災が行われることが多い.事後防災では,少しでも早く防災機能を復
旧させるため.被災前の原形復旧という考え方が採られる.しかし被災前の川の姿は,自
然環境の確保や地域の景観形成などの面では好ましくない場合が多い.
これに対し夢プラン方式は,川の現状を見ながら将来の理想像を語り,実質的な合意形
成を図る手法である.防災機能以外の面で川に求められる機能を議論しておいて,不幸に
も災害を受けた場合は,
速やかに機能を向上させることが可能である.
直方の川づくりも,
飯塚の水害を契機としたものであった.これを前例として,災害復旧を想定して河川の環
境を改善する,戦略的な夢プラン方式の適用も検討可能である.
夢プラン方式は,
遠賀川河川事務所の業務につながりを与える方式として重要である.
また,
他の河川管理の現場においても,応用することができると考えられる.
142
4.3.6 夢プラン方式の今後の展開
本節では,遠賀川の緩傾斜河岸の整備を可能にした夢プラン方式について考察してきた.こ
れは,地域の課題解決のための合意形成ツールとして有効であり,地域に喜ばれる川づくりを
可能にすることを確認した.さらに発展的に応用する可能性をもっている.例えば,先にふれ
たように,既設インフラの再建設など,創造的な環境改善を議論することができる.また,流
域の漁業,農業,森林管理など複合的な課題でも,関係者が巻き込んだ議論も可能である.
ただし夢プラン方式には,地域の個性が折り込まれていたことは忘れてはならない.直方の
夢プランには,前提条件となる次のような特異性があった.
① 直方市民の民主性
直方の個性の一つは,筑豊の民主的な地域性である.旧産炭地の中心地であった直方に
は,炭坑関係者が数多く流入した地域社会の分化がある.社会の構成員は,個々の意見を
もち,それをしっかり主張する民主的な雰囲気がある.いわゆるサイレントマジョリティ
が少ないという特徴が,提案,批評,修正のプロセスをもつ夢プラン方式を成立させたと
いってよい.
② 明日はよくなる前向きな気分
次に,自然環境の回復基調があげられる.炭坑最盛期にぜんざい川と呼ばれた遠賀川の
水質は,流域住民の努力により,少しずつ回復する傾向にある.それを象徴するかのよう
に,2009 年にアユの定着が確認され,2010 年にはサケの遡上が報道されている.理想的と
はいえない環境であっても,今日よりも明日はよくなるという前向きな気分が,夢を見る
活動を支えている.
このような直方の個性に支えられて,夢プラン方式は,川づくりに好ましい影響を与えた.
他の地域や新たな分野にも夢プラン方式は効果的と考えているが,前提として直方のような条
件の整備が求められる.それは,誰もが声を出しやすい雰囲気と,大多数が共有できる前向き
な気分である.
夢プラン方式の合意形成は,空間管理における閉塞感を打破し,問題を現実的に解決してい
くのに有効な手法である.他の地域や河川で夢プラン方式を応用する場合には,直方の個性を
理解しつつ,その地域の個性を加味した合意形成の場づくりが求められる.これからの河川技
術者にとって,魅力的で有意義な研究テーマであると考えている.
143
4. 4 まとめ
第 4 章では,国際協力の事例からメコン川の連続水制とラオスへの粗朶沈床,国内の事例か
ら遠賀川の夢プラン方式について述べた.それぞれの分析から得られた結論を,これからの川
づくりに求められる技術という観点から整理する.
メコン川の石積み連続水制は,大きな自然外力に対して,現場の材料と限られた予算で行っ
た河岸侵食対策であった.この技術は,現場での原因分析と現実的な構造物の検討によって選
択された最も有効と判断され,結果として,河川技術者の創意工夫による,河川営力と自然植
生の活用が成功した事例となったものである.当然ながら,同じ形状の水制が他の現場で効果
的とは一概にはいえない.構造物の機能を理解して用いれば,形状は現場によって異なる.こ
れからの川づくりは,複合的な目的を満足する構造物が期待されており,河川に働きかける河
川技術者には,構造物を適切に使いこなす技術力が求められる.
