...

印刷用PDF - NPO 安房文化遺産フォーラム

by user

on
Category: Documents
1

views

Report

Comments

Transcript

印刷用PDF - NPO 安房文化遺産フォーラム
青木繁《海の幸》に結ばれた漁村のまちづくり
池田恵美子(NPO法人安房文化遺産フォーラム事務局長
青木繁《海の幸》誕生の家と記念碑を保存する会事務局次長)
2. 三つの〝あ〟のまちづくり
1.布良星の里、神話の里
~青木繁・安房節・アジのひらき~
真冬の夜、南の水平線上に輝く赤い星(学名カノー
昭和29(1954)年、周辺町村とともに富崎村が館山市
プス)は、通称「布良星」として呼ばれている。千葉県最
に編入された。布良に千葉県営館山ユースホステル
南端の布良(館山市)は、マグロはえ縄船発祥の地【表紙
(YH)が建設された昭和36(1961)年は、奇しくも青木繁
2】 として栄え、その名を広く知られていた。しかし冬の荒
の没後50年であった。田村利男館山市長と青木の旧友
海での沖泊まり漁は厳しく、遭難事故が多かった。そこ
ら画壇の著名人らによって基金が集められ、翌年、YH
で亡くなった漁師の魂は、星になって赤く輝くという伝承
の隣接地に「海の幸」記念碑【表紙1】が建てられた。
になった。危険な漁撈に耐え、漁師たちが励まし合って
風光明媚な景観とモダンな建物が人気となった館山
歌った舟唄は『安房節』という。
YHだったが、平成10(1998)年に廃業となり、隣接した
アーエ 伊豆じゃ稲取
粋な船頭衆の
房州じゃ布良よ
記念碑も解体の危機におよんだ。しかし地元の人びと
出るところ
アーエ 船頭させても
押さえひかえが
の熱意によって、碑は守られたのである。
とも取りやさせぬ
漁村の衰退と少子高齢化がすすむなか、館山市立
まヽならぬ
富崎小学校では、「漁村が誇る3つの〝あ〟~青木繁・
安房節・アジのひらき」のふるさと学習を実践した。児童
『古語拾遺』という書物には、房総開拓神となる天富命
は青木繁の調べ学習をし、母校の福岡県久留米市立
(あめのとみのみこと)が布を織るために、植物の栽培に適した
荘島小学校とインターネット交流をおこなった。さらに、
土地を求めてやってきたと記されている。それが布良の
『安房節』を歌い、アジのひらきを作れるようになった。
アイド(阿由戸)の浜【表紙1】であり、目の前には男神山・
やがて富崎幼稚園が統合されて廃園となり、小学校
女神山がそびえている。近くには、安房神社周辺の神
の統廃合も時間の問題となった。平成17(2005)年「青
戸(かんべ)や神余(かなまり)といった地名もある。
木繁《海の幸》100年」展がブリヂストン美術館で開催さ
近代画壇に足跡を残して早世した青木繁が『海の
れた。これを鑑賞した富崎地区の吉田昌男連合区長会
幸』 【表紙1】 を描いた布良は、「美術界の聖地」と呼ばれ
長と豊崎栄吉区長は、「せっかく記念碑を守ったが、そ
るようだが、もともと神話の里=聖地なのである。なお、
の重要性があまり認識されていない。記念碑を保存する
明治22(1889)年、布良村と相浜村は合併して富崎村と
会を立ち上げて、地域活性化を図りたい」と、NPO法人
なるが、地名は「天富命が上陸した岬」が由来である。
安房文化遺産フォーラム(以下、NPOフォーラムと略)
青木が坂本繁二郎、森田恒友、福田たねとともに写
に相談があった。布良出身のエッセイスト・山口栄彦氏
生旅行で訪れるのは、この漁村が最もにぎわっていた
が加わり、子どもたちのふるさと学習にならい、「3つの
