...

Title 支配原理としての中世ローマ教皇制 : 胚種と着生 Author 鷲見, 誠一

by user

on
Category: Documents
0

views

Report

Comments

Transcript

Title 支配原理としての中世ローマ教皇制 : 胚種と着生 Author 鷲見, 誠一
支配原理としての中世ローマ教皇制
誠
一一
支配原理としての中世ローマ教皇制
ー胚種と着生1
はじめに1問題の所在
教会論
グレゴリウス改革
教皇の権威と権力
おわりにー後代への展開
一章 はじめに
見
与する権利を有する﹂という前提が暗黙に存在していることを知るであろう.中世・ーマ・カトリック教会は、その
会の統治は世俗権力の専管事項ではなく、・ーマ・カトリック教会とその首長である教皇もなんらかの形で統治に参
ヨーロッパ中世の政治思想.政治史.教会法に関する概説書あるいは専門研究論文を読む人は、そこに.﹁世俗社
鷲
思想においても構造においても強固にかつまた深く政治化された宗教教義を有していたわけである.換言すれば、そ
1
五四三二一
章章章章章
法学研究62巻10号(’89:10)
の神学は構成する教義の一部に政治的なるものを不可欠の要素として内在させていたというべきであろう。政治神学
の成立である。中世史の現実においては、・ーマ教会の政治化とキリスト教教義の政治化、あるいはまた世俗統治体
のキリスト教化と統治理論のキリスト教化が現象としてわれわれの目に観えるのである。
右のごとき諸々の現象や教説を、中世政治思想史・法思想史の泰斗・ワルター・ウルマソやその弟子・ブライア
ソ・ティアニーは当然のこととして自己の研究を進めたし、また進めている。しかし研究対象や方法を異にするシェ
ルドン・ウォーリンはその著﹁政治とヴィジョソ﹂においてこの当然視された前提を見事にえぐり出し、その政治思
︵1︶
想史上の意義を明らかにしたのである。いわば彼は盲点を突いたといえよう。
ウォーリンによれば、キリスト教の政治観に関する多くの論究はキリスト教が政治には汚されていない運動である
とするキリスト教それ自身の主張を受容することから始まり、そのおもむくところある種のへーゲル的な解釈にいた
るのである。つまり、キリスト教という新しい宗教と政治秩序の間に横たわる多くの接触は弁証法的対立とみなされ、
︵2︶
ここでは純政治的テーゼは純宗教的アンティテーゼと出会うとされるのである.そして更に、この考えに基づくと、
中世政治は﹁世俗的﹂と﹁霊的﹂、﹁自然﹂と﹁恩恵﹂、﹁信仰﹂と﹁理性﹂、﹁帝国﹂と﹁教会﹂という一連の対立概念
によって把握され、中世の人々が政治的事項と霊的事項を峻別し、その結果として人々の理論と行動において二つの
対照的な領域が形成され、二領域は平行して存在したと考えられてきた.
右のごとき考え方に対してウォーリンは以下のごとくに自説を展開する。新約聖書の中のパウ・書簡や原始キリス
ト教会の人々の信仰に横濫していた終末論によって最初期のキリスト教徒は現世の政治・社会の諸問題に冷淡であっ
た。しかしやがて、キリスト教は信仰者共同体という次元と形態において社会形成の原理を創造し、自らの神秘的共
同体を構築した。この共同体は自ら統治構造を有するようになり、教会︵エクレシァ︶となった.キリスト教は共同社
会についての新しい力に満ちた理想を創出し、人々に共同社会への参入に意味と情熱を与えることになったのである.
2
支配原理としての中世ローマ教皇制
この点でキリスト教は、ヘレニズム時代と古代・ーマの思想家・哲学者が失敗した問題において成功したのである
1政治価値の追求が主目標でなかったにもかかわらず、である。以後、教会は行動と言語において政治化し、宗教
目標を追求する際にも教会指導者は政治的行動様式と政治的思考方法を取り入れることを強いられた.これは、教会
内において秩序の論理が優先されるようになったことを意味し、教会の質がキリスト教徒の自発的な集団から形式的
な法的・政治的社会に転換し始めたことを意味する。これと平行して当然のことながら、法的・政治的観念の多くが
神学の中へ吸収され活用されていったのである﹄このように教会内で制度化された秩序の必要性が強調されるように
なると、原始キリスト教時代に盛んであった終末論は薄められ、修正されるようになった.以上のごとき思想的特徴
は中世になれば更に体系化され洗練され、ローマ教皇の政治的権威と権力を主張する政治神学にまで昇華され、そし
てこれとは別の流れに属する哲学者であるトマス・アクィナスの哲学・神学体系の中にまで政治的観念が色濃く取り
込まれていったの で あ る 。
以上のごとき、キリスト教政治観に関するウォーリンの理解とパースペクティヴに、筆者は二、三点を除いて大筋
において同意したい。本稿においては筆者は、中世を通じて・ーマ教皇制がヨー官ッバ社会の中で支配原理として機
能したことに着目し、その支配原理となるべき思想的源泉がどのようなものであり、どのように展開されつつ社会に
内在化していったかを明らかにしたい。この問題は歴史的時間を画すれば五世紀から十一世紀の間に展開されたもの
ではあるが、歴史学として考察されるものではない.あくまで政治思想史の観点に限定して、この問題を扱うのが筆
者の意図であり、能力の限界というものであろう。そしてこの問題は教会史、教会法史、教義史において既知の事実
から成るものでありなんら新しい知見は無いのであるが、これら既知の事実を政治思想の観点から光を当て、政治思
想に即した意義を探ろうとするのが本稿の意図である.
筆者が・ーマ教皇制を支配原理として考察しようと考えているとはいえ、・ーマ教皇を首長とする中世・ーマ・カ
3
法学研究62巻10号(’89:10)
トリック教会が信仰者の共同体であったことは勿論のことである。そこには信仰の論理が情熱をもって主張され維持
されたことは歴史に照らして明らかである.しかしそれにもかかわらず、中世・ーマ教会が明確な法団体かつ政治団
体であり、現実世俗の中で政治・統治を行いあるいは行う正当性を主張したことも歴史に照らして明らかである.つ
まり、そこには政治の論理が通貫していたのである。この点に鑑みれば、本稿の意図は信仰の論理が何故に、どのよ
うに政治の論理に変質していったかを考察するものであると云えよう.
キリスト教はその最初期から信仰者共同体を形成してきた。この共同社会は当然のことながら形成原理を信仰から
導き出してきた.神の子・キリストが人類を愛し、人類救済のために刑死したのと同様に、信仰者共同体の構成員は
他の構成員と愛によって結びつけられ、彼らと兄弟・姉妹の関係のごとくに連帯しつつ同じ共同体に帰属した.共同
︵3︶
体︵エクレシア︶はキリストの身体と考えられ、キリストは頭とされ、人々は肢体部分とみなされた。ここにわれわれ
は、古典古代にポリスを表現する際に用いられたアナ・ジーである有機体説が借用されているのを観ることができる.
︵聖書に始まり古代キリスト教護教家たちが共同体を定義する際に古典古代の政治用語を用いたということは、他の
重要な観念にも政治用語・法用語を用いたことを傍証するものである.特定用語を用いたことはそれにまつわる思考
法も摂取したことを意味するのは云うまでもない︶。キリスト教は古典古代の有機体理念を用いるに当たり、新しい
︵4︶ 、
要素をつけ加えた.それは、古典古代文化からみれば神秘的で非理性的なものであった.つまり、神とキリストの二
者と同格の聖霊である。共同体、エクレシアに属する全ての者の上に聖霊は降り注がれ、人々はそれによって信仰に
目覚め、キリストを頭と仰ぎ、他の構成員を自らの兄弟、姉妹とみなし、そして共同体としてキリストの再臨と神の
国の出現すなわち終末を待望するのである.これこそキリスト教が成功し、古典古代の哲学・諸宗教が失敗した最重
要点すなわち人間の統合と連帯、社会の形成、秩序形成のエネルギーと方法の発明である.これはまた、ヨー・ッパ
の政治的文化の伝統に対してキリスト教が達成した意義でもある もっともその形成した社会と秩序はその初期に
4
支配原理としての中世ローマ教皇制
おいては全く非政治的なものではあったのだが.かくしてキリスト教は、権力とその執行者を必要とせずして、新し
い共同社会を創造した.共同社会の創造において、連帯感は兄弟愛から、統合の結集力は人類の救済者・キリストヘ
の信仰から、共同社会維持のエネルギーはキリストの再臨、神の国の出現を待望することから引き出すことができた.