ラオスへの粗朶沈床の技術協力では,侵食対策工法としての技術移転とともに,侵食対策を
持続的に行う態勢整備を目的としていた.一連のプロジェクトでは,まず河岸侵食の要因分析
結果がラオス技術者に理解され,現在の材料,技量,財源による施工技術が採用された.さら
に技術や予算を管理し,技術者を育成する組織的な態勢が整えられた.維持管理の方法を含め
たシステムとしての河川管理技術の移転が実現したといえる.このことは,他の地域の河川管
理においても重要である.河川管理に置いては,地域特性,河川特性に対応できる組織的な態
勢によって,河川技術者が能力を発揮する環境が整う.
遠賀川の緩傾斜河岸の整備は,地域の合意形成に基づいて行われた事例である.河川の維持
管理と利用促進を実現するために,夢プラン方式という合意形成手法の有効性が示された.夢
プラン方式は,地域住民と市役所職員と河川技術者の連携し,住民の立場からの川づくりのイ
メージの提案,共有,公開,修正する手法である.これは,千差万別の住民の想いを,現実の
川づくりでカタチにするプロセスであり,河川管理の枠を超えた地域づくりへのアプローチで
もある.河川技術者には,夢プラン方式の特徴を分析し,地域社会への働きかけを工夫する技
術が求められる.
以上を総括する.
これからの川づくりには,自然環境と社会環境への創造的な働きかけが必要である.そのた
めの技術は,河川伝統技術や合意形成手法としてすでに存在している.ただし,現在の社会情
勢に適合させて,さらに発展させていくことが必要である.河川技術者には,創意工夫する技
術と合意形成する技術について研究し,実際の現場で,日常的に試行し続けることが求められ
る.
144
参考文献(第4章)
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145
146
第 5 章 これからの河川技術者の役割
5. 1 研究の総括
前章までの分析内容を総括する.
第 1 章では,20 世紀後半に顕在化した国土問題について,歴史的な連続性の中で現在を捉え
る必要があるという認識を示した.その上で,問題の解決のために,河川管理も変遷を取り上
げ,河川技術者の役割について研究を行う着眼点を示した.また,研究全体の構成を示すとと
もに,研究の目的を設定した.
研究の目的 国土問題を歴史的に認識し,その解決に向けた
河川技術者の役割について実証的に分析すること.
第 2 章では,古代から江戸時代にかけて,人々が自然環境に働きかけて土地開発していった
経緯について,遠賀川流域を中心に分析した.その結果,土地開発の展開とそれを実現した土
木技術の進化について次のように整理した.
① 縄文時代には,人々は干潟や河川・森林で狩猟・漁撈・採集を営んでいた.石鍬が土掘り
用具として用いられていたが,土地への働きかけの規模はごく限られていた.
② 弥生時代には,水田稲作が始められ,木製農耕具で耕作可能で,水資源に恵まれた土地が
開発された.水田は,干潟に近い沖積低平地から沖積地上流へと広がっていった.
③ 古墳時代には,西日本各地の土地開発が進み,鉄器を保有する豪族が古墳を築いた.農耕
具に鉄製刃先が装着され,ため池や導水路を築いて沖積平野の外縁部が開墾された.
④ 飛鳥・奈良時代には,
官吏や僧侶が指導的役割を担い,
各地域に農業水利技術が普及した.
国家主導で土地開発が行われ,利用されていなかった構造平野や氾濫原が開墾された.
⑤ 平安・鎌倉・室町時代を通じて,
土地への課税形態とともに実質的な土地管理者が変化し,
次第に地縁的なまとまりによる自律的な土地の管理運営が行われるようになった.
⑥ 江戸時代には,幕藩体制の下での領国経営が行われた.通貨としての機能を持つコメの生
産量を増やすために,土地と水資源が最大限利用されるようになった.
土木技術は,日本の歴史を通じて,土木施工技術,農業水利技術,集落自衛技術と進化し続
けており,各時代にはその当時の最新技術が駆使された土地利用が拡大されてきたことが明ら
かである.江戸時代に至って,最大限に開発された土地利用が持続的に利用するために,河川
管理技術が現れた.
第 3 章では,江戸時代には,領国経営で行われた持続的な土地利用と河川管理の関係につい
て,
『百姓伝記防水集』
,
『川除仕様帳』
,
『享保修築例規』
,
『隄防溝洫志』の古文書の内容を分析
147
した.河川管理技術と河川技術者の役割に着目して分析した結果.次の 5 点の特徴を明らかに
した.
