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熊本大学学術リポジトリ Kumamoto University Repository System

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熊本大学学術リポジトリ Kumamoto University Repository System
熊本大学学術リポジトリ
Kumamoto University Repository System
Title
《マタイ受難曲》ライプツィヒ蘇演と少年合唱 : ツェル
ターとメンデルスゾーンのかかわりを通して
Author(s)
井上, 博子
Citation
熊本大学社会文化研究, 12: 75-90
Issue date
2014-03-25
Type
Departmental Bulletin Paper
URL
http://hdl.handle.net/2298/30265
Right
熊本大学社会文化研究 12(2014)
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《マタイ受難曲》ライプツィヒ蘇演と少年合唱
-ツェルターとメンデルスゾーンのかかわりを通して-
井 上 博 子
はじめに
今日、《マタイ受難曲》と言えば、第1曲目と第 29 曲目のコラールを少年合唱が受け持って演奏す
る形態がほぼ慣例となっている。ところが、1841 年のライプツィヒでの上演の際に使われたスコア
やパート譜を使って 1992 年4月に録音されたクリストフ・シュペーリング Christoph Spering(1959
~)指揮、ダス・ノイエ・オルケスター/コルス・ムシクスによる《マタイ受難曲》の演奏においては、
第1曲目と第 29 曲目のコラールをソリストたちが歌っている。
シュペーリングは演奏録音に際し、下記のように記している。
1829 年上演のメンデルスゾーンのスコアと声部は、現在、オックスフォードのボードリアン
図書館にある。前の箇所で言及したファニー・メンデルスゾーンの手紙からわかるように、有名
なバイオリニスト、ユリウス・リーツが、彼の兄弟や義兄弟と共にメンデルスゾーンが手を加え
た総譜からパートを書き写した。今日オックスフォードに全ての楽器の声部が現存する。それに
よってフェーリクス・メンデルスゾーンによる2回の伝説的上演に際してのパートの割り振り
の規模について、正確なイメージを得ることが出来る。若いメンデルスゾーンは最高の尊敬を以
て作品と価値ある写しに近づいた。そして、その後に消された細い鉛筆書きと貼り付けたメモに
1)
よってのみ、写譜担当者たちが演奏者たちのパートに転記すべきものを認識できるようにした。
そして更に次のように続けている。
この録音はメンデルスゾーンによってバッハの楽譜に付け加えられたすべての演奏記号を明
確にすることに努めた。この成果は記念すべき上演ではなく、感情によって導かれた数多くの驚
くべき細部を伴う受難の演奏である。非常に小さな音楽上の改訂もすべて大きな音楽的効果を持
2)
ち、そして音楽の天才によって適切にもたらされた。
つまり、この CD を聴けば、メンデルスゾーンが、ベルリン蘇演とライプツィヒ上演においてどの
ような形で《マタイ受難曲》を演奏したかを推測することができるわけであるが、メンデルスゾーン
の蘇演の際に、第1曲目と第 29 曲目のコラールをソリストたちが歌っていたとしたら、いったいい
つの頃から、現在の我々がよく見聴きする、少年たちがコラールを受け持つ演奏形態へと変わったの
だろうか。
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井 上 博 子
本論文は、
《マタイ受難曲》の蘇演を果たした弟子フェーリクス・メンデルスゾーンと、18 世紀末
から 19 世紀にかけてベルリン音楽界に足跡を残した、師カール・フリードリヒ・ツェルターとのか
かわりを追いながら、《マタイ受難曲》ライプツィヒ蘇演を中心に少年合唱との関連を問うものであ
る。
1.カール・フリードリヒ・ツェルター
(1)ベルリン・ジングアカデミー
カール・フリードリヒ・ツェルター Carl Friedrich Zelter(1758 ~ 1832)は、1800 年にベルリン・
ジングアカデミーの第2代音楽監督、指揮者に就任し、32 年間の長きにわたりその職責にあったが、
そればかりではなく、指揮者、音楽教育家、作曲家としてベルリンの音楽界に足跡を残した。また、
音楽教育施設「ベルリン教会音楽のための研究機関」の設立に携わってその基礎を築き、更に、ゲー
テとも親交が深い文化人としての顔をも持つなど、その業績は多岐にわたる。近世の合唱音楽の歴史
は、ツェルターを抜きにして語ることはできない。ここでは、《マタイ受難曲》蘇演を行ったベルリ
ン・ジングアカデミーの概要と、ジングアカデミーにおけるツェルターの位置を知るため、初代監督
ファッシュと第2代監督ツェルター、そして現 10 代監督イルカについて簡略に記す。
ベルリン・ジングアカデミーは、1791 年に宮廷チェンバロ奏者カール・フリードリヒ・ファッシュ
Carl Friedrich Christian Fasch(1736 ~ 1800)によって創立された。女声を含めた混声合唱を世界
で初めて行ったとされる合唱団体である。《マタイ受難曲》のベルリン蘇演は、この合唱団によって
なされた。聖書の一節「女性は教会では黙して語ることなかれ」の言葉から、女性は歌うことができ
なかった教会音楽の世界で少年が受け持っていた高音域のソプラノは、女声によって歌われることが
できるようになった。ベルリン・ジングアカデミーの創設は、それまで男性と少年によって歌われて
いた合唱の分野に女声が加わるという合唱史における画期的な出来事であった。つまり、男声と少年
の声による合唱の歴史は長いが、今日普通に見聴きする混声合唱の歴史はベルリン・ジングアカデ
ミーの創立以来ということになり、混声合唱の歴史は 220 年余であると言えよう。3)
教会音楽に強い関心を持っていたファッシュは、ベネヴォーリの 16 声ミサ曲に強く感銘を受け、
自らも4つの合唱群のための 16 声ミサ曲を作曲した。それを演奏するため弟子や友人を自宅に招い
たことがジングアカデミーの始まりであった。日誌が書き始められた 1791 年5月 24 日が、ジングア
カデミーの創立日とされている。同年9月にファッシュは、マリーエン教会において自身の作品《詩
篇》51 の部分で最初の公開演奏を行っているが、これは、教会において初めて女声を含めた混声合
唱によって宗教曲が歌われた例である。
当時の演奏会は、その時代に現存の作曲家の作品を上演することが殆どであったが、ファッシュは、