明治37(1904)年。40日もの間、若者4人を無賃で世話
〝あ〟のまちづくり」がはじまった。
したのは、富崎村会議員や帝国水難救助会布良救難
青木繁の〝あ〟は、「海の幸」記念碑や小谷家住宅
所の看守長などを務めていた小谷喜録である。屋号は
など文化遺産の保存と活用。安房節の〝あ〟は、漁村
代々「きろく」と呼ばれている。
の歴史・文化の調査やウォーキングガイド。アジのひらき
ちょうど日露戦争がはじまった年である。布良は望楼
の〝あ〟は、漁村の食文化「おらがごっつお(我が家の
があり、戦略上重要な場所でもあった。救難所の日誌に
ご馳走)」や生活文化の継承。
は「千倉沖にて砲声聞こゆ」などと記されている。しかし
青木繁を敬愛する人びとの輪は、途切れることなく
青木の絵手紙【口絵2】では、そんな世情にはおかまいな
脈々と結ばれてきた。地域の文化遺産を守り、漁村のま
く、青春を謳歌しているようにみえる。そして誕生したの
ちづくりに尽力した先人たちに敬意を表しながら、半世
が『海の幸』である。
紀を超えるバトンのリレーを振り返ってみたい。
12
石橋財団からも20万円の助成をいただき、総工費60
3.没後50年建立の「海の幸」記念碑
万円であった。当時の新聞には、賛同した画家から提
阿由戸の浜を見下ろす高台に、四角いアーチ型のモ
供された絵画を市長自ら上京して販売したとある。
ニュメントがある。青木繁の没後50年に建てられた「海の
碑の設計は、館山YHの設計者である東京大学の生
幸」記念碑である。足もとの碑盤には、旧友・辻永(つじひ
田勉教授に依頼された。国立西洋美術館で知られる
さし) の揮毫により「青木繁海の幸ゆかりの地」とあり、裏
ル・コルビジェなど、欧米の現代建築を日本に紹介した
面には、
第一人者である、『新建築』12号(1962年12月1日発行)
明治洋画壇の天才画家といわれる青木繁は30年
には、次の文章がのこっている。
にみたない生涯であったが、天ぴんにくわえ情熱を
「海の幸」記念碑
傾注した幾多の佳品を残し、明治浪漫主義の一大
設計 生田勉
金字塔として景仰されております。画伯は生涯で最
昨年の夏私はローマを訪れた。そしてローマの廃
も幸福であり、良き年であったといわれる明治37年
墟をあちこち見てじつに楽しかった。それを見ながら
夏、この地に滞留し、代表作となった〝海の幸〟を
よく立原道造の詩「石柱の歌」が口をついて出た。…
始め数点を描き上げました。この碑は画伯を敬慕
私は石の柱…崩れた家の 台座を踏んで/自らの重
し、その芸術を愛する者たちがあい寄り、没後50年
みを ささへるきりの/私は一本の石の柱だ…乾いた
を記念して、ゆかりのこの地に建立したものである。
…/風とも 鳥とも 花とも かかはりなく/私は 立って
昭和37年4月 発起人
いる/自らのかげが地に/投げる時間に見入りながら
と刻まれている。発起人に名を連ねたのは、
…と。しかしローマの廃墟は道造のローマン派風の
・田村利男(館山市長)・坂本繁二郎(文化勲章受賞)
悲しげな詩とは反対に、もっと華やかに陽気に笑い
・辻永(日展理事長)・富永惣一(国立西洋美術館長)
さざめいていた。それは陽気な女たちのようであっ
・中沢弘光(文化功労章受賞)・熊谷守一(画家)
た。 ローマから帰ってすぐ「海の幸」の画面の群像
・金沢秀之助(画家)・石川寅治(日展監事)
の前にしばしば佇んだ。そこからは海の幸をことほぐ
・山下新太郎(文化功労章受賞)
大らかな歌声がきこえた。私の頭のなかでその歌声
・河北倫明(国立美術館次長)
にローマの笑いさざめきが二重うつしになってくるの