河川管理技術について,
① 河川の営力の活用
② 設置可能な構造物の選択
河川技術者の役割について,
③ 地域防災における「公助」
④ 現場条件に応じた技術的な創意工夫
⑤ 住民連携による日常的な河川管理
これらは,基本的に現在の河川技術者に引き継がれているものの,④と⑤については社会情
勢に応じた質的な変化が見られた.これからの河川技術者が認識すべき課題として,現場条件
に応じた技術的な創意工夫と住民連携による日常的な河川管理が認められた.
第 4 章では,現在の河川技術者の課題を認識した上で行われている,試行的な取り組みを評
価した.対象としたのは,メコン川での連続水制の設置,ラオスへの粗朶沈床の技術移転,遠
賀川での夢プランによる合意形成である.
メコン川の石積みの連続水制は,現場での原因分析と現実的な構造物の検討によって設計,
施工されたもので,
河川営力と自然植生の活用が成功した事例である.
困難な条件であっても,
技術的な創意工夫によって対策を行うことができることを示した.
ラオスへの粗朶沈床の技術協力では,侵食対策工法としての技術移転とともに,河川管理態
勢の整備が行われた.維持管理の方法を含めたシステムとしての河川管理技術が,地域の特性
に応じて構築されつつあるものと認められる.
遠賀川の緩傾斜河岸の整備は,夢プランと呼ばれる地域の合意形成に基づいて行われた事例
である.河川の維持管理と利用促進を実現するために,構想段階から地域と連携し,成果をあ
げうる手法として評価できる.
以上の分析結果から,これからの川づくりには,自然環境と社会環境への創造的な働きかけ
が必要であり,そのための使いうる技術を発展させていく努力が,河川技術者に求められると
した.
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5. 2 土地利用と地域防災と河川技術者
前章までの結論を踏まえ,現在の河川管理について,さらに総括的な分析を加える.まず,
土地利用の変遷に「土木技術」が果たした役割と,洪水への対処のために発達した「地域防災」
について総括する.次いで現在の河川技術者の位置づけと求められる役割を考察する.
5.2.1 土木技術と土地利用
古代には,朝鮮半島から水田稲作とともに伝わった土木施工技術の進化によって,土地開発
が拡大した.縄文時代には主な土木工具は石器だったが,弥生時代には木器,古墳時代には鉄
器が使用されるようになった.木製農耕具の時代は干潟周辺の低平地が耕作され,鉄製刃先の
時代には沖積平野の外縁部が開墾されるようになった.開発の自由度が高まるにつれ,洪水に
対する安全度が高い土地利用が選択された.
飛鳥時代には,仏教技術ともに労働集約的な農業水利事業が伝わった.さらに大和政権は,
遣隋使や遣唐使を通じて中国大陸の先進技術を直接導入した.先進技術のため池や導水路など
は,土木技術を身につけた官吏や僧侶の指導で築造された.やがて,律令体制の整備とともに
水利技術は中央から地方へと伝播していった.技術の普及に伴い,構造平野や氾濫原の安全度
の低い土地の開発も可能となり,
地域の特性に応じて輪中堤や水屋などの水害対策が採られた.
中世を通じて,各地域で自律的な土地の開発と管理が拡大していった.
江戸時代になると耕作可能な土地と利用可能な水資源のほとんどが開発された.有限な土地
でのコメ生産を最大化するため,流域管理技術が発達し,各河川には管理担当の技術者が置か
れた.ただし,当時の河川管理施設は洪水外力に比べて規模が小さく,氾濫は防止し得なかっ
た.技術者は,農村の農民を指導しながら,水害予防に万全を期し,洪水には被害を最少化す
る洪水対応を行った.二線堤や乗越堤,遊水地などはその技術的対応の一部である.また彼ら
の技術は,現場にある自然材料を利用し,経験に基づく定性的判断によって洪水形態に応じた
創意工夫を凝らすものであった.江戸時代には,水害を繰り返し受けながらも,流域管理技術
によって持続可能な土地利用を実現していた.
明治時代になると,合理主義的な河川工学がヨーロッパから導入された.また,コンクリー
トや鉄などの強度の高い土木材料が多用されるようになった.これによって土木施工の自由度
が高まり.人口増,産業化,都市化に対応して,連続堤防・ダム,排水ポンプなどが建設され
た.江戸時代に比べて,治水安全度は向上し,土地と水資源の利用度は高度化されて,現在に
至っている.
この過程で土木技術は,土木施行技術,農業水利技術,集落自衛技術,河川管理技術として
進化してきた.いつの時代でも土木技術の進化が,土地利用の拡大と高度化を実現してきた.