以上の事柄を自覚して、古代のキリスト教徒は自分たちが世俗社会よりも純粋、高尚な目的を有する、自分たち固有
の社会を形成して い る と い う 自 負 を 抱 い て い た .
以後の歴史の流れの中においても右のごとき内容を有した側面をキリスト教の教会は有し続けてきたのである.こ
れを社会的・共同体的側面とでも呼ぼう.他方の側面は、組織的・強制的側面とでも呼ぼう.後者は、ヨー・ッパ各
地に散在していた諸教会のゆるやかな連合体であった﹁・ーマ教会﹂︵浮号欝寄目導暫︶を、合理的に組織化し、この
組織を運営する官僚︵この場合聖職者︶を有資格者に限定し、この聖職者の階層秩序︵馨Φ箆。§ヨ︶の頂点にローマ教
皇を置き、そしてこのローマ教皇を首長とする聖職者集団が支配する教会統治体なのであった.古代キリスト教にお
いてもこの側面が潜在したが、これが優勢となったのは中世なかんずくグレゴリウス改革以後のことであった.前述
のごとくウォーリソがキリスト教は成立当初から政治に対して親和性が存在したというのは、この意味においてであ
る。
ヨーロッパ中世政治思想の観点からみてローマ・カトリック教会の思想と行動に興味が湧くのは、前述の教会の二
重の性格、側面をローマ教会が維持しようとする際に生起する、調和と軋礫、均衡と波瀾である.pーマ教会は、右
の二側面のどちらを切り落しても、キリスト教カトリシズムとしては成立不可能なのである.そして本稿が対象とす
るのは言うまでもなく、組織的・強制的側面であり、殊にその胚種と着生なのである.
︵1︶ 曽。匡9¢≦&ダぎ執ミ8建良≦G。凡§︵08茜①ト一一Φづ鱒Oβ&戸お臼︶堕9碧堂句。ξも器巴5これには秀れた邦訳があ
る.尾形・福田・有賀訳﹁西欧政治思想史﹂︵H︶︵福村出版︶第四章.
5
法学研究62巻10号(’89:10)
ハ
) ) )
6
き蒙︶署。O?零●邦訳十六ー十七頁.
コリソトの信徒への手紙・一・十二章十二−三一節。
ローマの信徒への手紙・十二章四−八節。
二章 教会論
本質を内在しているのであり、この本質的二重性は中世教会論において基本的な重要性を帯びているのである。後代
組織された・具体的で・この世的なひとつの社会でもある.換言すれは、﹁キリストの身体﹂としての教会は二重の
らかにするところによれば、この一なる団体︵仁自ヨ8暮琶は霊的・サクラメント的・精神的団体であるのみならず、
でありそしてキリストを信ずる全ての信徒の団体的結合体︵8愚。曇Φ琶ゴ︶なのである。しかしまた、この教説が明
一章で触れたごとく教会は、バウロの教説において明確にされた限りにおいて、﹁キリストの身体﹂︵8愚垢9冨ε
区別が生じたのである。
叙品が必要であった。同じ教会の内に、叙品された者とされざる老の区別、即ち聖職者︵。一&邑と俗人︵一亀ヨ導︶の
すれぽ、これ以外の要素が必要であった.つまり、教会を統治・指導する権利と能力を確保するためには聖職叙任・
この構成員たることそのものは教会を統治する固有の資格を附与するものではなかった.すくなくとも教皇の側から
る教会構成員の資格づけほど基本的なものはなかったのである。教会の構成員は洗礼によって確保されたが、しかし
る以前から基本的に認識し得るものであった。これらの命題と原理の中で、教会の概念と教会を統治することのでき
在したのであるが、しかしこれらは、教皇︵冨冨︶という名称あるいは教皇制︵b碧暮岳︶という用語がつくり出され
論は一定の原理と命題の上に依拠していた。中世教皇政の歴史を一貫して、その命題の統一と原理の首尾一貫性が存
歴史家が教皇権威の成長を研究しようとする際、その間断なき連続性に強い印象を受けるであろう。教皇統治の理
432
支配原理としての中世・一マ教皇制
の教説で展開される語句に従がえば、﹁霊的なるもの﹂と﹁身体的なるもの﹂である.この具体的な団体を存在せし
めるに至る要素あるいは団体的実体を統一体とする要素は、キリスト教信仰という霊的要素である。この要素のみが
この団体に固有にして一定の様相を与えるのである.
ところで、﹁キリストの身体﹂なる教会は一つの団体として、指導と方向づけを必要とするのである。一般論とし
ても、一つの団体が多くの人々によって構成されるとはいえ、団体内の全ての人々が同一の機能を有するわけではな
い。団体としての教会の中にも、機能の多様性が存在する。そしてこれらの機能の中の或る特定の一つの機能が、キ
リスト教徒社会・教会の現実の統治に関わり、そして教会の基礎に横たわっている意図、その究極目標︵穿邑、目的
︵琶琶を現実化するようになるのである。ここで注意しなければならぬのは、一定社会・団体内の機能の多様性は水
平的な分業を意味するのであって、必ずしも階層性すなわち上下関係の分業化を意味するのでもなくそしてそれを生
み出すものでもないことである。それは原始キリスト教団に厳密なヒエラルヒーが存在しなかったことからでも明ら
かである。階層性は、統治に関わる機能が他の諸機能をつなぎ合わせ、そして団体の統一・調和を創造し維持しよう
とするための権威を主張し、他の諸機能がその権威を承認するところに成立する.この機能が中世・iマ教会ではロ
ーマ教皇であり、権威請求に用いられた言葉が﹁ペテロの代理﹂︵≦。畳臣零琶︶であり、﹁・ーマの首位性﹂︵冨鼠−
冨言の図o影導器89琶器︶である。
・ーマ帝政の後期に生きた聖アンブロジウスは、教会内における皇帝の役割について以下の如く既に四世紀に指摘
上に居るのではない﹂︵ヨ冨寅一8畳ヨ馨声8。一鐘§﹄8・唇声①8一鼠§婁。︶教皇レオ一世︵在位.濠?&一︶は皇帝マ
している。すなわち、皇帝は普遍的教会の息子なのであって主人ではない、と。﹁皇帝は教会の中に居るのであって、
︵1︶
ルキアヌスに書簡を送り、その内容によって後代の教皇たちに手がかりを与えたのである.その内容とは、キリスト
教徒の団体︵8壱琶はペテロヘの委任の上に基礎づけられているのであり、そしてこの団体の一構成員としての皇
7
法学研究62巻10号(’89:10)
帝の役割・機能は教会の保護である、という主張であった。
ヨーβッパ中世文化の創成期に多くの分野において影響を与えたセヴィリャのイシドールス︵五六〇年頃ー六三六年︶
に依れば、教会は﹁イエス・キリストの身体﹂︵Q。暮蓼魯巽Oぼ一昌︶である.この﹁身体﹂・団体︵8唇琶は、君公
たちがその中で機能しているところの多くの国々から成り立っている.一つの信仰によって互いに結びつけられた、
くにたみ
唯一の団体が存在し、そしてその結果、唯一の国︵周品暮窮︶が存在するのである。全ての国民の集合体が教会である.