同時代の音楽を演奏するだけでなく、過去の作曲家による音楽の復活を考えていて、1794 年1月に、
バッハの《モテット》の研究を開始した。この理念は以来 220 年余、歴代音楽監督によって受け継が
れることになる。ファッシュは、1791 年から 1800 年までの9年間音楽監督を務め、1800 年8月 3 日
に没した時には、27 名で始まったジングアカデミーは、およそ 100 名の会員を擁していた。
1800 年に第2代音楽監督となったツェルターは、創立当初からの会員であり、病弱なファッシュ
を補佐する立場にあったが、監督となってからは、ベルリン歌唱学校の設立やベルリン・フィルハー
モニーの前身となる器楽学校を設立し、詩人、歌手、作曲家のための「リーダーターフェル」もま
《マタイ受難曲》ライプツィヒ蘇演と少年合唱
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た創設した。更に、1817 年には社団法人の権利を内務省から受けるなど、ジングアカデミーの体制
を強化した。1827 年には合唱団の本拠地となる建物をウンター・デン・リンデン通りのカスタニー
エンヴァルトヒェンに建設し、そこで 1829 年3月 11 日にバッハの《マタイ受難曲》蘇演が行われた。
蘇演によるバッハ作品への再注目は、バッハ・ルネサンスの始まりと言われるようになった。
ツェルターの後、歴代の音楽監督たちが伝統と活動を引き継ぎ、それぞれの時代にそれぞれの困難
と特筆すべき歩みがあった。
第9代ヨスハルト・ダウス Joshard Daus は、2005 年 12 月にジングアカデミーと合意の上で監督
の職務を退いたので、以後半年間、ジングアカデミーの音楽事業は休止されていた。
第 10 代カイ = ウーヴェ・イルカ Kai-Uwe Jirka は、2006 年夏に就任した。イルカの指揮のもと事
業は再開され、改革が行われた。就任時、イルカは既にベルリン芸術大学の教授であると共にベルリ
ン大聖堂聖歌隊隊長であったので、ハウプトコーアはベルリン芸術大学との協力によって改革され、
演奏活動の他に将来の合唱指導者のための再教育も行うようになった。イルカは、かつての音楽監督
であるファッシュ、ツェルター、ルンゲンハーゲンのア・カペラ音楽などの演奏を通してジングアカ
デミーの伝統を継承すると同時に、子どもと若者のためのベネヴォーリというネットワークの構築
や、現代の詩と音楽のためのアトリエとしてのリーダーターフェルの再活性化などの活動によって、
現在の組織を築き、ジングアカデミーを新たな世紀へと導いている。
(2)音楽教師としてのツェルター
このようなベルリン・ジングアカデミー 222 年余にわたる業績の中でも歴史的に名高いのは、
《マ
タイ受難曲》の蘇演である。このとき指揮をしたのが、20 歳のフェーリクス・メンデルスゾーンで
あり、第2代音楽監督として大きく関わっていたのがツェルターであった。イルカは、音楽教師とし
てのツェルターについて次のように記述している。
その他に成し遂げたすべてのことにもかかわらず、教育者としての活動をツェルターの生涯の
主要な業績とみなしてもよいだろう。なにしろ彼は、非常に才能に恵まれた個々の人材の芸術的
専門教育と、アマチュア音楽家の幅広く設定された民衆教育との間を仲介することを心得ていた
数少ない教師に属していたからである。職業的音楽市場が、一般的な社会の音楽実践から遠く隔
たった時代である今日において、そのような教育プログラムは、別々の領域を仲介するという点
において、新しい重要性を獲得する。ツェルターの教育の極めて広範な多様性は、既に同時代の
4)
人々から認められていた。
ツェルターは、監督としての 32 年間に注目に値する業績を多々残してきたが、多くの優れた弟子
を育てた音楽教師でもあった。ツェルターの弟子たちの数はとても多く、教育の多様性は当時の人々
から既に認められていた。弟子たちの作風はそれぞれ違うのでツェルター楽派というのはこのような
ものであると括って語ることはできないが、ここではフェーリクスとの関わりをもとに音楽教師とし
てのツェルターについて述べる。
井 上 博 子
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2.フェーリクス・メンデルスゾーン・バルトルディ
(1)師ツェルターとの出会い
フェーリクス・メンデルスゾーン Felix Mendelssohn Bartholdy(1809 ~ 1847)は、2歳の時に
出生地ハンブルクからにベルリンに移り住み、息子の音楽的才能を伸ばそうとする両親の願いを受け
て音楽の勉強を続けていた。14 歳の時に《マタイ受難曲》の筆写譜の一部を、クリスマス・プレゼ
ントとして母方の祖母から贈られ、このことは、1829 年 3 月 11 日に行われた《マタイ受難曲》の歴
史的蘇演に繋がった。フェーリクスは、26 歳の時にライプツィヒ・ゲヴァントハウス管弦楽団の指
揮者となり、1841 年4月4日、32 歳の時にバッハが《マタイ受難曲》を作曲したライプツィヒ聖トー
マス教会におけるバッハの死後初めての蘇演を行った。
フェーリクスが教えを受けた教師たちは数多くいたが、最も大きな影響を与えたのはツェルターで
あった。ツェルターは59歳のときに、8歳のフェーリクスと出会った。フェーリクスの父、アブラハム・
メンデルスゾーンが、音楽家庭教師としてツェルターを雇い入れたのである。
フェーリクスがベルリン・ジングアカデミーに入会したのは、1820 年、11 歳のときであった。
1805 年にマイアーベーアが 14 歳で入会しているが、11 歳の少年の入団は特例であったという。長き
にわたる師弟関係は、年月の経過と共に徐々に変化していくのであるが、ツェルターはフェーリクス
の才能を高く評価していた。ハンス・クリストフ・ヴォルプスは、ツェルターとフェーリクスとの師
弟関係について、以下のように述べている。
ツェルターほど、フェーリクスの音楽上の趣味を培い、実際にレッスンを行いながら、彼の音
楽的才能の発展に大きな影響を及ぼした者はいない。ツェルターはフェーリクスに、(ゲーテが
居合わせた時のように)想像力豊かに「小鬼と竜」を自由に即興演奏で表現させることができた。
しかしまた、ツェルター自身の様式をフェーリクスに押しつけることなく、「厳格な対位法の勉
強」にフェーリクスの興味を引きつけることもできたのである。ツェルターは、ヴァイマルの社
交界で 12 歳のフェーリクスに与えられた栄光にも浴することになった。5)
フェーリクスの伝記には、ツェルターの人柄を表す言葉がしばしば出てくる。「ゲーテは、ツェル
ターを「極めて実直で優秀な人物」と高く評価していた」6)、
「メンデルスゾーンとその友人エードゥ
