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第12章 労働者の自己責任論と「遁走」

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第12章 労働者の自己責任論と「遁走」
茂木一之(もぎかずゆき)
高崎経済大学名誉教授
LSE(London School of Economics and Political Science)visiting professor..
労働者の自己責任論と「遁走」
すでに述べてきたように、市場原理主義は、完全競争を理念的モデルとする限りにおいて、した
がってオークション仲介者を除いて競争への第三者による関与を極力排除するため、競争のアトム
化を極限まで推し進めてきた。こうした競争のアトム化によって、およそ国家とか労働組合、職場
の協調的風土、諸企業間の協調的戦略などは競争の「場」の埒外に置かれるようになった。そして、
それに代位するものとして個別的な自己責任論、「自助論」が強調されるとともに、労働者の個別化・
孤立化のみならず、一部の、とりわけ若年者の市場からの「退出」や「遁走 1」がが顕在化するように
なった。
才能を発揮した者、努力を重ねた者、幸運に恵まれた者が、そうしなかった者、そうできなかっ
た者よりも、結果的に得るものがより大きかったとしても、現在の日本社会に生きる普通の生活者
は、それを「不公平」であるとか、「平等」に反するというふうには感じない。本当は、そう感じない
ことこそが、したがってまた「同一ルールの同一適用」という原則こそが、社会的差別を是認してし
まい、「自己責任」を無限に負荷された人間像こそが、実は「弱者」への配慮を欠いたもっとも孤立し
た人間観であるという事実を包み隠してしまうのであるが 2、しかし人々は通常、そうは感じてい
ない。伝統的か否かを問わず、「怠け者」を排除する道徳規範が普遍的に存在しているのである。
少なくとも 1960 年代以降の日本社会における普通の生活者は、労働の場面においても、消費生
活の場面においても、能力主義とプライバタイゼーションの受容を通じて、新自由主義の人間像と
社会的ルールにきわめて親和的な生活世界を生きてきたからである。換言すれば、能力主義やプラ
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「遁走」(fugue)は、ある場所から逃げ出すことを意味するが、それ自体を認知できない精神障害としての解離性
遁走に似て、積極的な意志をもたずに居場所を失ったり、放浪することや、現況に対する対抗としての離脱など
といった行為も含まれる。解離性遁走(Dissociatjve Fugue)は、以前は心因性遁走(Psychogenic Fugue)とも呼称
されたが、予期していないときに突然、家庭または普段の職場から離れて放浪し、過去を想起することができな
くなる精神障害である。個人の同一性について混乱している、または新しい同一性を部分的に、または完全に装
うという症状がみられる。この障害は、解離性同一性障害の経過中にのみ起こるものではなく、物質(例:乱用
薬物、投薬)または一般身体疾患(例:側頭葉てんかん)の直接的な生理学的作用によるものでもない。その障害は、
臨床的に著しい苦痛または、社会的、職業的または他の重要な領域における機能の障害を引き起こしている。
竹内章郎『現代平等論ガイド』青木書店、1999 年、p.82。
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イバタイゼーションの受容に歯止めをかけ得るような集団的・共同的な人間観や文化を、この国の
生活者の大半がもち得てこなかったからである。そのことは、国家が覆いかぶせようとしてきた「受
動的人間像」を批判し、それに対抗するうえでは、ある意味での強力な武器となったが、逆に、新自
由主義が日本において根づいていく際には、それを呼び込む強い「吸引」力となったことは確かであ
ろう 1。少なくとも、人間像という次元で、新自由主義との根本的な対抗軸をどう立てられるのか
を問うことなしに、格差とか貧困化という「市場原理主義」への批判を安易に行うことはできないと
いうべきなのではなかろうか。
労働者の自己責任論といってもその論潮には多様なものがあるが、いささか乱暴なそれではある