教会を構成するのは﹁諸々の民の結合体﹂︵β三お透訂のαq窪彦琴︶である.われわれはここにおいて、教会というもの
︵2︶
が部族・種族・民族を越えて、包括的で普遍的なものであることを確認しておこう.
九世紀も半ば以後になると、全キリスト教徒の団体的統一体という観念は増々明確化されてきた.この団体を、教
皇ニコラウス一世︵在位・。。q。
o −雪︶は﹁信徒社会﹂︵弩糞器旨Φ言ヨ︶、教皇アドリアヌスニ世︵在位・・
。①下§は﹁神の
。 b。︶は﹁キリスト教国﹂︵誘琶暮S。訂響笹霊︶と呼んだ。彼らの理
民﹂︵宕冨富U8、教皇ヨハネス八世︵在位・。。﹃㌣。
解するところによれば、この団体は一定の輪郭のはっきりした具体的な社会なのである。これは人間の感覚によって
知られ得る見える教会であり、一つの統治体︵び&﹃旦§。︶なのである.そしてこれは、その基礎に横たわる前提か
らして普遍的存在であり、かつまたローマ教会から霊的生活に必要な活力を引き出しているキリスト教徒の全てを包
含するものなのである.
ヨハネス八世は自からの思考を展開することによって、教皇政的・ヒエロクラシー的命題を精緻化することに成功
した、教会史上、記憶に残さるべき教皇である.
ク ニ タ ミ
クニタミ カノラ
彼によれば、ローマ教会は世界の全ての国民に対する﹁首位権﹂︵冨量冨9ω︶を有しているのである.ローマ教会
は多くの国民を結びつける結合原理であり、彼らはローマ教会を自分たちの母としてそして首として認めるのである.
キリスト教世界の縮図としてのローマ教会の特徴は、ヨハネス八世によって様々な形で表現される.﹁神の全教会は
8
支配原理としての中世ローマ教皇制
︵3︶
余と共にある﹂︵①邑①塁U無聾器冨審のぎの婁●︶。従って、﹁キリスト教国﹂︵誘窟呂S。猛昌導暫︶はローマ教皇の配
慮に委ねられているのである.・ーマ教皇及び・ーマ教会の首位性は中世・ーマ教会の支配原理として極めて重要な
ものである故に別章でくわしく述べるとして、ここでわれわれが注目しておきたいのは、教皇の首位性を強調するこ
とは必然的に教皇を頂点とする聖職者制度・ヒエ官クラシーが思想パラダイムの中で重要な位置を占めていることを
意味することである.
ヨハネス八世は右の点で聖職者︵。醇琶、聖職者階級︵器8包&§︶の存在を強調することにやぶさかではなかった。
彼は、教会という概念が包含する二重の意味を完全に知っていた.﹁教会とは、信仰ある人々の集まりに外ならない
が、しかし特にこの名前によって聖職者が考えられるべきである﹂︵閤8一Φ器巳琶毘仁q婁冨陣b8巳塁盈窪の﹄8
︵4︶
胃器。甘奉。一①把ψ8霧9ξぎ。き巨堅︶、教会︵①8富芭という社会は聖職者︵。一零琶によって支配される必要があり、
そしてこの聖職者が時には教会と目されることもあり得るのである.教会という建物全体の基礎である信仰を定め置
くのは正に彼ら聖職者であり、そして彼らはこのようにすることによって教会という社会を指導する.何故なら、教
会を形成するために必要な結合紐帯が信仰という精神的要素でありそしてこれを正しく認識できるのは聖職者たちだ
からである.
右の厳密に狭義の教会概念と共に、ヨハネス八世によれば、教会は同時に広義の概念を有する。これは、﹁キリス
ト教国﹂︵嶺窟臣89冨菖導騨︶、﹁キリスト教社会﹂︵象冨欝翼琶と呼ぽれることもあり、そしてこれは一つの団体
︵ぴa網8暮。§①︶にして統治体︵ぴ。畠旦三。︶を形成するのである.これは云うなれば、地域的には西ヨー・ッパの、
信仰的にはラテソ・キリスト教の世界を指すものである。換言すれば、われわれが頭の中に描くところの、中世ロー
マ・カトリック主義が受け容れられている社会全体を指すものである.ヨハネスによれば、この社会全体が一つの団
体にして統治体なのである.団体であるためには人々を結合させる原理が必要であるが、それは信仰である.統治体
9
法学研究62巻10号(’89:10)
であるためには、支配する者︵単数であれ複数であれ︶とされる者が存在しこの上下関係が有機的に結びついていな
ければならぬ。前者が・ーマ教皇と聖職者集団であることは断わるまでもなかろう.しかも、この聖職者たちはその
機能・働きにおいて一定の資格を有すべきものとされていることは注目しておかねばならぬ。このようなヨハネス八
︵5︶
世の発想が,彼をして.教皇政的・ヒエ・クラシー的命題を発展せしめた中世の偉大な教皇の一人と評価させる源泉
なのであろう。
十一世紀中葉、グレゴリウス改革以前においても、社会における教会優位の思想は既に主張されていた。思想家・
教会高位聖職者として名高いフソベルトウスは、・ーマ教会の首位性を述べると共に、キリスト教信仰が行動規範で
鴨 、
ある社会すなわちキリスト教世界は﹁教会﹂︵①8一①墨︶であるとされた.かくして、本質的に神秘的で霊的な存在でも
ある、教会としての﹁キリストの身体﹂︵8唇50巨畳︶はこの世に現われた、具体的で有形なものと考えられるよう
︵6︶
になった。フソベルトウスにょれば、﹁われわれの皇帝﹂はキリストなのである。古代末期、ゲラシウスによって規
定された﹁世界﹂︵冒琶含の︶︵後述の予定︶はフンベルトウスによって﹁教会﹂に変えられ、﹁世界﹂の世俗的支配者す
なわちいわゆる皇帝は彼がキリスト教徒であることによって、この﹁教会﹂の単なる一部分を担う存在でしかないこ
とになった。
グレゴリウス改革を境にしてキリスト教世界はその様相を一変させた。この点は後述さるべきこととして、本章で
ヤ ヤ ヤ
はグレゴリウス七世の教会観のみに限定して触れてみよう。
十一世紀の五〇年代以後は、ヒエロクラシー教説の新しい発展を見ることはなく、むしろこれまでに伸展してきて
いた教説を現実社会に適用する時代あるいは実行する時代であるといえよう。このヒエロクラシー教説は中世ヨー・
ッパ世界に適用されることによって、教皇制の統治の基礎となった.以上の意味において、グレゴリウス七世︵在位・
10
支配原理としての中世ローマ教皇制
一ミ㌣。
。㎝︶はヒエ・クラシー教説を西ヨー・ッパ社会に定着させるべく努力したチャンピオソなのである.
グレゴリウス七世によれば、ヒエ・クラシー教説の本質は、全てのキリスト教徒を包摂する普遍的教会の概念、し
かも団体としての教会・統治体としての教会の概念である.これは、彼の用語法を用いるとすれば、﹁キリスト教社
会﹂︵の8糞器。年一畳導暫︶である。彼によれば、キリスト教徒は大勢集合するならば一つの団体を構成するのであり、
その構成されたものが﹁キリスト教社会﹂である。この団体の本質は信仰という霊的要素であるが、それにもかかわ
らずこの団体は真にこの世的なるものの多くを附属物として有するのである.そしてまた、この普遍的教会にして
﹁キリスト教社会﹂はわれわれが頭に描くところの西ヨー・ッパ地域の上に築かれているのである.