アルト・デフリエントが《マタイ受難曲》上演に関するツェルターの同意を求めた時、最初彼は、ベ
ルリン風の口汚い言葉で自分の否定的な考えをぶちまけた」7)、「
(フェーリクスは)発声練習のため
にベルリン・ジングアカデミーに通い、和声と対位法をカール・フリードリヒ・ツェルターに師事した。
彼の先生の中で、ツェルターは、フェーリクスにもっとも大きな影響を与えた。彼は卓越した名匠で
あるとともに、感化力の強い教師であった。しかもかなり個性的な人物であり、そのうえ、友人たち
の間では、哲学者ヘーゲル、劇作家シラー、とりわけ有名なゲーテなどと並び称せられていた」8)、
「彼
はぞんざいな口の利き方をする粗野な人物だったが、音楽的には能力のある作曲家であり、教師だっ
た」9)、
「音楽的には保守的だったが、多岐にわたる社会生活を送るのに別段さわりとなることもなかっ
た」10)などである。
これらの描写からは、信念を持ち熱心に仕事をする優秀な教師であるが、保守的な考え方で独善的
な、尊大で横暴とも言える我が儘な面を持つツェルターの姿が浮かび上がる。ツェルターの多岐にわ
《マタイ受難曲》ライプツィヒ蘇演と少年合唱
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たる業績の中で教育者としての活動は主要なものであったが、上述のように独特の個性を持っていた
ので他の弟子たちと良好な関係を保っていたとは言い難かった。そのような師弟関係の中で、「とて
も感じやすかったメンデルスゾーンが、ツェルターと全く仲良くやっていったことは注目に値する」11)
と、イルカは述べている。イルカは更に、「メンデルスゾーンとツェルターの間の保存された往復書
簡は、師弟関係が、人が思い浮かべることができる最も幸福な関係に属するということを明らかに示
している」12)とも記している。
ツェルターとフェーリクスの師弟関係は、父アブラハムが望んだにせよ、そうでなかったにせよ、
強い絆を持っていた。ツェルターがフェーリクスに大きな期待をかけ、愛情を持って育てようとして
いたことは、2人の往復書簡が示している。ツェルターは自らカイロンと名乗り、フェーリクスには、
アキレウスと呼びかけて手紙を書いた。フェーリクスは、10 歳のときにはもう、ゲーテの『アキレウ
ス』を読みふけっていたというから、この往復書簡はフェーリクスにとって心弾むものであったこと
だろう。マイケル・ハードは、ツェルターのフェーリクスへの接し方を、次のように述べている。
感受性が豊かな、しかも想像力に富んだ少年の興味を刺激する方法をよく心得ていて、対位法
の勉強が、謎解きゲームか何かのように思えるように仕組んだ。彼は、自分の生徒が、若きモー
ツァルトにも匹敵するような天分をもっていることに十分気づいていたので、それ相応に彼を取
13)
り扱っていた。
フェーリクスの素質と能力を的確に把握し、教師としてのやり方を熟知した指導法は、レーヴェや
マイアーベーアに対する接し方とは明らかに異なっていた。
1824 年、
フェーリクスが 15 歳のときには、フェーリクスの最新作オペラ《ボストンの伯父》の初演後、
ツェルターは全聴衆の前に立ち上がって 15 歳の弟子を振り返り、「親愛なる少年よ、君はもはや生徒
ではなく、音楽家仲間の完全な一員である。私はモーツァルト、ハイドン、大バッハを代弁して、君
が一人前であることを宣言する」14)と最大限の祝福を与えている。モーツァルト、ハイドン、大バッ
ハの名を借りた「18 世紀の伝統」を重んじた褒め言葉であるが、ツェルターが弟子たちに求めたのは、
「音楽的教養は、真に包括的な 18 世紀の伝統に則したものであること」15)だったのである。
(2)
《マタイ受難曲》ベルリン蘇演
フェーリクスは、
「過去を顧みて古楽を研究することが、新しい音楽を堕落から救うことにな
る」16)という理論を展開していたアントン・フリードリヒ・ユウトゥス・ティボー Anton Friedrich
Justus Thibaut(1772 ~ 1840)の『音楽の純粋性について』の理念に強く興味を持っていた。この
理論に強い感銘を受けて、祖母からクリスマスの贈り物として《マタイ受難曲》の筆写譜(部分)を
受け取っていたフェーリクスは、蘇演を決意した。フェーリクスが蘇演への思いをツェルターに申
し出たとき、ツェルターは、全く乗り気ではなく、否定的でさえあったが、8歳年上の友人で、ジン
グアカデミーの有力メンバーでもあったエードゥアルト・デフリエント Eduard Devrient(1801 ~
1877)の協力を得て、ツェルターの心を漸く動かすことができた。
《マタイ受難曲》は、新約聖書『マタイによる福音書』第 26、27 章のキリストの受難を題材にして
いる。聖書の言葉は福音史家とイエスを中心としたレチタティーヴォで進められ、群衆や弟子達の言
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井 上 博 子
葉は合唱で進められる。バッハの時代には、ソプラノは少年によって、アルトは少年もしくはカウン
ターテナーによって歌われていた。教会音楽は、聖書の「女性は教会では黙して語ることなかれ」と
いう一文のために女性を加えることができなかったからである。従って、今日、ほぼ慣例となってい
るソプラノとアルトを女声が、テノールとバスを男声が受け持つという形態によって行われたベルリ
ン・ジングアカデミーの蘇演は、《マタイ受難曲》演奏史上、画期的なものであった。
1829 年3月 11 日、フェーリクスは、ベルリン・ジングアカデミーのホールで歴史的な復活上演
を実現した。ベルリン蘇演時の出演者に関して、メンデルスゾーン研究者クラウス・ヴィンクラー
Klaus Winkler(1955 ~)は、下記のように記している。
メンデルスゾーンと彼の友人デフリエントは、1828 年 12 月 13 日に、ジングアカデミーのホー
ルの使用を願い出た。ツェルターもまた、この頃納得させられたに違いない。公式練習は 1829
年2月2日にジングアカデミーで始まった。歌い手の数は、練習が進むにつれて、ピアノの前の
メンデルスゾーンの指揮のもとで更に増大した。3月6日以降オーケストラと共に練習が行わ
れ、ゲネプロは演奏会の前夜に行われた。合唱団は 138 名の男女の歌い手から構成されていた。
(37 名のソプラノ、26 名のアルト、34 名のテノール、41 名のバス)。独唱者は、ハインリヒ・シュ
トューマー Heinrich Stümer(エヴァンゲリスト Evangelist)
、エードゥアルト・デフリエント
Eduard Devrient(キリスト Christus)。カール・アダム・バーダー Carl Adam Bader(ペテロ
Petrus)