が自己責任論の一方の極にあるのが奥谷禮子のそれであろう。マスコミや国会でも取り上げられた
同氏の言動をここで取り上げることには躊躇・戸惑いもあるが、しかしその主張の主要点は氏に固
有なものでも、また極端なものでもなく、市場原理主義の浸透過程においてむしろ普遍的にみられ
たものであり、そうした意味で奥谷禮子は正直な人といえるのではなかろうか。
奥谷禮子は、「格差論は甘えです 2」と、格差社会論そのものに否定的であるだけではなく、2006
年10 月24 日に開催された第66 回労働政策審議会労働条件分科会に使用者側の委員として参加し、
過労死の問題について、「自己管理の問題。他人の責任にするのは問題」、「労働組合が労働者を甘や
かしている 3」などと発言し論議を呼んだ。とくに、週刊東洋経済のインタビューでは、「労働基準
監督署も不要」、「祝日もいっさいなくすべき」、「格差社会と言いますけれど、格差なんて当然出て
きます。仕方がないでしょう、能力には差があるのだから」、「下流社会だの何だの、言葉遊びです
よ。そう言って甘やかすのはいかがなものか」、「だいたい経営者は、過労死するまで働けなんて言
いませんからね。過労死を含めて、これは自己管理だと私は思います。ボクシングの選手と一緒」、
「自分でつらいなら、休みたいと自己主張すればいいのに、そんなことは言えない、とヘンな自己規
制をしてしまって、周囲に促されないと休みも取れない。揚げ句、会社が悪い、上司が悪いと他人
のせい。ハッキリ言って、何でもお上に決めてもらわないとできないという、今までの風土がおか
しい」、と労働者側の自己責任論を強調する発言を繰り返した 4。
こうした発言に対しては、労働者側のおかれている現状認識が欠けているだけではなく、日本国
憲法第 27 条とこれを受けて制定された労働基準法、および日本国憲法第 28 条で定められている労
働基本権を失念した発言であるとも指摘され、国会でも問題にされた。奥谷禮子のいささか「過激」
な言動を批判することは容易であろう。「過労」ないし「過労死」を防止するための使用者側の善管義
務(職場環境保全義務)は当然のことであるし 5、政府の規制責任も明瞭であろう。そもそも、彼女が
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「『自立した個人』を想定する『市民』主義には、市場原理主義を批判する視角は存在しない」(金子勝『市場』
岩波書店、1999 年、p.10)。
「特集 格差の世紀」『日経ビジネス』2006 年 7 月 10 日号、p.31。
厚生労働省「労働政策審議会労働条件分科会第 66 回議事録」2006/10/24
『週刊東洋経済』第 6059 号、2007 年 01 月 13 日号
最高裁判所は 2000 年 3 月に大手広告代理店社員の過労自殺訴訟において企業が社員に払うべき義務について、
「疲労が過度に蓄積して労働者の心身の健康を損なうことのないように注意する義務」という判断を示している
(平成 10(オ)217 損害賠償請求事件(通称 電通損害賠償) 平成 12 年 03 月 24 日 最高裁判所第二小法廷)。簡単に
いえば、「従業員の自己管理」ではなく「経営側に職場の環境を整備する義務がある」ということである。さらに、
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経営する企業の業態としての労働者派遣事業そのものが、職業安定法改正以前は違法行為であった
ことの法理をあらためて想起する必要もあるであろう。
ただ、こうした発言の基盤にある労働者の「自己責任」、「自助」という思考規範が、発言者の主観
的意図がどうであれ、「市場原理主義」のそれに沿ったものであることに留意しなければならない。
発言の過激さから、矛先がたんに発言者への個人に向けられがちであるが、それが「市場原理主義」
における一般の労働者像であることを看過してはならないであろう。したがって、長時間労働や職
場のストレスなどに起因した「過労死」が自己責任であるとする指摘にとらわれてしまうと、本質を
見過ごしてしまう危険性がある 1。「自己責任」、「自助」などといった自由競争における経済主体理
念を労働者にまで拡延する指向は 2、たとえば「成果主義」だとかキャリア(形成)論などといった人事
労務管理領域での新たな胎動にこそみられるのである。
もちろん、超資産インフレ崩壊後のわが国において、それ以前のビジネス・モデルの象徴的存在