・中村新一(芸術院会員)・鈴木千久馬(日展評議員)
を感じた。こうしてこの記念碑は私の単なる「ローマの
・嶋田繁(館山市議会議員)・穂坂与明(館山病院長)
思い出」かもしれない。しかしひとはこの布良海岸の
・川名正義(千葉県公安委員・館山病院副院長)
小高い丘から遠く太平洋を仰ぎみるとき、アーチのよ
・赤穴博(千葉県婦人児童課長)
うに両手を眉の上にかざして母なる海に感じいること
・安田豊作(館山市立北条小学校長)
であろう。またアーチが円弧ではなく角ばっているの
・館山市布良漁業協同組合
は、神式の幣帛を紙ではなしに石であらわしたつもり
・野原肇 ・神田徳次 ・小谷庸 ・長谷川広治
であった。こうして「海の幸」記念碑はいろいろの夾
らであり、館山市役所内に事務局が置かれた。
雑物を含んで生まれたものであるが、文化の種子は
建立計画書や協力者への経過報告書には、次のよう
すべてそうしたものである。
に記念碑の重要性が説かれている。
詩人の立原は、一高から東京帝国大学建築学科で
学んだ生田の友人である。発起人らの熱い想いを受
・ 碑は一つの芸術作品とも考えられますので、工事
け、ともに早世した青木と立原に導かれるように、ギリシ
施工については万全の策を講じ、設計者の意図を
ャ神殿と日本神道がイメージソースとなって、神話の里・
充分にいかした碑を完成いたして戴く…。
布良にモニュメントができたというのは興味深い。
・ この碑を美術振興の一つの道標といたしたいと念
4.福田たねと蘭童
願し、今後この管理に十分な努力をいたすべく所存
でおります。
青木とたねの間に生まれた幸彦は、成長して尺八奏
・ 建立寄付の剰余金が生じたときは、おって組織予
者の福田蘭童として活躍する。同年6月13日付の房日
定の記念碑管理委員会基金として繰り入れさせて
新聞には「福田蘭童から感謝のたより」としてコメントが
いただきます。
紹介されたている。
13
父が生前、最も好んでいた布良に父の記念碑が
5.記念碑の解体問題と保存運動
建立されるということを聴き、大変嬉しく思っていま
平成10(1998)年、「海の幸」記念碑が解体の危機と
す。父の出生地である久留米にも記念碑があり、毎
なった。8月13日付の房日新聞によると、
年〝けしけしまつり〟という催しが行われています
碑は、県がユースホステル建設に際して国から借
が、布良は父の芸術発祥地と言えるだけに、父もど
用した敷地内に、〝無許可〟で建てたものらしく、同
んなにか喜んでいることでしょう。(中略)父のことにつ
ユース廃止に伴い、構築物を撤去して土地を返さな
いては、母の福田たねが存命しており、何かと役に立
ければならないためだ。これを知った地元では、関係
つことがあると思いますので是非一度御来駕下さい。
者がそろって同市へ存続を要望。建立当時の事実
その翌週には、田村市長は蘭童の自宅を尋ねてお
関係もハッキリしないまま。市では地元と国や県の間
り、たねの談話メモが残されている。
に立ちながら、対応に頭を痛めている。
私たちと森田、坂本の4人で行った。船で霊巌島
とある。地元の有志代表ら(下記)は、碑の存続を求める
を夜9時に出て、朝館山に着いた。着いた所に茶店
要望書を市長や県議などに提出した。
が多くあって、氷水を飲んだことを覚えている。そこか
・小谷栄(富崎地区コミュニティ委員会会長)
ら歩いて、安房神社の前の道を通って、吉野屋という
・吉田昌男(同地区連合区長会会長)
旅館に一泊した。森田か坂本かの知り合いで、田村
・天野久雄(二斗田区長) ・豊崎栄吉(神田町区長)
という医師を通して小谷喜録を紹介され、6畳と8畳