前述の如く、普遍的教会としての﹁キリスト教社会﹂はひとつの団体にして統治体でもある.それ故、この﹁キリ
スト教社会﹂は君主政原理に基づいて統治さるべき実体である。ここにおいては、・ーマ司教すなわち教皇の権威が
支配権を有するのである.グレゴリウス七世の主張するところによれば、この﹁キリスト教社会﹂の中においては、
立法者としての教皇の機能・上訴の裁定者としての教皇の機能は有効に妥当するのであり、教皇の命令は拘束力を有
するのである。この社会に対して、・ーマ教皇は君主が有する﹁首位権﹂︵冨旨冨ぴ琶を﹁ペテロの代理者﹂として
の地位を通じて行使するのである.このようにして、この社会︵換言すれぽ﹁教会﹂︶は統治体なのであり、かつまた、
構成員を互いに結びつける紐帯がキリスト教信仰という霊的要素であるにもかかわらず、この社会は現世の存在・実
体でもありそして世俗社会が内蔵している様々な附属物すなわち立法、行政諮問機関を有しているのである。この意
味において、グレゴリウスの描いた﹁キリスト教社会﹂︵馨曇器。区畳導費︶あるいはフソベルトウスが示した﹁教
会﹂︵§一①器︶は後の時代にアリストテレス哲学が受容されて用いられたポリスを指す同意語句﹁完全社会﹂︵§§器
冨幕。琶を予示するものであった.実際、十四世紀になると、教皇主義者たちが教会を﹁完全社会﹂と称し、その指
導者すなわち・ーマ教皇が他の不完全社会すなわち世俗社会の指導者である皇帝・王たちに対して優位性を有すると
11
法学研究62巻10号(’89:10)
︵ 7 ︶
主張するようになったのである。
一章において軽く触れたことであるが、新約聖書記者・大伝道者・使徒パウロを初めとする原始キリスト教の人々
は、強い終末信仰をいだき、神の国の来臨・王としてのキリストの再臨が切迫したものと信じていた。それ故、彼ら
は﹁政治﹂に対して有的関心を抱きつつも一種の緊張を感じつつ距離を保っていた.換言すれば、彼らは政治秩序に
対して一定の留保を自覚しつつ関与しながらも究極的には全面的に巻き込まれないようにしていた.彼らは自分たち
が政治秩序の外側に存在する者とみなしていたのである.あるいはまた、終末の観点から自分たちの生きているこの
世を観ていたともいえよう。そしてこの終末観に支えられつつ彼らは、政治秩序が支配し統合し運営する社会よりも、
社会の形成原理、連帯性、志向すべき目標等々のあらゆる面で秀れた自分たち固有の社会を形成しているという自覚
を有していた。時を経るに従いこの終末観は稀薄になっていったとしても、キリスト教徒たちが自分たち固有の社会
すなわち教会はこの世における最善の社会・団体であるという確信は強まりこそすれ衰退することはなかった.右に
述べた、教会を﹁完全社会﹂と称することはこの確信の表現の一つであろう。
しかも右の確信は、中世紀に入ると終末信仰が薄れていき、信徒の数も増大し、その必然的結果として連帯感が薄
パ ト ス
れ、信徒の信仰も多種多様、深浅、厚薄と様々なものとなった段階でいささか質を変えてきたのである.つまり、信
仰の熱情が昂揚している結果として教会が信徒の自発的な共同体であった時には何も問題は無かった。しかし時代と
情況が変われば、教会は自発的な共同体ではなくなったのである。換言すれば、教会は聖なる共同体であるべきとす
る教説は説得力を失ったのである。教会は聖なる人と罪人との混合体になったのである.それにもかかわらず教会を
維持していかねばならなかった.そのためには、教会内に秩序を維持しようとする人間的努力と営為が要求され、教
会内に調和と統一を保つために教会内に統治が必要とされたのである.そして統治が執行されるためには、統治者に
権威が、被治者には規律が附与されなくてはならなかった。これら全ては信仰の衰弱の結果と云ってしまえばそれま
12
支配原理としての中世ローマ教皇制
でであるが、確かに信仰の熱情が自己貫徹している時には必要なかったものである.自己貫徹すべき信仰の情熱が歴
史舞台を退くと、教会内には秩序の論理が要請され、そしてこれが自己貫徹していくのである.教会は組織化される
と共に強制的側面が強化され、形式的な統治が執行され反社会となり始めたのである.グレゴリウス七世自身はこれ
を望まなかったとしても、彼の主張した教説は、中世盛期、後期になるにつれて右の側面の伸展にあずかったのであ
る。
右に略述したごとく、﹁キリスト教社会﹂、﹁教会﹂が存在そのものとして統治を必要とすると考えられるならば、
次に必然的に生じてくる問題は、誰が統治者となり得るのか、そして統治者に要求される資格と能力は何なのか、と
いうことである.この問に答えるためには彼の思想の大前提である﹁正義﹂︵冨葺包を明らかにしておく必要がある。
中世研究者として他に比類なきワルター・ウルマンはその著﹁中世における教皇統治の発展﹂の中で、グレゴリウ
スの﹁正義﹂を以下の如く定義するーそれは純然たる宗教・倫理理念ではなく、純然たる規範的理念でもない。そ
れは両者を共にしたものである.これは、﹁キリスト教社会﹂の土台すなわちキリスト教信仰から由来する、諸々の
イデオ・ギー原理の全体を包含する.﹁正義﹂の内容は、人が生きるにあたっての正しい規範である.あるいはまた、
カノン ︵8︶
それは行動に関するキリスト教的規範であり、正・不正を吟味するために必要な判断基準を提供する規制原理である。
ヤ ヤ ヤ ヤ
﹁正義﹂はキリスト教的世界秩序の規準であるー。以上のごときウルマンによるグレゴリウス七世の﹁正義﹂理解
に対して、筆者は全面的に否定する意志も能力もないが、いささか附加したいことがある。
一般的に歴史事実に対する解釈・理解は研究者の歴史観に基づいて多様になることは論をまたない.いわんや、社
会構造、精神構造を根底から変革した革命に対する解釈・理解・評価はこれ以上であろう.同様に、グレゴリウス改
革に対する解釈・理解も多様になるのは当然であろう.グレゴリウスに関する極めて少量の知識しか有さぬ筆者なの
で、断定を避けたいが、筆者の理解するところでは、グレゴリウス七世は﹁政治人﹂︵ぎ馨冨§。琶ではなく﹁宗教
13
法学研究62巻10号(’89=10)
人﹂﹁信仰の人﹂︵ぎ馨琶轄8琶であり、彼が懐き、彼を改革に向げて突き動かしたものは信仰である。信仰の観点
から観て、当時のヨー・ッパ・キリスト教が堕落していた、とグレゴリウスは確信していた.聖職者は世俗支配者た
ちが自己の政治的観点から領土内の教会に任命し配置した存在に過ぎず、従って彼らの多くは聖職者として基礎的訓
練を受けた人ではなく、封建諸侯の臣下や庶子であった.グレゴリウスはこの情況を観て、聖職者は固有の訓練と教
育を受けた適切な人間がなるべきであり、その種の事項の一切︵殊に叙品と叙任︶は教会が担当すべきであり、最終
的にはβーマ教皇が責任を有すべきものと主張した。それでは、彼の懐いた信仰の中で﹁正義﹂とは何であったのか.
グレゴリウス七世の﹁正義﹂とは.筆者の解釈によれぽ、第一に、聖書殊に旧約聖書に記述されている神の正しさ、
神の義である。第二に、旧新約聖書中に記述されている、神が人間に与えた法︵従来の日本での訳語は﹁律法﹂とさ
︵9︶
れているが⋮⋮︶に基づく正義の理念である。
右のごとき彼独特の﹁正義﹂を内包する信仰を有し、これに基づいて︵別の表現をすれば、これに突き動かされ
て︶・ーマ教会を観察しそして当時のヨー・ッパ社会を全体的に観るならば、グレゴリウスがこの二つを根底から改
革すべきと確信したことは、われわれに納得できるのではなかろうか.この場合、彼にとって﹁正義﹂は革命・改革
への動機であり、自己の行動の善悪を吟味する判断基準であり、改革さるべぎ﹁キリスト教社会﹂﹁教会﹂の制度原
理なのである.