であった日本的経営、それを特質づけていた年功的賃金体系へのアンチテーゼとして登場してきた
「成果主義」賃金体系は 3、よく思考された合理的で説得的な分析にもとづいて設計されたものでは
なく、後ろ向きの事業再構築(リストラクチャリング)におけるコスト削減策として導入されたとい
う不幸な出自をもつ点でも、結果として諸個人の賃金格差を拡大させた点でも「市場原理主義」と相
似している 4。「成果主義」賃金体系とか処遇などが、ある種の「流行」となる以前から、働く人々の
業務上の成果を評価し、それを賃金・昇進昇格等に結びつける人事施策が広く導入されており、職
能資格制度に代表されるような能力主義のもとでも個別的・集団的な成果を計測し, 賞与等に反映
させる企業は少なくなかった。そもそも、労働の諸結果、あるいはその個別的な基盤である「顕在化
した能力」(コンピテンシー5)を処遇に反映させない人事管理はなかったといえよう。
にもかかわらず、導入推進・批判を問わず、「成果主義」処遇が注目された背景には、その科学的
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取締役であっても過労死の責任は会社にあるという判断を大阪高等裁判所が示している。
「貧困状態にまで追い込まれた人に自己責任論を展開するのは、奥谷氏が過労死した人に自己責任を押し付けた
のと同じである。なぜなら貧困とは、選択肢が奪われていき、自由な選択ができなくなる状態だからだ」(湯浅誠
『反貧困~「すべり台社会」からの脱出』岩波新書、2008 年)。
「自己責任という空気による支配は今や、福祉や雇用など生活のさまざまな分野に広がっているように感じる」
(『毎日新聞』2007 年 4 月 17 日「筆洗」)。
「成果主義」賃金体系が、わが国企業において導入されるようになったのは、「バブル崩壊」後の深刻な不況期にお
いてであり、以後、大企業を中心に急速に拡大していった(日経ビジネス編集部「特集 会社はどこまで変われる
か~人事革命第二ステージ実力主義賃金の正念場」『日経ビジネス』2001 年 5 月 21 日号参照)。平成 16 年の厚
生労働省「就労条件総合調査」によれば、「「個人業績を賃金に反映させる」企業の割合は、規模計で 53%であり、
とくに規模が大きくなるほど、この傾向は強く、従業員数 1000 人以上では 83%に達していた。「個人業績を賃
金に反映させる」ことを成果主義賃金制度と読み替える、大企業を中心に成果主義人事制度は普及が進んでいる
といえるであろう。
内閣府政策統括官室(経済財政担当)が行った企業行動アンケート調査によれば、 企業内の賃金格差(最高賃金÷
最低賃金)は、成果主義的な賃金の割合が 50%以上を占める企業の場合、30 歳代以下の層で 1.91 倍、40 歳代で
1.85 倍、50 歳代で 1.80 倍と、全標本平均の格差である 30 歳代以下(1.69 倍)、40 歳代(1.66 倍)、50 歳代(1.62
倍)に比べていずれも大きく、成果主義賃金の割合の増加が賃金格差の拡大につながっていることを示している。
内閣府(2005) 『日本経済 2005-2006』内閣府政策統括官室(経済財政分析担当)、2005 年、pp.151-152。
コンピテンシーにつていは、以下を参照されたい。本寺大志『コンピテンシーマネジメント』日経連出版部、2000
年、遠藤仁『コンピテンシー戦略の導入と実践』かんき出版、2000 年、渡辺一明『コンピテンシー成果主義人
事』日本実業出版社、2000 年、竹内一夫編『日本型コンピテンシー・モデルの提案』社会経済生産性本部、2000
年、藤城克也稿「自立型人材の育成をめざしたコンピテンシー評価制度」『賃金実務』2000 年 10 月 15 日号、11
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な当否・妥当性が問われることよりは、総額人件費抑制という導入期待が優先されたのではなかろ
うか。成果主義とよばれる評価・処遇制度の改革は、①脱年功主義化・脱能力開発主義化、②賃金
の変動費化・業績連動化、③評価の厳密化・緻密化、という 3 つの特徴によってこれまでの評価・
処遇制度と異なっているとされている 1。すなわち、「成果主義」の抽象的な意義が語られていても、
個人の業績を計量化するための緻密で説得的な方式は提示されているわけではなかったのである 2。