、ユリウス・エーバーガルト・ブーゾルト Julius Ebergard Busolt(司祭 Hohepriester
およびピラト Pilatus)、バス der Bassist ヴェプラー Weppler(ユダ Judas)
。更に加えて、ソ
プラノのアンナ・ミルダー・ハウプトマンとパウリーネ・フォン・シェッツェル、並びに、アル
トのアウグステ・テュルシュミットAuguste Türschmidt であった。オーケストラの主体は、リー
ツによって 1826 年に結成されたフィルハーモニー協会のアマチュアから構成されていた。王立
聖歌隊の構成員は、ボイス・トレーナーとして働いた。メンデルスゾーンは、ピアノの前でタク
17)
トを持って指揮をした。彼は、レチタティーヴォもピアノで伴奏した。
王立聖歌隊 18)の構成員は、ボイス・トレーナーとして働いているが、Knaben の表記はないので、
歌い手としての出演者は、成人男女とソリストたちであったことが推測される。
この上演の盛況に引き続き、3月 21 日と4月 17 日の2度の再演がベルリンで行われた。以来、ド
イツ各地で盛んに上演されるようになり、《マタイ受難曲》蘇演は、その後のジングアカデミーの活
動におけるバッハ復活の原動力となった。1750 年のバッハの死後、最初の《マタイ受難曲》演奏の
成功は、全ヨーロッパにおけるバッハ復興につながる重要な出来事であった。
4月 17 日の第3回目の公演では、ツェルター自身が指揮者を務めた。この日も大入り満員で、全
体的に聴衆にとってはよい公演であったが、ツェルターの指揮は散々なものであったらしく、フェー
リクスの姉ファニーは、手厳しい言葉でイギリスへ旅だったフェーリクスへ手紙を書き送っている。
上演が終わった時、大勢の仲間が私めがけてやってきて、あなた(フェーリクス)がいないと
だめだと言いました。バーダーとシュトューマー先生が先頭にいました。シュトューマーはとて
も私を思いやってくれて、やはり今日はとても変なお気持ちだったでしょうと言いました。それ
《マタイ受難曲》ライプツィヒ蘇演と少年合唱
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に対して私は彼に最大の賛辞を送りました。というのも彼は本当に賛嘆すべき歌いぶりだったか
らです。ツェルターがあんなに頻繁に伴奏を間違え、まったく違ったハーモニーへ導いたのに、
どうしてシュトューマーがうろたえずにいられたのか。リーツも奇跡を行いました。なぜなら
ツェルターは気がついた時しか指揮をせず、指揮棒を取るのが間に合わなかった時には手で指揮
をし、そしてそれさえも忘れた時でも、合唱はひとりでに進んでいったからです。ただ全体的に
19)
聴衆にとってはよい公演でした。
この頃すでに、ツェルターとフェーリクスの師弟関係に変化が起きていたことが窺える手紙である
が、《マタイ受難曲》蘇演におけるツェルターの功績について、ハードは、次のように述べている。
19 世紀の初頭、バッハに対する興味が深まり始めた。1802 年には、フォルケルの偉大な伝記
が出版され、それ以後2、3の勇敢なロンドンの出版者が何曲かの鍵盤音楽を出版するように
なった。おそらく、もっともたいせつなことは、バッハの直弟子たちの教えを受けた音楽家とい
う、興味ある生きた鎖が、なお存続していたということであろう、そのような音楽家のひとりが、
カール・ツェルターであり、彼は 1739 年から 1741 年までバッハに学んだヨハン・キルンベルガー
20)
の弟子であった。
キルンベルガー Johann Philipp Kirnberger(1721 ~ 1783)は、バッハの弟子であった。ライプ
ツィヒ聖トーマス教会で初演された《マタイ受難曲》の蘇演は、100 年後のベルリンにおいてであっ
たが、その 100 年という年月の間に、ツェルターにはバッハから存続する師弟関係があり、ツェルター
とフェーリクスの間にもまた、師弟関係があった。
ツェルターは、石工の息子として生まれ、17 歳までヨアヒムスタールのギムナジウムに通ったが、
父の職業である石工の職業を習得するため見習い修行に入らなければならなかった。しかし、音楽を
学びたいという欲求は止むことなく、父の反対や楽譜の不足という不如意な境遇においても音楽の勉
強を続けるための努力を怠らなかった。自身の手による『短い履歴書』の中では、以下のように述べ
ている。
私は学問的な音楽家たちに知り合いがいないので、ある時は友達によって、ある時には智恵を
使って総譜を手に入れ、それを書き写した。私が最初すぐ、C. P. E. バッハとハッセのいくつか
の総譜を得たことは、とても幸運だった。この巨匠の研究を通して、私は最初に優れた芸術作品
の2つの重要な特質――秩序と統一を知るようになった。私は、それによって私の考えに軽やか
さを、そして私の中声に、幾つかの流れを与えるべきある種の熟練を手に入れた。21)
更に、下記のような記述からは、後に《マタイ受難曲》蘇演に結びつくバッハへの信奉が伝わって
くるものである。
私の手本であるバッハとハッセは、私の神だった。私は彼らに祈り、彼らに対して仕事をし、
22)
そして私は苦しみもした。私は彼らによって自分を慰めた。
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ツェルターは、《マタイ受難曲》の総譜をジングアカデミーの図書室に保管しており、部分的に試
演したことがあり、その難しさを知っていた。蘇演の計画に初めの段階で反対の意向を示していたの
は、難しさを知っていたためでもあった。フェーリクスもまた、家庭での個人的な演奏会で受難曲の
一部を試演していたが、フェーリクスの場合は逆に、是非とも上演したいという思いに繋がっていっ
たのであろう。このような生きた鎖の存在が、蘇演の計画を実現へと導いたのである。
(3)ツェルターとの決別
けれども、良好であった師弟関係は、《マタイ受難曲》ベルリン蘇演の頃には既に綻びを見せ始め
ていた。そして、《真夏の夜の夢序曲》の大成功によって、遂に崩れ去る。フェーリクスは一躍有名
となり、家族のものたちは、フェーリクスは自立した音楽活動を行うことができると確信していた。
この後の経緯をクッファーバーグは、下記のように記述している。
家族の者たちは、多くことばには出さなかったものの、もうフェーリクスが怒りっぽい老教師
の手を離れて、完全にひとり立ちして音楽活動が出来るようになっていると感じていた。この問
題は多分アブラハムが慎重に処理し、ともあれ話し合いがついて、ツェルターはそのまま留まる
ことになった。そして実際のところ、彼はその後8年間、フェーリクスの成功に対する賞賛を受
けながら、メンデルスゾーン家で余生をおくったのである。マルクスはいささか皮肉に述べてい
23)
る。「この老人は魚が泳ぐのを見て、その泳ぎ方を教えたのは自分だと思っている」。