右のごとき﹁正義﹂観を抱くグレゴリウス七世にとって、教会とはこの﹁正義﹂の具体化であることは言うまでも
なかろう。そうとするならば前に掲げた問題1この教会を支配、統治し指導するにふさわしい者は誰か、統治者に
要求される資格と能力は何か に対する答えも明らかであろう。﹁正義﹂の具体化である教会を支配・統治・指導
すべき者は、この﹁正義﹂を正しく理解でき、正しく実践できる者である.それは、教会聖職者として正しくふさわ
しい訓練を受け、教会が聖職者としてふさわしいと承認した者である.すなわち、教会内の上位聖職者によって叙品
14
支配原理としての中世ローマ教皇制
された有資格者が教会構成員たる一般信徒を指導し・管理し・支配すべきなのである.世俗支配者が自己の領域支配
に都合の良い人物を聖職者に任命するという従来の慣行はグレゴリウス七世によって厳しく拒否されたのである.換
言すれば、聖職者はより高位の聖職者が教会秩序の運営・統治の観点から適格者として選んだ者であるべきなのであ
る.適格者は正しい信仰を有し、教会秩序を正しく理解し、その結果として教会の首長たる・ーマ教皇に服従する者
なのである。教会秩序と制度が問題となる以上、この内に在る聖職者の権威と権力も個人的な有徳性や信仰に主観的
に依拠するのではなく、教会制度の原理から客観的に由来するのである.換言すれば、これは聖職者に対する正当性
の附与の問題であろう。この正当性原理は全て聖書記事に基づくものであるー・ーマ教皇は第一代ローマ司教と云
ヤ ヤ
われている使徒ペテ官の地位を継承する存在として正当性を与えられ、キリストがペテ・に与えた権威と権力を保有
ヤ ヤ
する。司教たちは他の使徒たちの地位を継承する存在として正当性を与えられ、使徒職の有した権威と権力を保有す
るー。・ーマ教皇と司教たちの権威と権力は究極的にはキリストに収敏するのである。これを逆に観れば、キリス
トから与えられた権威と能力は教皇や司教の地位・官職にカリスマとして転移されているのであり、この職位・官職
に就任した者がこのカリスマを身に帯び、その地位にふさわしい権威と権力を保有するとみなされるようになるので
ある。
右に述べた、﹁地位を継承する﹂ことは制度化を意味する。そして、そもそも特定のカリスマが特定の職位・官職
に定着すること自体がカリスマの制度化であるが、その上に信仰対象であるキリストにまつわる権威と能力が特定職
位・官職に転移されていることは信仰の制度化といえる。この意味で、グレゴリウスにおいては教会とは制度化され
た信仰の別称である。そして少数の熱心な信仰者たちの間に存在した信仰の秩序、神が聖霊を通じて彼らに下し与え
た信仰の秩序が成立しなくなった段階においては、教会内の秩序は制度化されて維持する以外に有効な方法は無かっ
たのである.そして制度化された秩序としての教会とは、教会が統治体であることを意味するのであった。制度化さ
15
法学研究62巻10号(’89:10)
れた信仰を正しく理解しそして制度化された秩序を正しく運営・統治すべく能力と権威を与えられているのは聖職者
階級︵§。疑。碁目︶のみであった。グレゴリウス改革以後、教会の社会的・共同体的側面よりも組織的で強制的な側
面すなわち合理的に体系化・制度化された、聖職者による統治体としての側面が前面に出てきた。換言すれば、信仰
者の社会としての教会という性格よりも全キリスト教徒を支配・管理するアンシュタルトとしての教会という性格が
強調されるようになってきたのである。
右の考え方を社会全体のあり方に関わらせると、矢張り秩序が間題になってくる。この場合、秩序とは﹁キリスト
教社会﹂の運営のために聖俗二つの﹁秩序﹂︵。議づ邑が調和を保ち・有機的関連性を有しつつ、両者固有の領域を守
りかつ相互に相手の領域を認めあうことである.換言すれば、﹁キリスト教社会﹂内の構成員たち・構成部分はそれ
ぞれ自己に固有に課せられた機能・役目を果すべきなのである。そして、この機能・役目はこの社会の本質によって
規定され、更にはこの社会が有する目的によって方向づけられているのである。グレゴリウスによれば、社会構成員
の各人・各自が自己に課せられた機能・役目に従って行動するならば、﹁教会﹂︵§奮邑内に調和︵8琴。嘗”︶が保た
れ必然的に平和︵冨図︶がもたらされるのである。
︵10︶
それでは、この機能・役目を規定する﹁キリスト教社会﹂の本質を最も正しく理解する者は誰であろうか。この社
会内で全ての機能・役目を一定方向に方向づける、この社会の目的を最も正しく理解・把握し、人々に宣べ伝えるこ
とのできる者は誰であろうか。それは.云うまでもなく聖職者階級であり、その首であるローマ教皇である.グレゴ
リウスは、﹁キリスト教会﹂に対してペテロの代理であるローマ教皇が究極の支配権を有すると主張する。この点に
関しては別章にてくわしく論ずることとして、ここでは、﹁教会﹂︵①8奮芭という言葉に盛られている内容が多義的
であることを確認しておこう。それは普遍的教会の中に存在する聖職者の階層秩序を意味することもあり、そしてま
た聖俗を問わずキリスト教徒の全てを抱摂する普遍的世界であり、なかんずく東方のビザンツ教会を暗黙に意識した、
16
支配原理としての中世ローマ教皇制
西ヨーロッパのラテン・キリスト教世界を意味するのである.この意味では、﹁・ーマ教会﹂という観念も、ラテソ・
キリスト教世界全体を指すこともあれば、この世界に対して指導する権威を有するローマ教皇を首にいだくローマ教
皇の教会を意味することもあったのである。
︵1︶ ≦亀ひ霞9ぎ導三﹃ぎQき§詳。、㌧§匙Qミミき§蕊き肺ぎミ&§﹄饗。。︵竃9言8昏09ピε這欝y℃・一ω●
︵3︶ &畿。§● り 、 曽 O 。
︵2︶き&。琴b﹄O,
︵4︶&蕊。葵b﹄曽●
︵6︶ さ&。§.PまS
︵5︶き&①§●戸旨餅
︵7︶≦ヨ置旨客。9S身“、、評冨一=Φ巳9傷。b9霧9蓼導山芸①の。霞8。暁弓昏づ。冨一>暮ぎ暮﹃ぎ■辞。寂①&Φ<巴℃碧巴
田霞。。蚕試o弓ぎo昌..︵oQ隠§ミ§図いく目一。昌9蒔一〇お︶薗
︵8︶ ≦巴σ霞ご=目導三§。。&●︸サNお。
︵10︶毛巴σ①吋d一ぎ暫暮馴§§二b﹄お●
︵9︶9冨ε言零牢。。犀①“国ミ§。ぎ導。9§養畑ミ帖&甜卜§︵ピ。轟ヨ導﹂。o。刈︶。℃●ωαω・
三章 教皇の権威と権力
ローマ教皇が中世の歴史で︵近代・現代の世界の中においてすら︶重要な役割を演じ、その地位が極めて高い位置
を占めていたことは今更、言うまでもないが、それではローマ教皇が何故にあのように歴史上の重要な役割を演ずる
ことが可能であったのか、あるいはまた高い位置を階層秩序の中で占めることが可能であったのか、という疑問が出
てきても不自然ではない.中世階層秩序の中で最高の地位を占めていたからこそ歴史上、重要な機能を果すことが可
能であったと理解すべきであろう.この疑問は単純すぎるかもしれないが、政治思想史の観点からは考察に値する.