「成果主義」が、総額人件費を抑制するための恰好のシンボルになったことは否めないが、何よりも
問われなければならないことは、それが労働者の個別化・孤立化・他者性の喪失を促進したことで
あるし、
従業員と企業との双方に眼前の短期的結果に固執させる短絡な思考を移植したことにある 3。
労働生産性とか企業業績などをめぐる競争が長期化すればするほど、
より長期的な視点や組織的「協
調」が継続的な勝利のための必須条件となるが、 短期の仕事の成果を評価や処遇に結びつける成果
主義では、諸個人の関係性濃度は低くなり、結果として企業の競争力は劣化してしまうばかりか 4、
自己決定の度合い(内発的動機づけ 5)を狭隘化し統制することで従業員のモラールを低下させてし
まうのである。
そもそも、「市場原理主義」のもとでは、「成果主義」の科学的な妥当性すら問われることがなかっ
た。現代社会における有機的に結合し、動態化している複雑系としての労働を観念的に個別化し、
また、より長期的な視点から「働き方」を問うことなく、その成果を計量することで処遇を決定する
とともに、成果の多寡をもって「働き方」を類別してきたのである。成果、それを付加価値生産性、
生産物の質量、売上、利益、「目標値」などと置き換えてもよいが、それらは無数ともいえる諸条件(パ
ラメータ)のたまたまの結果なのである。にもかかわらず、成果は労働者の「実力」とか能力、あるい
はモチベーションという限られた変数との関数として一人歩きして評価される。
労働が協働(Zusamenwirken)であり、現在の労働と過去の労働との 3 次元的な結合であるとする
ならば、成果の個別的な計量は不可能であるといわねばならない 6。仮に、多次元で信頼性の高い
能力考課基準があり、諸個人の能力(a)を個別的に計量することができたとしても、それはあくまで
も相対的なものであり、ましてや「成果」(x)を計量する唯一の変数とはなり得ない。x=a が成り立た
ないことは自明であるが、x=ya ないしは x=y+a 式の変数(パラメータ)y は、無数であり、しかも
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立道信吾・守島基博「働く人からみた成果主義」『日本労働研究雑誌』No.554、2006 年 9 月号、p.71
社会経済生産性本部生産性労働情報センター・笹島芳雄監修『成果主義人事・賃金Ⅵ 先進 8 社の事例研究』社
会経済生産性本部、2000 年を参照しても、成果の厳密な計量化にかかわる説得的な手法はみられなかった。
高橋伸夫『虚妄の成果主義~日本型年功制復活のススメ』日経BP社、2004年を参照されたい。
いわゆる成果給、業績給が生産性を高めない点についての先行研究レビューにとしては、以下が便利である。
Kohn, A. (1993),Punished by Rewards ; The Trouble with Gold Stars, Incentive Plans, A's, Praise and other
Bribes, Boston, Houghton Mifflin, 田中英史訳『報酬主義をこえて』法政大学出版局、2001 年、立道信吾「成果
主義に関する論点整理」『企業の経営戦略と人事処遇制度等に関する研究の論点整理』日本労働政策・研究機構、
労働政策研究報告書 No.7、2004 年。
Deci, Edward L., Intrinsic Motivation, 1975, New York, Plenum Press, 安藤延夫・石田梅男訳『内発的動機づ
け』誠信書房、1980 年。
労働政策研究・研修機構が 2004 年、2005 年に実施した調査(従業員調査)によれば、「自分の仕事は成果の測定
が困難である」。と考える者が半数以上に達している。労働政策研究・研修機構『変貌する人材マネジメントとガ
バナンス・経営戦略』労働政策研究報告書 No.33、2005 年、労働政策研究・研修機構『現代日本企業の人材マ
ネジメントプロジェクト研究「企業の経営戦略と人事処遇制度等の総合的分析」中間とりまとめ』労働政策研究報
告書 No. 61、2006 年。
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動態的で可変的であり、一般化は困難である。成果主義が、y というパラメータを明らかにし、成