周囲は師弟関係の崩壊に気づいていたが、ツェルターはフェーリクスの成功は自分の教えによると
いう自負を持ち続け、メンデルスゾーン家での生活を続けたのである。
フェーリクスとツェルターが関わるもう一つの大きな出来事は、ツェルター亡き後のジングアカデ
ミー次期監督の継承問題であった。1832 年、ロンドンで充実した音楽生活を送っていたフェーリク
スは、ツェルターの訃報を受け取った。フェーリクスの両親と姉のファニーは、フェーリクスがジン
グアカデミー監督の地位に応募することを願っていた。フェーリクスがベルリンで自分たちの側にい
つもいられること、何か公的な地位に就いていること、尊敬に値する経歴を持っていることなどを望
んでいたからである。また、フェーリクスこそジングアカデミーの指揮者の地位に相応しく、《マタ
イ受難曲》の蘇演など、充分な功績も持っており、ツェルター亡き後、ほかの誰が適任の後継者とな
り得るだろうかとも考えていた。
フェーリクスは、気が進まないまま公式に志願したが、採決の結果は 54 歳のルンゲンハーゲンの
勝利であった。23 歳というフェーリクスの若すぎる年齢と、そのため生じる経験不足、長期のベル
リン不在、そして何よりも議論の対象となったのは、彼がユダヤ人であるということであった。ルン
ゲンハーゲンが多数票を得て第3代目の音楽監督となったとき、フェーリクスの長年の友人であるデ
フリエントは、「この決定によって、ベルリン・ジングアカデミーは長年にわたって並の水準にとど
まることになった」24)と、記している。
フェーリクスには副指揮者の依頼があったが、丁重に断った。そしてこれを機に、ジングアカデミー
の最も熱心な後援者だったメンデルスゾーン一家は、ジングアカデミーから一切の手を引いたのであ
る。
《マタイ受難曲》ライプツィヒ蘇演と少年合唱
83
3.感情 Affekt と心の動き Emotion
(1)
《マタイ受難曲》ライプツィヒ蘇演
その後、メンデルスゾーンは、1835 年にライプツィヒのゲヴァントハウス管弦楽団の指揮者に就
任し、同年 10 月4日に第1回目の演奏会を行っている。そして、1841 年4月4日に、バッハによる
初演の地であるライプツィヒ聖トーマス教会で、《マタイ受難曲》の蘇演を行う。
《マタイ受難曲》ベルリン蘇演が歴史的、劇的演奏であると大きく取り上げられているのに比べる
と、ライプツィヒ蘇演は、バッハによる初演の地であるにも拘わらず、注目度が低いのであるが(メ
ンデルスゾーンの伝記においてさえ、記述のないものが見受けられる)、
「作曲者による初演が行われ
た聖トーマス教会での蘇演」という大きな意味を持つものと考える。
ベルリンでの蘇演に際してメンデルスゾーンは、2つのアルトのアリアと1つのアルトのレチタ
ティーヴォをソプラノ声部に変え、幾つかのレチタティーヴォやアリア、コラールを省略した。また、
第 62 曲追悼のコラールをア・カペラにし、第 63 曲 a 福音書記者のレチタティーヴォ「神殿の幕が上
から下まで真っ二つに裂けた」25)の、通奏低音のパートを弦のユニゾンに拡大するなどの改訂を行っ
た。100 年も前の音楽を演奏するにあたり、楽譜からでは演奏方法に不明な点が多かったことや、当
時の音楽様式とは全く異なる音楽に聴衆たちが共感を持つかどうか疑わしく、更に上演時間の長さに
耐え得ないのではないかということなどが、懸念されたからである。メンデルスゾーンは、非難も受
けたが、彼の目的は楽譜の学問的再生ではなく、当時の聴衆に対して《マタイ受難曲》という作品を
生き生きと蘇らせ、バッハの偉大さを人々に知らしめるところにあった。
改訂は、必要とする最小限のカットからなり、およそ3分の2のアリアが省略され、残ったアッコ
ンパニャートが、削除されたアリアの代わりになった。ライプツィヒ蘇演においては、ベルリンでは
カットされた4つのアリア、「血を流されるがいい」、
「私のイエスを返してくれ」、「愛の御心から救
い主は死のうとされています」
、そして、「私の心よ、おのれを清めよ」
、並びに、コラール「誰があ
なたをこんなに打ったのですか」を再び付け加えた。また、メンデルスゾーンが 1829 年にベルリン
で、ピアノフォルテで伴奏したセッコ・レチタティーヴォは、1841 年には、重音で演奏する2本のチェ
ロと1本のコントラバスによって演奏された。
演奏会の開催は、「ライプツィヒ公共新聞」において、メンデルスゾーン自身によって、次のよう
に予告された。
このように多くの他のドイツの都市で深い感銘を引き起こしたこの名作は、ここでは、作曲家
の没後聴くことはなかった。このために、ふさわしいやり方でこの作品を甦らせるために、ソリ
スト、合唱団、そして楽器のパートを受け持つための優れた才能の持ち主たちが、共演を快く承
26)
諾した。二つのオーケストラは、オルガンによって強化される。
ライプツィヒにおける改訂の意味をシュペーリングは、次のように記述している。
ヨーハン・ゼバスティアン・バッハの時代に、感情の変化の箇所であったレチタティーヴォは、
メンデルスゾーンにおいては、人間的な心の動きの表現の箇所となった。バッハにおいては、心
の動きは、いつも、いわば、規範化された音型論の結果から生じた。19 世紀に「作曲」のこの
井 上 博 子
84
知的な観点は失われた。メンデルスゾーンは、心の動きの中身として感情を認識した。そして、
これを高めるための音楽的手段を探した。演奏上の強弱の指示を強く与えられた肉と血からなる
一人の人間としてのキリストを形作っているキリストの言葉は、このようにのみ理解されるべき
である。1829年の上演で用いられた台本が現存するが、そこではアリアとアッコンパニャートは、
全体として「ひとつの声部」へと上書きされた。バッハにおいては、先行するレチタティーヴォ
によって描写された感情の主観的な深化としてアリアが用いられたとすれば、それらはメンデル
スゾーンにおいて人間的な感情の客観化する鏡として理解すべきである。それがまたコラールと
27)
アリアに数少ない例外を除いて強弱記号を一つもつけなかった理由である。
メンデルスゾーンが求めたのはロマン派のスタイルであり、その意図は、劇的な対比を強調し、感
情を高めるための音楽的手段を探すことにあった。それが、「ふさわしいやり方」で作品を甦らせる
ことであった。メンデルスゾーンが総譜に書き込んだ強弱記号や発想記号、速度記号、テンポの変化
などの演奏指示は、劇的な演奏効果を求めるためのものであった。
(2)コラールにおける少年合唱の変遷
蘇演における改訂のねらいの一つが、「劇的な対比や情熱的な感情表現の強調」にあったとするな
らば、《マタイ受難曲》の演奏において、現在我々がよく見聴きする第1曲目と第 29 曲目のコラール
を少年合唱が受け持つ形態は効果的であると言えよう。聖トーマス教会 800 周年記念公演においても