・小宮剛志(本郷区長) ・佐藤一郎(向区長)
の二間を借りた。着いたのが7月12,13日頃で、9月1
・長谷川広治(記念碑発起人)
日から学校が始まるので、それまで約40日間いた。
・豊崎五三男(館山市社協地域福祉委員)
大変親切にしてくれた。おじいさんの亡くなった直後
・吉田清一(館山市文化財保護協会富崎支部長)
のようだった。13,4歳くらいの女の子があって、家族4
・家守若吉(館山市文化財保護協会会員)
人で、使用人が5,6人いた。『海の幸』はデッサンをし
・山口市彦(富崎地区公民館長)
て、東京で仕上げた。モデルは喜録で使っていた男
同市は、「文化的、歴史的価値も高く、存続の方向で
を二人ばかり、雨の日などよくモデルとした。(中略)
国や県と話し合っていきたい」として、正式な貸借契約
主にスケッチはムカイの港の脇あたりでやった。平砂
を結び国に賃料を払うことにより、取り壊しは免れた。
浦、伊戸にも行った。小湊へ参拝にも行った。万祝を
6.子どもたちに誇りを伝えよう
着て、旗を立てて帰ってくる船を覚えている。布良を
詠んだ歌はたしかにいくつかあったが、今覚えている
平成17(2005)年、ブリヂストン美術館で「青木繁《海
のは一つだけ、「幸せやいかに未だ我が背は帰りこ
の幸》100年」展が開催された。これを受けて地元では、
ぬ沖は大島波の音する」。女が子どもを背負って、提
12月4日、富崎小学校体育館を会場に「〝青木繁《海の
灯を持って、岩の上に立って、夫の帰りを待っている
幸》100年〟から布良・相浜を見つめる集い」を開催し
絵に即興的につくった歌だが、絵は戦災で焼けてし
た。午前の見学会フィールドワークに約70人が参加し、
まった。お盆にぶつかった。灯篭などを吊り、念仏な
午後のシンポジウムに約100人が集まった。
どをやり、香の煙が立ち込めて神秘的であり、みんな
第一部は、前年に『海の幸』の調査研究を実施した東
喜んでいたことを覚えている。
京文化財研究所の田中淳研究員に、その報告を兼ね
たしかに小谷家では、先代の治助が2年前に亡くなっ
た講演をお願いした。第二部では、富崎小学校の児童
ており、10歳の種子と6歳のゆきという娘がいた。青木や
による『安房節』演奏と青木繁の調べ学習の発表に続
たねは、お客様扱いされていたため家族との接触は少
き、呼びかけ人らの座談会が行われた。布良の漁師や
なく、偶然にも同じ名前の少女がいたことを知らなかっ
船大工、美術家の立場からそれぞれ語る『海の幸』への
たようである。館山市長との面談を通して思い出話を懐
想いや解釈は、聴く者の琴線にふれた。
かしく語ったたねは、その後、『50年前の追想』【口絵3】な
・小谷栄(小谷家当主)
ど数点の絵を描きあげた。
・吉田昌男(マグロ船機関長・連合区長会会長)
・豊崎栄吉(布良の船大工・神田区長)
そして10月1日の記念碑除幕式には母子二人で参列
・山口栄彦(布良出身・エッセイスト)
し、式典では蘭童が遺族代表として挨拶している。
14
・船田正廣(館山美術会顧問・彫刻家)
ャリティ絵画展が発案され、平成24(2012)年、東京銀座
・愛沢伸雄(NPOフォーラム代表)
と館山で、青木繁「海の幸」オマージュ展が開催され
・池田恵美子(NPOフォーラム事務局長)
た。以降、毎年巡回展で成果を挙げている。同年より、
この場において小谷氏は、「古い家を壊そうと思って
館山市ふるさと納税で「小谷家住宅の保存・活用の支
いたが、地域活性化に役立つなら、当時のままの家を
援に関する事業」を指定する寄付制度が整備され、オ
残していきたい」と発言し、小谷家住宅【表紙2】の保存運