果(x)と諸個人の能力(a)との絶対的な相関関係を明らかにするモデル(公式)を提示したものではな
い限り、成果主義は観念的なものでしかないという誹りを否定できないのである。
不均衡な競争条件を等閑視し、たとえば、前年度比などという曖昧で安易なメジャーで成果を計
量化し、
「勝者」と「敗者」とを差別的に振り分け、
「金のなる木」としての一部のキャリア組と「負け犬」
としての低賃金非典型労働者(プレカリアート)とを雇用ポートフォリオの中で社会化してきた成果
主義・実績主義は、計量的なビジネス・モデルとしても、そしてイデオロギーとしても「失敗」の淵
に立っているのである。なぜならば、「金のなる木」も「勝者」もまた、圧倒的な「負け犬」の存在なく
しては生まれないからであり、「負け犬の遠吠え」もまた木の葉を揺するからである。少子化、そし
てその当然の帰結としての超高齢化社会、地球環境の破壊、格差というよりは「勝者」をすら飲み込
む貧困による社会の自壊、これが「市場原理主義」から「成果主義」に至る連鎖の、そして構造改革の
「失敗」がもたらした底知れぬ落とし穴なのである。
しかし、市場原理主義の「失敗」は、アンシャンレジュームへの復古を意味するものではないし、
ましてやその主唱者にのみ帰責されるものでもない。労働力商品の供給側もまた、規制緩和、自己
責任、孤立的競争、ベンチマーキングなどに翻弄され、孤立化し、集団的労働関係の主体的な構築
という歴史的なチャネルから逸脱し、与えられた「勝ち組」に参与すべく成果とか実績とかを画餅と
してきたのではなかろうか。過労死が成果を問う激烈な競争に駆り立てられたものであると批判す
ることは容易ではあるが、「仕事」(課業としての労働)を相対化できるような代替的価値意識を創造
できなければ、批判はいつもアンジッヒな批判に終始する。
J 型組織 1、SAS モデルや BOSE モデルが「光明」であるのかどうかは俄に判断できないが、そう
したモデルの底流にある従業員重視と顧客重視との併存を検証する必要性は高いといわねばならな
いであろう。成長神話から解き放されていない市場原理主義の「失敗」を組織的に学習するためのコ
ア・コンピタンスを、「失敗」の犠牲者である羊たちがどのようにしたら具備できるのか、それを考
える時代が迫っていると思われる。
イソップ寓話の「アリとキリギリス」の物語の結末については、多様な修正・付加・改変・解釈が
あるが 2、努力と権利、怠惰と義務という意味では大方の見方は一致している。夏の間、努力しな
かったキリギリスが、
死ないしは貧困、
あるいは悔悟による努力を義務づけられるという寓話だが、
多様な解釈を貫いているのは、努力の普遍性と自己責任とである。努力は、誰にでも公平に与えら
れている「義務」であり、その成果として食料を享受する「権利」もまた公平に付与されているという
1
2
William Ouchi, Theory Z; How American Business can meet the Japanese challenge, 1981, 徳山二郎監訳
『セオリーZ』CBS ソニー出版、1981 年。
竹内靖雄は、この寓話を市場原理の「交換」法則として説明している。努力の結果としての商品・サービス生産の
交換の必然性を教えているという。竹内靖雄『イソップ寓話の経済倫理学~人間と集団をめぐる思考のヒント』
PHP 研究所、1995 年。その他に、以下を参照されたい。堺屋太一『日本とは何か』講談社、1991 年、文庫版
は 1994 年、ひろさちや『昔話にはウラがある』新潮社、1996 年、西岡三夫「市場は社会保障を駆逐できるか、
21 世紀を担う経済学の条件」『朝日総研リポート』1999 年 4 月、第 137 号、山本夏彦「愚図の大いそがし」『文
藝春秋』1996 年 10 月号
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ことであろう。
しかしながら、努力という意識的営為もまた万人に公平かつ平等に付与されていないことに留意
しなければならない。それは、努力主体の条件上の格差だけを意味しているわけではなく、均等な
努力環境・必要性が付与されていたとしてもなお、努力の程度に差異が生じる大脳組成や脳内神経
伝達物質、多様で個人差の大きい個性とか固有な人格があるといわねばならない。
努力したくともできる、できない条件上の差異に加えて、たとえ飢餓という生命的危機に晒され