1曲目と 29 曲目のコラールを少年たちが受け持っており、ベルリンフィルのサイモン・ラトル指揮
による DVD《マタイ受難曲》28)もまた、ベルリン大聖堂聖歌隊の少年たちが歌っている。
礒山雅は、第1曲のコラールの重要性を次のように記述している。
このコラールは二群の合唱の報告する出来事が人間の罪を代わりに背負っての行為、すなわち
「贖罪」であることを明らかにしている。そればかりではない。その行為の主がほかならぬイエ
スであることも、コラールはその最後にはじめて明らかにする。コラールにはすなわち、真理の
開示にあたる高い役割が委ねられているのである。
バッハはこのコラールの重要性を、自筆総譜の中で、視覚的に明示しようとした。コラール旋
律は、二つのオルガン・パートの上声部にあらわれる。バッハはその音符を、赤インクを使って、
周囲から際立たせているのである。この扱いは、以後の楽曲において聖句が受けてゆくものであ
るから、ここでコラールの音符は、聖句に匹敵する重さを与えられていることになる。従って演
奏の際にも、コラールが他の要素に対してもつ質的な差異を、聴き手が認識できるようにする必
29)
要がある。
バッハの時代には、リピエーノは追加されたボーイ・ソプラノによって歌われたものと思われるが、
メンデルスゾーンのライプツィヒ版の CD では、ソプラノ・アルトを女声が受け持ち、1曲目と 29 曲
目のコラールをソリストたちが歌っている。ソリストたちが歌うことによって、コラールを際立たせ
ているのである。けれども現在、我々がよく聴くものは、第1曲のコラールを少年合唱が歌っている
ものが多い。このようにコラールの歌い手が変遷しているのであるが、以下に、いつの頃からどのよ
《マタイ受難曲》ライプツィヒ蘇演と少年合唱
85
うな経緯で、このような変遷を辿るに至ったのかを推察する。
聖トーマス教会合唱団によって行われた前述の 800 周年記念演奏会におけるただ一人の女性演奏者
はソプラノのウーテ・ゼルビヒ Ute Selbig である。聖トーマス教会創立 800 周年記念演奏会ライヴで
ある輸入盤 DVD《マタイ受難曲》30)もまた、ソプラノのクリスティーネ・ランツハーマー Christine
Landshamer 以外は、歌い手は全て成人男性と少年である。女声がソプラノソロを受け持つことに関
して、現在のカントルであるゲオルク・クリストフ・ビラー Georg Christoph Biller(1955 ~)は、
次のように語っている。
バッハの時代に倣って、今回の日本ツァーでの《マタイ受難曲》も最初はソロ・ソプラノにボー
イ・ソプラノを起用しようと考えたのですが、ホールが大きいことやこのパートの技術的な難度
から判断して、ソリストのウーテ・ゼルビヒに歌ってもらうことになりました。アルトのソロに
関しては、アルトゥス(カウンターテナー)のシュテファン・カーレが歌います。彼は昨年夏ま
31)
でトマーナーコーアのメンバーで、ソロパートの歌唱も素晴らしいものがありました。
ビラーは、ソロ・ソプラノをボーイ・ソプラノに受け持たせたいと考えていたが、ホールの大きさ
や歌唱に関わる技術的難易度を考慮した結果、成人女性とした。つまり、言い換えれば、指揮者の判
断により演奏者や演奏形態は、柔軟に対応することができるのである。
19 世紀に世界初の混声合唱団であるベルリン・ジングアカデミーが《マタイ受難曲》蘇演に際し
てソプラノ、アルトを女声が担当するようになった時にもやはり、冒頭のコラールを劇的に際だたせ
るために、バッハの時代には追加されたボーイ・ソプラノが歌っていた箇所を、ソリストたちが歌え
ば、異なる音質でコラールを表現することが出来ると考えられたのであろう。そうすることで、効果
を高めることが出来ると考えられ、ソリストたちが起用されたのであろう。ヴィンクラーは、導入の
合唱、
「おお、神の子羊、罪なくして」のコラールについて、次のように述べている。
既に2度目のベルリン上演では、ソリストが歌い、そして、フルートとオーボエが主声部のリ
ズムやテンポ、声に従って伴奏したコラール「おお、神の子羊、罪なくして」が、導入合唱にお
32)
いて、オルガンの響きの印象を生じさせるために、2本のクラリネットによって強化された。
メンデルスゾーンのこの編曲からもコラール旋律を強調する方策の一つを見て取ることができる。
しかしながら、ソリストたちがコラールを受け持つこの演奏形態は継続されることなく、現在は少年
たちが受け持つ形態へと変化している。つまり、メンデルスゾーンが女声に合唱ソプラノを歌わせ、
「リピエーノ」にソリストを用いたことが後に少年合唱を起用する慣習へと繋がったと考えられる。
バッハの時代に倣って冒頭のコラールをボーイ・ソプラノが歌えば、他の声部とは異なる音質で劇的、
且つ、清らかさの象徴としてコラールを表現することができるという考え方がいつの頃からか主流と
なっている。つまり、コラールにおけるボーイ・ソプラノは大きな効果をあげることができると考え
られたのである。コラールの歌い手が変遷するという事柄は、メンデルスゾーンによる復活上演が
きっかけであったと言えよう。
女声が加わるという、バッハの時代とは大きく異なる混声合唱による《マタイ受難曲》の演奏にお
井 上 博 子
86
いて、第1曲目のコラールと、第 29 曲目のコラールのために少年合唱を起用するという試みは画期
的なことであったに違いない。メンデルスゾーンの蘇演を間接的な契機として、少年合唱の位置が変
わったのである。ここに少年合唱の役割の変遷の一例を見ることが出来る。
それでは、1841 年のライプツィヒ蘇演の時のソリストによるコラール演奏以来、どの時点から少
年による演奏が主流となってきたのかを考える時、少年合唱がコラールを受け持つにあたっては、以
下のような幾つかの条件が整わなければならないということが、まず、あげられる。
①演奏に際して、求められる年齢層(ボーイソプラノ)の少年団員と、必要とされる人数を確保す
ることができる少年合唱団が、参加可能な地域内に存在すること。
②その少年合唱団が《マタイ受難曲》のコラール演奏に関して、求められる水準の演奏ができるこ
と。
③演奏の時間帯に出演が可能であり、更に、何度かの合同練習に参加・出席が可能であること。
などである。このような条件に当てはまる少年合唱団が存在した時に初めて、少年合唱によるコラー
ル演奏は可能となる。従って、近隣に少年合唱団が存在しない場合には、この形態で演奏することは
できない。
このような条件が満たされたとして、今までに録音されたレコード/ CD / DVD を辿ってみると、
最近のものでは、前述の聖トーマス教会合唱団&ゲヴァントハウス管弦楽団による聖トーマス教会の
少年合唱によるものや、サイモン・ラトル指揮ベルリンフィルによる演奏とピーター・セラーズ演出