マージュ展売上の一部が寄付されるようになった。
民官協働の文化財保存のまちづくりが始まったことを
動へと発展する契機となった。
契機に、小谷家当主・青木保存会・「海の幸」会・館山
6.小谷家住宅の保存運動
市教育委員会生涯学習課は「四者協議会」を発足し、
小谷家当主の発言を受け、住宅の保存を模索するな
小谷家住宅の修復・公開に向けた話し合いを重ねてき
かで、文化財専門家に調査してもらったところ、高い価
た。これらの熱意により石橋財団の助成金800万円も決
値を得た。この報告書に基づき、小谷栄氏より館山市教
まった。総事業費約4,500万円(居住部の自己負担額を
育委員会へ「文化財指定申請書」を提出し、後方支援と
含む)のうち約半分が集まった。そこで教育委員会を除
して、NPOフォーラムと同地区連合区長会とが連名で
く三者で「修復と公開に関する覚書」を交わし、平成26
「小谷家住宅と記念碑の保存・活用に関する要望書」を
(2014)年春から2ヶ年計画で修復工事にとりかかり、平
館山市長と教育長に提出した。
成28(2016)年春の一般公開を目ざすこととなった。
並行して、同地区コミュニティ委員会の役員や市内外
7.文化遺産を活かしたまちづくり
の賛同者、全国の美術関係者らとともに、金丸謙一館
山市長と石井達郎教育長が発起人に名を連ね、平成
青木繁没後100年にあたる平成23(2011)年、石橋美
20(2008)年9月28日、青木繁《海の幸》誕生の家と記念
術館・京都国立美術館・ブリヂストン美術館で大回顧展
碑を保存する会(以下、青木保存会と略)を発足した。
が開かれた。世代交代した小谷家当主と青木保存会有
吉田昌男会長の急逝に伴い、会長:嶋田博信(連合区
志(下記)は久留米市を訪問、命日供養の〝けしけし祭
長会長)、副会長:村田猛(元連合区長会長)・天野努
り〟にはじめて参加した。楢原利則久留米市長をはじ
(元安房博物館長)、運営委員30名、事務局はNPOフ
め、青木の遺族や旧居保存会など関係者らの歓迎をい
ォーラムに付託され、活動が始まった。保存管理・地域
ただき、交流を温めることができた。
振興・広報普及・募金会員拡大の4部会で、草刈整備
・小谷福哲、由喜枝(小谷家当主夫妻)
や会報の発行など、多様な活動を実践してきた。同年、
・愛沢伸雄、香苗(NPOフォーラム代表夫妻)
国土交通省の「新たな公」によるコミュニティ創生支援モ
・池田恵美子(NPOフォーラム事務局長)
デル事業に選定され、文化財アドバイザー会議やウォ
・鈴木瑞江(青木保存会運営委員)
ーキングマップ作成、レシピ集作成などに取り組んだ。
同年8月27日、南総文化ホールにて、「青木繁《海の
翌年10月に小谷家住宅が館山市指定有形文化財と
幸》フォーラム」を開催した。第一部はブリヂストン美術
なったが、調書には保存上の留意事項として、「建物は
館の貝塚健学芸員の美術講座「布良という聖地~《海
ほぼ良好に保存されているものの、次の箇所の修理が
の幸》が生まれた場所」、第二部は《海の幸》井戸端会
必要である。(1) 正面本体・庇間鉄板を撤去して本来の
議としてパネルディスカッションをおこなった。
軒廻りを表す、この際には庇屋根取り付き部及び本体
・石橋鉄也(青木繁のひ孫)
部軒廻りの修理が必要となる。(2) 正側面大壁、海鼠壁
・小谷福哲(小谷家当主)
の補修・復原 (3) 背面瓦屋根及び木部補修(緊急性
・山口栄彦(布良出身、エッセイスト)
あり) (4) 屋根桟瓦葺きの葺替え」 と指摘があった。な
・島田吉廣(布良崎神社神輿世話人)
お館山市文化財の保護に関する条例では、「指定文化