ても努力する人もいれば、危機の受容に温度差があり、努力しようとしない人もいる。キリギリス
を遊び呆けていて努力しない非道徳的な存在として捉えることは容易であろうが、努力の意思が生
来的で個別差のあるものだとしたら、競争の源泉としてのモチベーションそのものに格差があり、
その格差を道徳的意思の差異に還元できないということになるのではなかろうか。努力しようとし
ないキリギリスを非道徳的で怠惰な存在として捨象すること、あるいは悔悟して努力し始めるキリ
ギリスがアリに提供するサービスと生存手段との交換、そして努力せず貧困化するキリギリスに食
料を慈善するアリなどは、市場信仰(独立した諸個人の自由な交換と福祉による社会均衡)そのもの
といわねばならない。そもそも、この寓話では、アリはアリとして生まれ、キリギリスはキリギリ
スとして生まれている。努力するアリと怠惰なアリとがいるわけではない。生まれながらにしても
っている類的特性によって、その生涯が決定づけられるとしたら、この寓話は子供が読むものとし
てはいささか残酷に過ぎるのではなかろうか。
努力したくともできない人への憐れみ、
努力しようとしない人への侮蔑が道徳的であるとする「神
話」は、商品社会の産物といえようが、こうした「神話」を今日的なニート・フリーター論、キャリア
理論、キャリア形成論にも垣間見ることができる 1。そこでは、「夢」とか「目標」、「自己実現」なと
どいった言葉とその裏側での「自己責任論」とが一体となって人々に突き付けられている。やりたい
ことを探しなさい、「夢」をもって計画的に努力しなさい、そうすれば高い報酬(金銭と地位、満足)
が待っているが、
それはあくまでも自己責任なのであって、
第三者から命ぜられるものではないし、
「夢」をもたなくとも自由だが、「夢」をもてなかったことへのマイナスの報酬もまた自己責任なのだ
と。一般に甘美な印象を付帯する言葉である「夢」は、それを持てない人々にとってはきわめて過酷
な言葉として映るのである。
安逸なキャリア論の横行は、ともすれば人々にキャリアに対する危機感を強制する。こうした圧
力から、社外専門性重視、スキル重視のキャリア自律を志向するパターンが生じる。企業もまたエ
ンプロイアビリティーを狭義にとらえた能力開発とか人事制度を運用することにより、これに拍車
1
若年無業者やフリーターへのヒアリング調査や実態に関する文献としては、小杉礼子編『自由の代償・フリータ
ー~現代若者の就業意識と行動』日本労働研究機構、2002 年、玄田有史・曲沼美恵『ニート~フリーターでも
なく失業者でもなく』幻冬舎、2004 年、小杉礼子編『フリーターとニート』勁草書房、2005 年などがある。玄
田らの著作は、丸山俊『フリーター亡国論』ダイヤモンド社、2004 年、山田昌弘『希望格差社会~「負け組」の
絶望感が日本を引き裂』筑摩書房、2004 年、橘木俊詔『脱フリーター社会~大人たちにできること~』東洋経
済新報社、2004 年などのような、統計的手法や社会学的な分析、あるいは類型化などはないが、インタビュー
の選択や質問内容から筆者らが求めようとする独自の視点を垣間見ることができる。「一人ひとりの状態をまる
ごとそのまま理解しようとすることからしか、すべてははじまらない」(p.258)という著者の述懐は、この問題を
考えるにあたって真摯な対応であるといえよう。
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をかける。上司による管理的マネジメントが改善されず、仕事のやり方の自由度があまり高くない
中で、今ある仕事と切り離された形でのスキル教育が行われるなどしてキャリア自律が推進される
と、人材の社外流出の危険性が高まったり、本人のプラスにならない異動の受容性が低くなるとい
った、企業にとってもネガティブインパクトの出るような事態が生じてしまう。労働者あるいはそ
の予備軍もまた、
資格専門性重視、
転職重視のいわゆるジョブホッパー的なキャリアに陥っていく。
自己の内的な満足よりも外的な基準に振り回される個人と、人材の社外流出や転勤異動拒否に悩む
企業という二重の悪循環が招来されてしまうのである 1。
1
高橋俊介『キャリア論―個人のキャリア自律のために会社は何をすべきなのか』東洋経済新報社、2003 年、第 3
章を参照されたい。
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