のベルリン大聖堂聖歌隊によるものがあるが、磯山雅『マタイ受難曲』によれば、最古の全曲録音と
いう 1935 年4月 19 日に LP 化されているハンス・ヴァイスバッハ指揮、ライプツィヒ放送交響楽団、
ライプツィヒ大学カントライ、同マドリガル・クライス演奏によるものには、ペトロ学校少年合唱団
が演奏者として掲載されている。33)
1935 年には既に、少年合唱のコラール演奏による録音が行われていたわけであるから、実演にお
いては、もっと早い時期から少年によるコラール演奏は行われていたと考えられる。1829 年のベル
リン蘇演がきっかけとなり、以後ドイツ各地で《マタイ受難曲》の演奏が行われるようになった。ヴィ
ンクラーによれば、「1841 年4月4日、枝の主日にライプツィヒのトーマス教会において、この受難
曲の蘇縁が、その初演の地で開催された。それによって、毎年再演される伝統が確立された」34)とあ
るので、この地で《マタイ受難曲》を毎年再演する過程で、聖トーマス教会合唱団のような少年聖歌
隊を要請して始まり、ベルリン大聖堂聖歌隊を擁するベルリンのような地においても同様の経過を
辿ったのではないかと考えられる。そして、女声とは異なるソプラノによるコラールの響きの効果を
体感することにより、現在のような演奏形態が、新たな伝統として広まっていったのであろう。
前述のベルリン大聖堂聖歌隊、聖トーマス教会合唱団だけではなく、ドイツにおいては他にも、ミュ
ンヒェン少年合唱団、シュトゥットガルト少年聖歌隊、レーゲンスブルク大聖堂聖歌隊、ハノーファー
少年合唱団、ドレスデン教会少年合唱団、テルツ少年合唱団など多くの少年合唱団が《マタイ受難曲》
のコラールの演奏に関わっているのであるが、数あるマタイ受難曲演奏の中でもテルツ少年合唱団の
演奏は特に評価が高い。グスタフ・レオンハルト指揮、ラ・プティト・バンドとその男声合唱団、テ
ルツ少年合唱団の演奏による録音は、ソリストも全員テルツ少年合唱団の団員である。礒山は、第8
曲アリア「血を流されるがいい」《ソプラノⅡ》の「いくつかの演奏」において、下記のように記述
している。
《マタイ受難曲》ライプツィヒ蘇演と少年合唱
87
古楽系統の歌い手は、シュワルツコップのような厚化粧をせず、みなまっすぐな声で、透明に
歌う。その意味で素晴らしいのは、レオンハルトの CD で歌っているテルツ少年合唱団の子供だ。
35)
その歌は伸びやかで正確、歌心にあふれており、大した少年がいるものだと感心させられる。
更に、「古楽器による《マタイ》のもっとも純粋なイメージはどういうものかと尋ねられたら、私
はこのレオンハルト盤のようなものだと答えたい」36)と重ねて述べている。
このように、
《マタイ受難曲》のコラール演奏において、音楽的効果を高めている少年合唱であるが、
要請できる範囲内に少年合唱団が存在しない場合、音の高さは同じであるからと、女声合唱や少女合
唱団による演奏をもって代替されることも多く、それは指揮者の判断に委ねられているのである。
終わりに
メンデルスゾーンのロマン主義的演奏解釈によって、《マタイ受難曲》は成功を収め、ベルリンや
ライプツィヒのみならず、ドイツ全土に広まった。その間にソリストたちが歌っていたコラールを少
年合唱が受け持つという変遷を辿ったが、現在、この少年たちが歌う形態で多く演奏されているのは、
少年合唱が人々に広く受容されていることに他ならない。メンデルスゾーンによる《マタイ受難曲》
の蘇演は、女声を含む混声合唱による宗教曲の演奏だけではなく、逆説的な形で、少年合唱の可能性
を示唆したと言えよう。
《マタイ受難曲》蘇演に大きく関わった師ツェルターは、ベルリンの音楽教育の分野においては、
教会音楽研究所の礎を築くという重要な業績をもまた残しているのであるが、教会音楽研究所の
学生であったシュレージエン人のオルガニスト、カール・ゴットリープ・フロイデンベルク Karl
Gottlieb Freundenberg 37)の回想録は、研究所設立時の様子を率直に伝えている。フロイデンベルク
は 1823 年に、ブレスラウに滞在していたシュルツの仲介によって教会音楽研究所へ入学できること
となったのであるが、ツェルターは、受け入れの際に彼に以下のように話した。
私は、田舎から私に送られた多くの生徒に、多くの力と時間を費やした。あらゆる才能を備
えたフェーリクス(メンデルスゾーンのこと)のような生徒は、ここにはいない。[……]まず、
あなたは自分をじっと見なさい、徒弟や職人のようなあなたが、親方どころか全くの芸術家とし
て振る舞う前に。私は、石工の親方として同じような段階を通過しなければならないのです。38)
前述のようにツェルターは、フェーリクス・メンデルスゾーンを高く評価し、ツェルターとフェー
リクスの師弟関係は、これ以上はないという理想的なものであったが、田舎から来た朴訥な生徒たち
の存在については、石工の息子として育ち、1783 年に石工の認定証 Meisterbrief を得ていた自分自
身を石工の親方に例えて、自分の力と時間を奪うものとして、冷ややかな侮蔑の眼差しで捉えていた。
傲慢で独善的な面も持つツェルターであったが、構想から実現まで長期間を要した教会音楽研究所
の創立により、学術的影響を与えるツェルターの音楽育成の理念は整理され、制度化されて、プロイ
センにおける教会と学校において実現した。1832 年の彼の死までの 10 年間、ツェルターは研究所を
監督し、その統制権を握っていた。現在、教会音楽研究所は、ベルリン大聖堂聖歌隊の拠点の地となっ
ている。
井 上 博 子
88
ツェルターの指導原理の一つは、「芸術の技術は、本来、早い時期に、きちんと熟練されなければ
ならない」39)というものであった。それゆえに、フェーリクス 11 歳、マイアーベーア 14 歳という、
少年の年齢の時期から、ジングアカデミーの団員として受け入れたのであろう。
現在のベルリン・ジングアカデミー公式ホームページトップには、ツェルターの言葉
いずれの見知らぬ人も、そして、いずれのやってきた仲間も、美徳が留まっているその中に、
何かを見つける。あらゆる階級、年齢、職業の多様性、そこには、感情による分け隔てはない。
倦むことなく美しい芸術を楽しむこと。ひとつの花園のようなありとあらゆる人々の混合 40)
が、掲載されている。歴代 10 人の音楽監督の中から選ばれてツェルターのこの言葉が掲載されてい
ることに、ツェルターがベルリン・ジングアカデミーの礎として残した功績の大きさを窺い知ること
ができる。その言動は強い信念に裏付けられたものであった。
1)Johann Sebastian Bach: Matthäus-Passion. Version Leipzig 1841 Mendelssohn Bartholdy.