・鈴木聡明(館山市観光協会副会長)
財の維持修理費は所有者負担」と謳われている。
・愛沢伸雄(NPOフォーラム代表)
・池田恵美子(NPOフォーラム事務局長)
折しも、青木繁を敬愛し、小谷家住宅を後世に残した
いと考えていた画家の吉岡友次郎氏や女子美術大学
石橋氏は、父がクレージーキャッツの石橋エータロー、
の吉武研司教授らは、NPO法人青木繁「海の幸」会
その祖父が福田蘭童という血筋をひいた後裔である。
平成24(2012)年、富崎小学校は統廃合により休校と
(大村智理事長、以下「海の幸」会と略)を設立した。チ
15
なった。残念ではあったが、明治の先人がアワビ漁の収
が滞在した頃とは地形が異なるため、特定をすることは
益を村有財産として開いた学校の誇りを未来に語り継ご
難しい。しかし地質図を確認すると、250万年前の布良
うと、まちづくりへの機運が高まっていった。
層と呼ばれる凝灰岩質砂岩のなかで、1ヶ所だけ300万
平成26(2014)年7月27日、再び南総文化ホールに
年前の白浜層と呼ばれる赤味がかった火山灰質の岩場
て、「青木繁《海の幸》フォーラム」を開催。第一部は石
が海岸線に見られるので、ここではないかと推察され
橋美術館の森山秀子学芸課長の美術講座「青木繁を
る。なお布良層は、地学区分において新生代の新第3
通じてみる文学と美術の交流」、第二部は「明治の漁
紀と第4紀の境界基準となる重要な鍵層であるという。
村・富崎から《海の幸》誕生を探る」をテーマにパネルデ
明治40(1907)年作『わだつみのいろこの宮』 【口絵1】
ィスカッションをおこなった。
は、山幸彦が海底で豊玉姫と出会う神話が描かれてい
・小谷福哲(小谷家当主)
る。『青木繁全文集 假象の創造』(中央公論美術出版)によ
・吉武研司(女子美術大学教授)
れば、布良で海女メガネを借りて海に潜った感動と、2
・島田吉廣(労働大臣認定カラースキャナー1級技能士 )
年後に長崎で体験した器械式潜水がイメージソー・スに
・愛沢伸雄(NPOフォーラム代表)
なっているようである。画中の足もとには、海の中なのに
・池田恵美子(NPOフォーラム事務局長)
泉が湧き、海草(カツラ)の幹は樹木のように太い。
これらの活動は、文化庁の「文化遺産を活かした地域
青木が滞在した小谷家の奥二間から眺めると、庭の
活性化と観光振興」事業として開催された。同事業で
向こうにマテバシイ(トウジイ)の木があり、関東大震災前
は、「ヘリテージまちづくり講座」やシンポジウム「館山ま
までは、その手前に池もあったという。『わだつみのいろ
るごと博物館」などの開催にもつながっている。
この宮』の下絵デッサン(個人蔵) や、青木の原画を山本
8.青木繁が描いた布良の海
鼎が木板画にした蒲原有明著『春鳥集』の口絵『繍斧』
と同名の水彩画 【口絵1】 を見ると、どれも小谷家のマテ
まちづくり活動のなかで調査がすすむにつれ、明治
バシイに似て見える。『わだつみのいろこの宮』のよう
期の富崎村の様子が明らかになってきた。漁村の人び
な、縦長の窓から40日間見続けた庭の印象が、様々な
との想像力は豊かに沸き、青木の描いた作品について
作品のイメージソースになったと考えるのもおもしろい。
の新解釈や仮説が生まれている。
9.円光寺の板戸と〝波の伊八〟
布良から太平洋を見ると、真正面に伊豆大島、左に
小さな正三角形の利島、その左に平らな新島と並んで
明治38(1905)年、青木は身重となったたねを伴い、
いる。荒々しい黒潮の波と岩が印象的な2枚の作品が
再び房州を訪れている。今度は布良ではなく、ほど近い