現在直面する国土問題の解決のためにも,土木技術そのものの新たな研究と開発が求められて
いる.
149
5.2.2 水害発生と地域防災
縄文時代の人々は,
自然環境に依存した生活を送っており,
自然の一部であったともいえる.
洪水現象が発生しても,被害を受けにくい場所に避難することが容易であった.
弥生時代に水田稲作が始まってから,
人々は河川周辺の自然環境に働きかけるようになった.
水田でのコメづくりは人口増加をもたらし,人々は拓いた水田を管理しつつ,継続的に新たな
水田開発に努めた.古代には人口も少なく,土地利用の規模は小規模なものであった.そのた
め人々は,自然条件や技術的制約の下で,任意の土地に水田を拓いていた.鉄器の普及した古
墳時代には,水害リスクの小さな土地が選択されていた.
ところが飛鳥時代以降は,律令体制に基づく土地政策が始まり,人口が増加し,新たな水田
開発が必要になった.それまで利用されなかった相対的に安全度の低い土地が開発されるよう
になった.そのため,災害被害が発生するようになり,人々は災害への備えと対応が必要とな
った.これが「自助」のはじまりである.
その後も中世を通じて土地開発が続けられ,氾濫原にも水田が拡大していった.水害の常襲
する土地では,被害を共有する人々が協力して地域ごとに自衛対策を採るようになった.これ
が,地域の安全度を向上させる水防であり,
「共助」のはじまりである.
江戸時代には,可能な限りの土地に水田が拓かれた.各地の領主は,コメ生産の最大化(税
収の確保)のため,流域全体での洪水被害の最小化とリスクの分散を図った.これは行政的な
治水の一環であり,
「公助」のはじまりとなった.これによって,日本の地域防災の根幹をなす
「自助・共助・公助」の態勢が完成した.
ただし,現在との比較において注意すべきことは,水害発生の頻度である.
江戸時代の河川は堤防等の整備が十分ではなく,毎年のように水害が発生していた.住民は
水害の予兆に敏感で,水防活動や避難行動について実体験による知識をもっていた.江戸時代
の地域防災は,住民が河川施設の能力を熟知し,不十分な安全度を前提として安心感を高める
しくみであった.河川技術者は,安全と安心を向上させるために地域住民を指導する一方,コ
メ生産への被害を全体として最少化するために一部の浸水被害を容認する決断を行っていた
明治以降は,
洪水の頻発と被害の激甚化に対応して,
洪水処理のための治水事業が進展した.
事業の成果として,治水安全度の向上,地域間の不公平の解消が図られるとともに,洪水頻度
は低下している.また殖産興業政策が採られ,土地利用は水田中心から各種の商工業振興に転
換した.コメ生産への依存が減少し,氾濫原に住む地域住民の洪水への関心が低下している.
安全度に対する認識が失われた結果,根拠のない安心感が広がり,地域社会の水害対応能力が
低下している.
このような状況変化から地域社会の脆弱性が高まっており,生命や財産を守る「自助」と「共
助」が弱体化している.一方,近年の災害の激甚化に伴って,
「公助」である防災行政の充実が
求められている.
「公助」の立場からは,災害時の対応ばかりでなく,防災情報や災害学習を通
じて地域社会に関与し,地域の「自助」と「共助」の機能の維持,向上の支援が必要である.
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5.2.3 河川技術者に求められる機能
土木技術と土地利用の履歴,および,土地利用に付随する水害発生と地域防災の関係を表 5-1
に要約する.土木技術の進化,土地利用の変遷,地域防災の発達は相互に深く影響を及ぼして
きたことが明らかであり,土木技術の担い手である河川技術者は,歴史を通じて土地利用と地
域防災に直接的に関与してきた.いることが明らかであり,これからも責任ある役割を担うこ
とが期待される.
そこで,河川技術者が土地利用と地域防災のために果たすべき機能を,歴史認識の共有,地
域防災の支援,合意形成の促進の 3 点に要約して示す.
(1) 歴史認識を共有する機能
河川は,有史以来の土地利用の履歴を映しながら流れている.水田稲作が始まってから,河
川は沖積地の移動を制約されはじめ,江戸時代にいたって流路を固定されている.さらに明治
以降は,堤防が強固になって氾濫も制約されるようになった.また,水田のための水利用も,
湧き水や小河川に始まり,河川に堰を立てて用水を引くようになった.江戸時代には,河川を
付け替えまでが行われ,流域の表流水の利用は限界に達していた.現在の水資源開発はダムや
河道堰によって行われている.