17
法学研究62巻10号(’89:10)
教皇は他の高位聖職者たちに対して自分がローマ教会の中で最高の位置にあること、あるべきことを何を根拠に主張
できたのであろうか。本章では先ずこの点から解明し、教皇のローマ教会内で演じた権威と権力を明らかにしていき
たい。
ローマ教皇がラテン・キリスト教世界内での最高位置を権利請求できたのは、ひとえに聖書の記述による。それを
新約聖書から引用してみよう.
シア、︵生ける神の子︶です﹂と答えた.すると、イエススは言った.﹁バルヨナ・シモソ、よく言った.お前にこのことを現わ
そこでイエススが、﹁それでは、お前たちはわたしを何者だと言っているのか﹂と尋ねると、シモン・ペトロスが、﹁あなたはメ
したのは、地上の人間ではなく、わたしの天の父なのだ.わたしも言っておくが.お前はペトロス、つまり、﹃岩﹄である.こ
の岩の上にわたしの教会を建てる.死の力もこれに対抗できない.わたしはお前に天の国の鍵を授ける.お前が地上で禁止する
ことは、天上でもそのまま認められる。お前が地上で許可することは.天上でもそう認められる﹂.︵﹁マタイオスによる福音﹂・
十六章十五節−十九節.︶その他の個所としては、﹁マルコスによる福音﹂・八章二七節t二九節。﹁ルカスによる福音﹂・九章十
八節−二〇節.日本聖書協会の共同訳による.︶
右のペトルス︵筆者は慣習に従がって﹁ペテ・﹂と表現している.以下同様.︶が時のローマ帝国の首都ローマにやって
来て宣教の後に殉教し、その後継者が代々、・ーマ司教そして・ーマ教皇であるとの伝承︵量隻§をカトリック主
義はその信仰の基本原理の一つとする.これは中世・近代・現代を通じて妥当することであろう。
﹁ベテロの代理﹂
五世紀中葉に活躍した・iマ教皇・レオ一世︵在位・澄?9は、ペテ・に代わって役目を果していると自からを定
義した.レオは、ペテ・の座を継承していることによって、自分のみが普遍的教会を支配することを機能・役目とし
て資格づけられていると主張した.教皇を﹁ペテ・の代理人﹂︵浮畳垢評鼠︶とする、このレオの表現は新しいもの
18
支配原理としての中世ローマ教皇制
ではあるが、この表現そのものが内蔵する理念は古くからあったものである.そして次に、レオによって用いられた
この定式は、﹁・ーマ教会の首位性﹂︵冨鼠冨言の即§き器①8一邑器︶という理念が取り込んでいき、権利請求の補強材
に用いるようになるのである。
﹁ローマ教会の首位性﹂は、・ーマ教会がヨー冒ヅパ・キリスト教の他の諸教会に対して優越性を主張する際に用い
た理念であり、そしてまた、ローマ教皇が他の全聖職者に対して自己の至高性を主張する際に用いた理念なのである。
﹁首位性﹂︵冨旨冨εω︶という言葉そのものが問題になることは、階層的秩序・上下関係を問題にしていることの別
の表現形態なのである。更には、﹁首位性﹂の理念を伴いつつ、階層秩序理念を一つの社会機構の構成原理にしよう
とするならば、ここには支配・統治というものが生じることは云うまでもなかろう。以上の運動を、われわれは中世
ヨーロッバのカトリック教会の歴史の中に観ることができるのである.この意味において、﹁首位性﹂という言葉の
中に盛られている理念が統治の領域に属しており、前述のレオ一世の主張が君主制原理に基づく普遍的教会の支配の
︵1︶
正当性を求めるものであるというウルマンの解釈は適切であろう。ただし、ウルマンは﹁君主﹂︵ヨ8霞&の定義を
為さずに用いている。彼の論述全体で理解・推測する限りでは、﹁君主﹂とは一つの統治体の中において他の高位者
たちを越えて一人の権威者・権力者が存在し・統治することをいうのであろう。
話をレオ一世にもどすと、彼による理論の伸展は、彼が解釈した限りでの次の基本的事実に依拠する。つまり、キ
リストはペテロのみに﹁鍵の権力﹂と﹁つなぎ・解く権力﹂を与えたこと.そしてペテロはこの裁治権を他の使徒た
ちに分かち与えたことである.︵前に引用した聖書の言葉が、ここでは権カー英語でいえばbo名霞であるーとな
り、更にはこれに依拠して﹁裁治権﹂︵甘法身ぎ︶という教会統治に用いられる法的用語に成長していく点に、後代
の人々はカトリック主義の特徴を見る.つまり、信仰を法的に解釈することである.しかしこの問題は本稿の主題か
ら外れるのでここでは述べない︶。次に、ペテロの後継者としての教皇はこの同じ裁治権を司教たちに与えるのであ
19
法学研究62巻10号(’89:10)
る.それによって、教会の全組織と全てのキリスト教徒の生命はキリストによるペテロヘの委託に懸かっているので
あり、ペテ・の後継者としての教皇に懸かっているのである.
右の事柄の中には観点を変えて重要な問題が横たわっている。すなわち、教皇と司教たちの間には、右のペテロヘ
の委託の原理によって尊厳・格位に関してはいかなる差異・相違もなく、同じ﹁品級権﹂︵宮奮鼠の。急募︶を有して
いるのであるが、しかしそこには階層的秩序が形成されていたとみなされるようになったのである。最高の裁治権は
ペテ・の唯一の後継者としての・ーマ教皇に与えられている。他方、司教たちは自からの裁治権を教皇から受け取る
のである.これと同じ内容の主張をレオは次のごとく為す。
︵教皇の代理人たちは︶教皇の権力の全てではなく教皇の役目・義務の一部を分かち持つべく、教皇の恩愛を与えられるのである。
︵く一8ω①巳目ぎ9り器一鼠言”①簿a一αぎ5。鷺一貫芦︶暮ぎ冨詳Φ目塁<。。帥εのψ。臣簿且巨鉾ぎ⇒ぎ宮Φ巳σ&汐①言b9窃寅蓼。
︵2︶
右の文中で注目したいのは、十三・四世紀に教皇権力の最高性を立証するために用いられた基本語句﹁至高権﹂
︵幕葺且。零諺鼠蕃︶が既にレオ一世の時代︵五世紀中葉︶に出現していることである.ただし、ここの場合の用語法
は法学的術語としての﹁至高権﹂としてではなく、﹁権力の全て﹂とでも云う散文的用語として用いられているに過
ぎないのだが、しかしそれにもかかわらず、法的専門用語として成熟していく端緒として五百年以上も前にこの語句
が用いられた点に重要な意義があるのである.
前章﹁教会論﹂で教会が統治体としても把握されたことを述べたが、次に明らかにすべきはその統治体の中での統
治者の問題であろう。レオによれば、前述のごとく、教皇のみがペテロの後継者・代理人として職務・責任を果すべ
く資格づけられ、権威をもたされている。それ故、教皇と他の司教たちとの間には明確な区別がなされ、教皇の首位
性が確認され、教皇のみが他の司教たちに裁治権を分与することができる、とされたのである.以上の教説に立脚し
20
支配原理としての中世ローマ教皇制
て、教会統治の原理が成長していったのである.ーしかもこの原理は、教会統治に関与する者たちに一定の資格を
要求するものであった.すなわち、聖職者としての訓練を受けた者に対する権威者による承認であった.