あるが、『海』には伊豆大島が、『海景(布良の海)』には
西岬村伊戸の円光寺に寄寓し、本堂の板戸4枚に焼き
利島が象徴的に描かれており、連続したパノラマである
釘で海の絵を描いている【口絵1】。4枚のパノラマに太平
ことがわかる【口絵1】。
洋の荒波が広がり、右端に小さく富士山、左方には伊
豆大島、利島、新島らしき島影が見える。
さらに、当時の色彩を復元する特殊技術で複製画を
製作した島田吉廣氏は、次のような発見をしている。
後年、円光寺の本堂は建て直されているが、間取り
同寸大で2枚のパノラマを並べると、水平線と岩と波の
は当時と同じだという。板戸があったであろう位置の斜
位置がピタリと合う。もともと1枚に描いたデッサンを左右
め上方に、欄間から飛び出るような力強い龍と波の彫刻
半分に切り分けたのではないかという。また、左の『海
がある。よく見ると、板戸の構図に酷似している。作者は
景』は折りジワで画面のインクが割れ、右の『海』にはそ
安房鴨川生まれの宮彫師、武志伊八郎信由。波と龍を
れが見られない。つまり、署名のある『海景』は布良で着
彫らせたら関東一と名を轟かせた、通称「波の伊八」で
色まで完成してから丸めて東京へ持ち帰り、『海』は東
ある。葛飾北斎の富嶽三十六景『神奈川沖浪裏』も影
京に戻ってから色をつけたのではないかと考えられる。
響を受けたといわれているが、青木もまたこの欄間彫刻
両館より写真データをお借りし、もう一点気づいたのは、
に刺激を受け、挑むような気持ちで板戸に向かったの
キャンバスの枠を留める方法がホチキスとテープと異な
かもしれない。それなら、荒波を主役にして、富士山や
るため、製作する時機も異なるであろうと推察される。今
島々が小さく描かれたわけが分かるような気がする。
後の研究に期待が寄せられる。
小谷家にも板戸がある。『海の幸』の同寸大レプリカを
写生地については、関東大震災の隆起を経て、青木
縦に並べてみたら、板戸の高さと一致することに気がつ
16
いた。キャンバスを板戸に貼りつけて、描いたのではな
◎多々羅義雄 佐賀生まれで16歳のとき、亡くなる前年
いだろうか。そうすると、両端の色が異なる部分が、板戸
の青木繁に絵画指導を受けたという。大正11(1922)年
の上下の框(かまち)にその幅がピタリと合うのである。
『房州布良ヲ寫ス』【口絵3】を描いているが、わざわざタイ
それでは、キャンバスはどこで入手したのであろうか。
トルに「写す」と入れたのは、何か意味があるのだろう
もしかしたら船の帆ではないだろうか。もともとキャンバス
か。そうして見てみると、中村彝の『海辺の村(白壁の
は西欧の帆布に由来するという。船主であった小谷家
家)』と同じ蔵だと気づいた。同じ位置から構図を左寄り
や長逗留で親しくなった船大工から、帆布を分けてもら
の向きに描いているため、水平線上の陸地は伊豆半島
ったということは十分あり得そうだ。あるいは、祭礼で使う
の天城山と伊豆大島である。さらに、船の帆は同じ型で
神社の幟旗という可能性もあるかもしれない。布良の人
あり、画中の洗濯物や腰をかがめた女性の姿などが酷
びとのロマンは、尽きることなく湧いてくる。
似している。多々羅が彝を意識していたかどうか分から
10.布良を愛した画家たちの足跡
ないが、同じ写生地だと比定できたことにより、当時の地
形の変化など様々な情報が読み取れる。
◎寺崎武男 東京美術学校で青木繁の3年後輩であ
◎倉田白洋(はくよう) 写生旅行先の根本村(現南房総
り、イタリアから帰国後、山本鼎らと日本創作板画協会
市)で出会った小谷英子に恋をして、明治43(1910)年