このような認識がなければ,河川の現状を正確に認識することはできない.しかし,河川の
歴史について,明治以前の情報は少ない.河川技術者も,歴史に関する主体的な発信は行って
いない.これからの河川技術者には,担当する河川の履歴を研究し,地域の知的財産となるよ
うな情報共有を図ることが望まれる.
表 5-1 土木技術と土地利用と地域防災の歴史的関係
土木技術の進化
弥生/古墳
(6 世紀まで)
土地利用の変遷
地域防災の発達
土木施工技術の進化
水田が干潟近辺から,
(石器から木器,鉄器へ) 沖積地外縁部へ
安全な土地の選択的利用
飛鳥/奈良/平安
(7 - 11 世紀)
農業利水施設の普及
(ため池・導水路)
構造平野へ水田拡大
危険な土地への進出
=自然災害と対応(自助)
鎌倉/室町/戦国
(12 – 16 世紀)
地域自営技術の発展
(輪中堤・水屋など)
氾濫原への水田拡大
江戸時代
(17 – 19 世紀)
明治以降
(20-21 世紀)
河川管理技術の実践
(河川付替,二線堤,遊
水地,日常的補修など)
河川工学の発達
材料強度の向上
(ダム,ポンプなど)
土地と水資源の枯渇
持続的な土地利用へ
産業化と都市化
土地利用の効率化
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地域の安全度の向上
=自衛的な危機管理
=地域主導の水防(共助)
流域でのリスク分散
=洪水被害の最小化
=行政による治水(公助)
治水による安全度の向上
水害頻度の低下
超過洪水に対する脆弱化
(2) 地域防災に貢献する機能
日本の地域防災の文化は,
「自助・共助・公助」の関係に集約される.この関係は,江戸時代
に完成し,以来,河川管理者は「公助」の任に当たってきた.
江戸時代の「公助」は,コメ生産の最大化をめざしており,地域住民(農民)と概ね関心や
利害が一致していた.そのため,河川技術者と地域住民が連携して,予防的な水防活動として,
日常的な河川管理を行うことが可能であった.ところが現在は,洪水被害の頻度の低下や地域
社会の生産活動の変化のために,防災文化が変質しつつある.河川管理も,地域住民とは関係
の薄い行政の仕事という位置づけになってしまっている.
その一方で,近年では,気候変動に影響により予測しがたい洪水形態が増加し,治水計画を
上回る規模の洪水への対応が必要になっている.これからの地域防災を支えるためには,今一
度「自助・共助・公助」の関係強化が必要と認識されるようになった.
河川技術者は,改めて「公助」の役割を自己認識し,地域防災への積極的な貢献を行うべきで
ある.現在の社会情勢や洪水特性を踏まえた,効果的な「自助・共助」への支援を行うことが
求められる.積極的な関与によって,防災を基本にした地域づくりと,日常的な河川管理が可
能になる.
(3) 合意形成を促進する機能
土木技術は,何時の時代でも,その時代の課題を解決し,次の時代の開拓に貢献してきた.
弥生時代以降,土木施工技術の進化や農業水利技術の普及によって水田開発によって土地開発
が拡大した.江戸時代に開発が限界に達すると,洪水被害を最小化する河川管理技術が発達し
た.明治以後は,近代的な河川工学とコンクリート材料等によって,産業化と経済成長を支得
てきた.土木技術と土地利用は相互に連動しながら進化してきたといえる.
土木技術の担い手は,かつては在地の領主層や農民層であったが,江戸時代以降,土地利用
に関する土木技術を継承するのは河川技術者である.河川管理者には,現在の社会問題を解決
する努力が求められる.
ただし,現在社会の河川に関する課題は,洪水に対する安全確保にとどまらない.成熟した
現在社会では,流域全体の土地は高度に利用されている.この上で利便性の向上や自然環境の
保全などの多様な要請に応えるためには,何らかの犠牲を伴うことになる.これを調整する機
能が,現在の河川技術者に求められる.これからの河川技術者の存在意義は,地域社会との関
係を構築し,川とのかかわり方についての合意形成を促進する技術そのものを研究し,実践す
ることにある.