Christoph Spering (Dir.): Das Neue Orchester, Chorus Musicus. France, 1992. CD 解説書 S. 7.
2)Spering: Ebd. S. 10.
3)以下の歴史と概要は下記の文献等を参照して執筆した。
Christian Filips (Hg.): Der Singemeister Carl Friedrich Zelter. Mainz: Schott Music, 2009.
Gottfried Eberle und Michael Rautenberg: Die Sing-Akademie zu Berlin und ihre Direktoren.
Berlin: Preußischer Kulturbesitz 1998.
Gottfried Eberle: 200 Jahre Sing-Akademie zu Berlin: „ein Kunstverein für die heilige Musik‟.
Berlin: Nicolai 1991.
Werner Bollert (Hg.): Sing-Akademie zu Berlin: Festschrift zum 175-jährigen Bestehen. Berlin:
Rembrandt Verlag 1966.
Ferdinand Graf Zeppelin: Die Eroberung der Luft: ein Vortrag gehalten im Saale der SingAkademie zu Berlin am 25. Januar 1908. Stuttgart: Deutsche Verlags-Anstalt 1908.
ベルリン・ジングアカデミー公式ホームページ http://www.sing-akademie.de/
4)Christian Filips (Hg.): Der Singemeister Carl Friedrich Zelter. Mainz: Schott Music, 2009. S. 96.
5)ヴォルプス、ハンス・クリストフ『大作曲家メンデルスゾーン』尾山真弓訳、音楽之友社、1999 年、
pp. 21-22.
6)同上、p. 21.
7)同上、p. 34.
8)ハード、マイケル『メンデルスゾーン』藤原怜子訳、野村良男監修、全音楽譜出版社、1974 年、p. 5.
9)クッファーバーグ、ハーバート『メンデルスゾーン家の人々』横溝亮一訳、東京創元社、1985 年、p.
157.
10)同上、p. 157.
11)Filips: Ebd. S. 98.
12)Filips: Ebd. S. 100.
13)ハード前掲書、p. 5.
《マタイ受難曲》ライプツィヒ蘇演と少年合唱
89
14)同上、p. 10.
15)Filips: Ebd. S. 97.
16)ヴォルプス前掲書、p. 32.
17)Klaus Winkler: Felix Mendelssohn Bartholdys Versionen der Bachschen Matthäus-Passion, in:
Musik & Liturgie 134. 2009. S. 12.
18) ベ ル リ ン 王 立 王 宮 聖 歌 隊 Königlichen Hof- und Domchor は、1923 年 に ベ ル リ ン 大 聖 堂 聖 歌 隊
Staats- und Domchor Berlin の称号を受け取っている。
Peter Hahn: Staats- und Domchor Berlin. Badenweiler: Oase Verlag 2004. S. 49.
19)山下剛『もう一人のメンデルスゾーン』未知谷、2006 年、pp. 86-87.
20)ハード前掲書、p. 18.
21)Filips: Ebd. S. 9.
22)Filips: Ebd. S. 9.
23)クッファーバーグ前掲書、p. 182.
マルクスは、Friedrich Heinrich Adolf Bernhard Marx(1795.3.15. ハレ~ 1866.5.17. ベルリン)
ドイツの作曲家・音楽理論家・音楽評論家
24)ヴォルプス前掲書、p. 62.
25)以下歌詞の訳は、磯山雅『マタイ受難曲』、東京書籍、1994 年による。
26)Winkler: Ebd, S.13.
27)Spering: Ebd. S. 8f.
28)Johann Sebastian Bach: Matthäus-Passion. Sir Simon Rattle (Dir.): Berliner Philharmoniker,
Knaben des Staats- und Domchors Berlin. Berliner Philharmoniker, 2010.
29)磯山雅『マタイ受難曲』、東京書籍、1994 年、pp. 134-135.
30)Johann Sebastian Bach: Matthäus-Passion. Georg Christoph Biller (Dir.): Thomanerchor
Leipzig, Gewandhausorchester Leipzig. Accentus Musik, 2012.
31)ザ・シンフォニーホール The Symphony Hall 公式ホームページ公演情報
http://asahi.co.jp/symphony/event/detail.php?id=1458、2013.10.25. 取得
32)Winkler: Ebd. S. 18.
33)磯山前掲書、p. 445.
34)Winkler: Ebd. S. 12.
35)磯山前掲書、p. 193.
36)同上、p. 481.
37)Karl Gottlieb Freundenberg(1777.1.15. シュレージエン~ 1869.4.13. ブレスラウ)オルガニスト
38)Filips: Ebd. S. 122.
39)Filips: Ebd. S. 123.
40)http://www.sing-akademie.de/
井 上 博 子
90
..
Die Wiederaufführung der Matthaus-Passion
in der Leipziger Version und die Rolle des Knabenchors
――Anhand der Beziehungen zwischen Zelter und Mendelssohn――
Hiroko Inoue
Heutzutage werden in der Matthäus-Passion Nr. 1 und Nr. 29 die Choräle allgemein von
Knabenchören gesungen. Aber in der Wiederaufführung in Berlin (1829) und Leipzig
(1841) wurden diese Choräle von Solisten gesungen. Diesen Chorälen wird eine große Rolle
zugeschrieben. Bach hat in der Partitur deutliche Zeichen mit roter Tinte vermerkt. Wenn die
Choräle gespielt werden, muss der Hörer also einen qualitativen Unterschied zwischen dem
Choral und den anderen Elementen erkennen können. Heutzutage jedoch wird er nicht von
Solisten, sondern von Knaben gesungen. Diese Musikform, bei der Solisten singen, hat sich
nicht fortgesetzt. Choral-Sänger haben sich gewandelt. Nach dem Vorbild der Bach-Zeit werden
die Stimmen anderer Qualität dramatisch ausgedrückt, wenn Knaben den Choral am Anfang
singen. Diese Denkweise, nach der die Knabenstimmen den Choral als ein Symbol der Reinheit
ausdrücken, hat sich allgemein durchgesetzt. Wenn eine Bedeutsamkeit der Leipziger Version
in den dramatischen Kontrasten und im emotionalen Ausdruck liegt, ist die Musikform, bei der
die Knaben Choral Nr. 1 und Nr. 29 singen, wirksam. Durch die romantische Interpretation von
Mendelssohn wurde die Matthäus-Passion ein Erfolg, nicht nur in Berlin und Leipzig, sondern
in ganz Deutschland. In der Folgezeit übernahmen verstärkt Knabenchöre die bisher von
Solisten gesungenen Teile. Mit anderen Worten, hier sehen wir ein Beispiel für den Wandel des
Stellenwerts der Knabenchöre. Diese Abhandlung erforscht das Verhältnis zwischen dem Schüler
Felix und dem Lehrer Zelter, und fragt nach den Beziehungen zwischen der Leipziger Version
und dem Knabenchor.
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