を設立する。東京美術学校に彫塑科を開いた彫刻家の
に結婚、館山に居を構えている。根本は布良の隣村で
長沼守敬(もりよし)が大正3(1914)年から館山に移住し
あり、児童自由画教育を実践した白羊は富崎尋常小学
ており、師を慕って館山を往復するうち気に入って、自
校でも絵画指導していることが分かってきた。後に山本
らも震災後に本格移住。房総開拓神話に惹かれ、多く
鼎(かなえ)が長野県上田市に開く農民美術研究所の副
の壁画を描き、安房神社や下立松原神社などに奉納し
所長に招聘されている。
ている。近年、布良崎神社からも、鳥居型に額装された
館山市立図書館所蔵の『水門』【【口絵3】は、青木保存
縦120cm×横210cmの奉納画『天富命の布良上陸の
会の調査により、今も残る松林と背景に見える館山湾と
図』【口絵3】が見つかっている。寺崎の指導を受けた伊
大房岬の稜線から、写生地は館山市の湊川(平久里
東博子・井上忠蔵・松苗禮子らが画家として活躍する。
川)河口であると比定できた。
◎中村彝(つね) 18歳で天涯孤独となり結核を病み、明
白羊の義兄の小谷源之助・仲治郎は、根本村から米
治38(1905)年、北条町湊(館山市)に転地療養で滞
国モントレーに渡り、器械式潜水のアワビ漁を始めた先
在、海でスケッチをして画家を志した。『海の幸』から5年
駆者である。仲治郎は水産伝習所で関澤明清の指導を
後の明治43(1910)年、布良で描いたのが『海辺の村(白
得ている。源之助の息子ユージンの岳父は、戦前からヨ
壁の家)』‐東京国立博物館蔵‐である。写生地は布良本郷
セミテ国立公園を描いて認められていた日本人画家の
の墓地とされていたが、小谷家から徒歩5分、海が見渡
小圃千浦(おばたちうら)である。日米開戦後は強制収容
せる高台の狭い路地であり、白壁の蔵は昭和10年頃
所に送致されるが、所内に美術学校を開いて日系人た
(1930年代半ば)まで存在していたことが分かった。海の
ちを勇気づけ、戦後はカリフォルニア大学バークレー校
向こうの陸地は、平砂浦から続く洲崎の岬である。
の名誉教授になった美術教育のパイオニアである。
その後、彝は新宿中村屋の相馬愛蔵・黒光の支援を
◎青木茂 もう一人のアオキシゲル、『三太物語』の文
受け、中村屋サロンで活躍する。奇しくも、前身の本郷
学者。画家としても、大正10(1911)年の館山美術会発
中村屋から新宿へ出店する際、本郷店を任されたパン
足に関わっている。没後、遺族が作品やスケッチブック
職人の長束實は、昭和初期に独立し館山へ出店してい
を館山市立図書館に寄贈した際、生前親しかった白羊
る。相馬夫妻から暖簾分けを認められ、館山中村屋の
から贈られたという『水門』(前述)も一緒に寄贈された。
商号を得る。新宿中村屋の流れを受けて、インドカリー
◎大下藤次郎 水彩画のパイオニアといわれ、房総を
やロシアケーキが人気の老舗パン屋として、今も市民に
何度も訪れている。明治27(1894)年に著した『安房の
親しまれている。館山駅前の本店2階喫茶室には、『海
冬』-島根県立石見美術館蔵-では、「兼ねてきく布良」へ行
辺の村』の同寸大複製画【口絵3】が展示されている。店
った様子が記されていて興味深い。明治29(1896)年の
主は代々美術愛好家であり、伊東深水や向井潤吉など
再来訪では、『菱花湾日記』-同-という絵日記を事細か
著名な画家の作品を多く所蔵し、季節ごとに展示を入
に描いており、菱花湾とは館山湾の別名である。
れ替える「まちかどミニ美術館」でもある。
布良は、今なお多くの人びとを魅了しつづけている。
17
Fly UP