152
5. 3 これからの河川技術者の役割
河川技術者に求められる機能を集約したイメージを図 5-1 に示し,それぞれの考え方を整理
する.
○ 歴史認識を共有する機能
遠賀川を中心とした第 2 章の歴史の分析により,河道と流域の変遷,特に江戸時代の河川改
修が現在の河川と流域の状況を制約しており,その理解がこれからの川づくりにおいて重要で
あることを明らかにした.しかしながら,現在の河川技術者は,昭和以降の河川改修は記録し
ているものの,江戸時代以前の履歴については知識が乏しい.これからの河川技術者は,河川
の履歴について自ら学習し,その認識を地域社会の人々と共有する機能が求められる.
○ 地域防災に貢献する機能
地域防災の基礎となっている「自助・共助・公助」の態勢は,土地開発の歴史の中で発生し,
江戸時代に完成したことを,第 2 章および第 3 章で確認した.江戸時代に発生した「公助」の
機能は河川技術者に引き継がれており,
その位置づけを地域社会の中で明確にするべきである.
河川技術者は,洪水時の河川管理施設の保全ばかりではなく,
「公助」の一環として,地域社会
の河川や防災の学習を通じて,平時からの防災活動に参画するべきである.
図 5-1 これからの河川技術者の役割
153
○ 合意形成を促進する機能
地域社会での河川技術者の位置づけは,第 4 章で分析した遠賀川の夢プラン方式が参考にな
る.地域住民と基礎自治体職員との三角関係を構築し,河川管理のみならず,地域の課題解決
のための合意形成を図るしくみづくりに参画することが求められる.その際,江戸時代には行
われていた現場での創意工夫や住民と連携した維持補修を実践することが,現在の河川技術者
に求められている河川管理技術であると考えている.
本研究の結論を述べる.
本研究では,遠賀川を主たる対象として歴史的観点から土地利用の変遷を分析し,持続的な
土地利用が行われていた江戸時代の河川管理の方法を確認した.また,現在の試行的な河川管
理の取り組みを評価した.その結果,土木技術と土地利用と地域防災の関係を明らかにし,求
められるこれからの河川技術者の役割について,次の結論に至った.
これからの河川技術者の役割は,
河川の履歴と現状について情報共有を図り,
地域防災に対して「公助」の立場から貢献しながら,
地域社会の合意形成を促進しつつ河川に働きかけていくこと.
地域社会の中での位置づけは,遠賀川の夢プラン方式のような,地域住民と市役所を河川技
術者の三角関係が基本である.それぞれが地域防災においては「自助」
,
「共助」
,
「公助」を担
う立場にあり,三者の情報交換によって地域防災力の強化を図るものである.その際,河川技
術者は,河川の歴史について自ら研究し,成果を地域で共有するよう努めるべきである.すで
にさまざまな防災情報や河川情報の発信が行われているが,河川の履歴については,その重要
性に反して情報共有されていないためである.
三角関係では将来の川への想いや川とのつきあい方が議論される.共有されたイメージは,
地域に公開され,反響をもって随時修正される.これが地域の合意と認められれば,河川技術
者は河川への働きかけとして河川改修や維持管理を行う.その際には,地域の想いを実現する
べく技術的な創意工夫を凝らす.
このような関係構築と行動を地域社会への働きかけることが,
住民と連携した河川管理行為である.地域に喜ばれる川づくりを可能にするとともに,地域防
災力の強化につながる.
ただし,このような行動を実践するのは容易なことではない.たとえば河川の現況把握だけ
でも,地形,地質,水質,気象,洪水形態,水利用実態,生態系,地場産業など多くの知識が
必要である.さらに関係を深めるべき地域住民の意見や要望は多種多様であり,すべてを満足
した合意形成は不可能であろう. 一方,河川という自然環境に対する働きかけについては,ど
のような応答があるのか,一定程度予測する能力は,河川技術者にとって必須である.新たな
取り組みにでも失敗しないような経験的な判断力が求められる.
154
河川技術者の行動によって,国土に関する社会問題を解決に向けた糸口が多数見えてくると
考える.河川技術者に求められる能力は,さまざまな人の声を聞く耳,整理して自分の意見を
伝える口,求められる川づくりを行う手である.具体的な取り組みは,本研究での一例を示し
たものの,川や地域によって事情は異なる.最後に必要な能力は,地域に飛び込んで創意工夫
する意気込みである.
155
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