レオによれば、ペテ・は全教会の君主にされたのであり、・ーマ教皇はペテ・の後継者である故に、今や教皇が教
会の君主なのである。そしてペテロに委ねられていた教会統治に関する裁治権の全ては﹁首位権﹂︵冨邑冨εの︶とし
て考えられるようになり、その結果、ペテ・の後継者としての・ーマ教皇もまた、この﹁首位権﹂を有するものとさ
れたのである。後の教皇・インノケンチウス三世︵在位ムお緊憲δが教皇の至高の支配権・影響力を正当化するため
に用いた言葉が﹁権威﹂︵雲9&蜜ψ︶であるが、五世紀の教皇・レオの場合は﹁首位権﹂なのである.この言葉は、
キリスト教世界内においてローマ教皇が有する裁治権の至高性を政治的に表現したものといえよう。
教皇権威の至高性を強く主張した教皇に、レオ一世と同様、ゲラシウス一世︵在位・お㌣①︶が居る。敢えて単純化を
恐れずに云うならば、十一世紀後半に教会改革で活躍して結果的には当時の社会構造を根底から変えたグレゴリウス
。㎝︶の主張は基本的には新しいものではない.それは主要な点において、五世紀の前記の二人の教皇
七世︵在位・一〇お−。
が主張した内容に依拠しているといえよう.二人の主張は、後の世に或る時は忘れられ、また或る時は想い出されて
その時の言説の正当化に用いられたのである.われわれはこのような点に、・ーマ教会における信仰と制度の強靱な
︵3︶
生命力を見ることができるといえよう。
ゲラシウス一世はいわゆる﹁両剣論﹂を唱えた教皇として有名である.本稿では、聖俗両権に関する彼の教説その
ものに触れるのではなく、教皇権威との関連性に即してのみ、彼の教説を追ってみたい.
五世紀の後半、主としてビザンツ帝国において皇帝教皇主義が現われ、そして西ヨー・ッパにおいても﹁王にして
祭司﹂の制度が根づき始めた。その底に流れる思想原理は・ーマ教皇の側から観ると断固として拒否しなければなら
21
法学研究62巻10号(’89;1Q)
ぬものであった.教皇の側から出された対抗理論は、キリスト教徒の統一的共同体すなわち教会の中での各人に課せ
られた機能・役目と存在理由の区別であり.そして教会の中に存在する皇帝という理念であった。この理論を展開さ
ヤ ヤ ヤ
せたのが右に述べたゲラシウス一世であり、彼はこの意味において、﹁首位権﹂︵冨鼠冨げ琶を確立した教皇なので
︵4︶
ある。﹁使徒の座は、主キリストによって全ての教会を委ねられているので、首位権を保有するのである﹂。
彼によれば、教会という団体の全てはその﹁首位性﹂をローマ教会の中に見るのである。このことは、全てのキリ
スト教徒が聖職者であると世俗の人であるとを間わず、知っていることなのである。この・ーマ教皇を首にいだく聖
職者集団は、キリストが設立した神的共同体すなわち教会︵①8奮芭の中では、神的な事柄を管理・執行する資格を
与えられている唯一の存在なのである.ビザソツ帝国におけるごとき、皇帝が信仰内容の決定をなすとか聖職者をさ
ながら行政官を任免するように任免・配置転換することは、教義からして認められないことなのであった。
﹁社会﹂﹁教会﹂がキリストによって設立されたものであるならば、その構成員は当然のことながらキリスト教徒で
あり、彼らの行動はキリストの教えに一致したものでなくてはならぬ.そしてキリストの教えは、その解釈と指針の
伝授は聖職者に委ねられているものなのである.この図式から推測できることであるが、キリスト教信仰は宗教改革
期までは公的なものと解釈すべきである。われわれ﹁近代人﹂は個人の内面という領域の存在を確信し尊重する.そ
して信仰もこの領域に属するとみなし、個人的な問題として把握する.ここに、近代性の秀れた面があったと評価す
ると共に、教義の解釈によっては信仰の内面化が信仰の私的側面の強調につながり、信仰と現実世界の有機的関連性
が喪失した時もあった.しかしわれわれ近代人が注意しなくてはならぬのは、中世においては信仰は公的なことであ
ったことである.個人の信仰は教会の信仰であり、教会とは公的組織・共同体そのものであった.むしろ、中世には
﹁公﹂と﹁私﹂の区別が存在しなかったという方が正確であろう。
さて、公私未分離の中世キリスト教社会は、信仰の諸原理の具体化・規範化によって生ずる法律︵教会法︶によっ
22
支配原理としての中世ローマ教皇制
てのみ適正に導かれるのである。それならば、この諸原理を具体化・規範化すべく多くの諸原理の中から選択しそし
て選択されたものを法律として定めて信者に実行を促す資格のある者は誰か? ビザンツでは皇帝であった。西方で
は、・ーマ教皇が自からにその権威のある二とを主張したのである.ゲラシウスの理解するところでは、キリスト教
社会の中での皇帝の機能・役目は、﹁キリスト教的なるものは何か﹂ということを学ぶことなのであって教示するこ
とではないのである.﹁キリスト教的なるものは何か﹂ということを正式に社会全体に対して主張できる者は、それ
を定義する資格を有する者のみである.これが聖職者であることは云うまでもなかろう。
﹁教会﹂︵§諺邑とは前章で明らかなごとく、神的基礎を有するものであり、それ故に神的共同体である。ゲラシ
ウスによれば、このキリスト教的団体︵8暮琶の中で最も重要にして基本的な事柄は信仰に属する事柄である.キ
リスト教は、・ーマ帝国︵塞ε呂邑の宗教的基礎でありそれ故に正しい信仰の保持は公的関心の対象となるべきも
のである。しかし、神的事項と宗教的事項は皇帝によって管理・運営さるべきではなくそして決定さるべきでもない。
皇帝は、神的事項が何であるかを、有資格者から教示されなくてはならぬ.この有資格者とは、神的共同体︵山三彊
8目目琶一奮︶に対して首位権︵冨旨冨σ琶を有する者・教皇である。ペテ・の代理である教皇は、ペテ・の有してい
た権力と同じものを有する。ゲラシウスの理解に依ると.キリストが与えたペテ・への委託は包括的なものであった。
この委託は.例外なく全ての事柄を包含するのである、全ての事柄がつながれそして解かれ得るのである。われわれ
はこの古代末期の教皇の主張の中に、中世盛期以後の・ーマ教皇が為した普遍性・包括性・全体性への権利請求の理
論的萌芽を見ることができよう。この思想的継続性と原理の強靱さには驚くべきものがある。
さて、教皇のみが﹁キリストの身体﹂・﹁教会﹂・キリスト教世界に対して﹁首位権﹂︵℃二旨冨言の︶すなわち君主と
しての支配権を有するとするならば、皇帝は教皇を首とする聖職者階級︵馨Φ包&琶︶に指導されなければならない。
世俗権力の最高権威者としての皇帝といえども、司教ではない故に、信仰問題を定義し.解釈すべく布告を発する正
23
法学研究62巻10号(ヲ89:10)
当なる権利もなければ能力もない.そればかりか、皇帝は聖職者によって彼に対して与えられた指針に従って統治す
︵5︶
べきなのである。
﹁キリストの身体﹂なる世界の本質と特徴を前提とするならば、聖職者が世俗権力を指導すべきであるとするゲラシ
ウスの権利請求は自明である。しかし現実には、当時のローマ皇帝の方が絶大な権力を振るっていたのである.
ゲラシウスによるとローマ帝国はキリスト教的世界であった.そして・ーマ帝国を意味したラテン語・﹁ムンドゥ
ス﹂︵冨琶q琶・﹁世界﹂においては、世俗権力は単なる﹁権力﹂︵冒奮寅・︶を有するに比して、教皇という﹁君主﹂
︵冨登冨言ω︶は﹁権威﹂︵き§旨琶を有するのである.われわれはゲラシウスが言葉の微妙な使い分けをしているこ
とに注目したい.﹁権力﹂も﹁君主﹂も﹁権威﹂も全て・ーマ法用語である.﹁権威﹂︵窪9。導琶は、・ーマ元老院
が有するものであり、拘束力を有する法律を創造する能力を意味する.他方、﹁権力﹂︵2奮奮︶は﹁権威﹂が創造・設
定した事柄を執行する権力を指すのであり、これはローマの存政長官︵ヨお響声ε。・︶が有するものである.そしてロ
ーマが帝政に移行した後に皇帝が当然のことながら﹁権威﹂を所有するが、その上に皇帝は特別な神的性格を有する
ものと信ぜられていた。皇帝は礼拝の対象となっていたのである。﹁権威﹂が内包していたものは、カリスマ的な政
治的権威であったといえよう.﹁権威﹂は神聖なものであった。何故なら、ローマ皇帝にかかわる全ての事柄は皇帝
の神的性質から由来するものである故に神聖なものと考えられたからである.
右の事情を理解するならば、前記の・iマ法学の専門用語に盛られた特殊な理念が・ーマ教皇の機能・職務に移し
盛り込まれ、・ーマ教皇の権威を表現する言葉として特殊専門用語としての﹁権威﹂︵き量鼻器︶が用いられること
になったのは容易に理解できるであろう。それ故にまた、・ーマ法学の専門用語とその背景に在る思想・イデオ・ギ
ーに精通している人々にとっては、ゲラシウスが主張するところの教皇の﹁権威﹂と皇帝の﹁権力﹂との間に横たわ
る基本的差異を理解することは容易であったろう。しかも、このような基本的差異を附してゲラシウスが皇帝ならぬ
24
支配原理としての中世ローマ教皇制
教皇に﹁権威﹂を主張したことの背景に隠されている思想的意図も当時の人々に読みとられていたであろう。
ゲラシウスは教皇として、単純にローマ法学の道具だてで教皇の皇帝に対する優位を主張したのではない.時代は
既にキリスト教化された世界になっていたから当然のことながらキリスト教教義に基づく理論を彼は展開した.換言
すれば、・ーマ帝国の政治神話によって﹁権威﹂にこめられていた神的性格は、キリスト教教義から由来する教皇の
特別な位置づけすなわちキリストのペテロヘの権力の委託、ペテ官の代理・継承者としてのローマ教皇の特別なカリ
スマの保持に転換された.この転換によって、教皇が﹁権威﹂を有するとされたのである。この﹁権威﹂とは、﹁つ
なぎ・解く権力﹂を有する教皇が最後の審判の時に全ての人々の中の一人である皇帝の行為を救済に値するかどうか
吟味する権利・能力を有していることである.しかしこれだけでは、教皇がキリスト教世界の中で皇帝に対してこの
現実世界においても﹁権威﹂を有し、権威と名誉において皇帝よりも上位に立ち、皇帝の諸行為に対して指導する権
利を有するということにはならない。この間題解明のためには、ゲラシウスがキリスト教的観点から世俗権力をどの
ように考えたか、どのように正当化したかを明らかにしなければならない.
皇帝はその支配権を神から得ている。これはキリスト教における公理である.このことは、当時の皇帝の側も熱心
に主張し、自己の正当性とカリスマを強調したものであった。しかしゲラシウスによれば、皇帝が受けた支配権は神
から与えられた恩恵︵び窪呂。ξ管︶なのであり、皇帝にのみ与えられた特権︵冨昌①㎎§なのである.そして﹁恩恵﹂
であるが故に、この恩恵を皇帝がいかに用いたか換言すれば人々のキリスト教的生活に貢献すべく恩恵としての支配
︵6︶
権をいかに統治において行使したか、ということを教皇が吟味する能力と権利を有しているのである。右の事柄を観
点を変えて表現するならば、皇帝権力が神から由来している故に、神に仕える聖職者とその首たる教皇は、神から付
与された支配権を皇帝がどのように過去に行使したか・現在行使しているかに特別な関心があるのである.この意味
で、中世ローマ・カトリック教会はその最初期から、現実世界︵あの世ではなくこの世︶の政治に対してその神学的
25
法学研究62巻10号(’89:10)
見地から極めて強い関心があったのである.
キリスト教社会の中では、皇帝もそれを構成する一人であるが、全ての構成員は神から与えられた、行為が志向す
べき目的を与えられている。この目的に即して人々は社会の中で生きそして行動しなければならない.しかも、私的
内面と公的領域が区別されていなかったことに留意したい.それ故、皇帝は彼の統治行為を支配者に課せられた目的
に向けて為さねばならぬ。そして、この目的を正確に認識する能力と資格を有しているのは世俗支配者ではなく聖職
者なのである.皇帝は統治するに際し、聖職者なかんずく・ーマ教皇の理解と発言に耳を傾けなければならぬ.皇帝
はローマ教皇と聖職者階級に聴き従うべきであって、命令を下すべきではないのである.キリスト教世界でローマ教
皇のみが﹁権威﹂を有するというのは、この意味においてである.﹁皇帝の支配権は神から由来する﹂という皇帝自
からの権利請求をそのまま承認しつつ、キリスト教的教義に基づき、皇帝に対する教皇の支配権を権利請求したゲラ
シウスの精緻・巧妙な思考方法をわれわれは銘記したいものである.繰り返えすが、この教説が説得力を有するのは、
世界がキリスト教化され、人々が信仰心をいだきしかもキリスト教徒の信仰に関する最高の指導者が・ーマ教皇であ
るという信仰が存在している場合のみである.中世がその場合であり、古代末期に生きたゲラシウスは中世・ーマ・
カトリック主義をある面で先取りしていたのである。
さて、ゲラシウスが世俗の王的権力と聖職者の権力の機能・役目をどのように区分したかを見てみよう。
以下に、ゲラシウスのキリスト像解釈と歴史理解を通して、彼が両権の関係をどのように理解したかをみょう。
ゲラシウスによるとキリスト教的皇帝制はキリスト自身に始まるのである。キリストは最後の﹁王にして最高祭
︵7︶
司﹂︵閃霞9℃9舞霞︶であり、最後のメルキゼデク︵旧約聖書中に出てくる、サレムの王にして最高の祭司︶であっ
た。そしてキリストは、ゲラシウスによると﹁驚くべき配慮により﹂王権力の機能・役目と祭司権力の機能・役目を
区別したのである。キリストの時代以後、いかなる皇帝も最高祭司の地位を横取りしたものはなく、いかなる最高祭
26
支配原理としての中世ローマ教皇制
司も卓越した王権力を権利請求したものはいなかった.もっとも最高祭司は、キリストの寛大さによってそして非常
に特別な意味において、現実に王と祭司の両方の権力を持ったのではあるが.しかしキリストは人間存在の脆弱さを
配慮して聖俗両権力の機能・役目を区分したのであった.その理由は二つあった.
第一に、神のために戦う人は、世俗の事柄にかかずらって身動きとれなくなるようなことはあってはならぬ。王権
力の存在理由は、祭司が世俗的・物質的必要物のために心身をすり減らすという重荷を除去する点にあるのである.
現世で生きるために必要な物品のために、教皇は皇帝を必要とするのであり、その結果として、教皇は自己に固有に
課せられた機能・役目に専心することが可能となりそして現世的・物質的な事柄の追求にわずらわされることはない
のである.他方、皇帝はキリスト教徒である限り、霊魂の永遠の救済を達成するために教皇を必要とするのである。
第二に、キリスト教社会内で機能する、機能・役目の秩序原理である。一つの有機体的全体の各部分に対して、特
別にして固有の機能・役目が割り当てられておりそしてそれぞれの構成員は自分に課せられた機能・役目の範囲に自
己を限定すべきなのである。そうすることにより、人間社会の中に秩序が成立することであろうし、人間の傲慢が再
び首をもたげるということも防ぐことができるのである.この機能・役目の秩序の原理は,多種多様の機能・役目が
有効に作用するために是非とも必要とする原理であり、そして一つの身体・団体が一つの統合された全体であるため
に是非とも実行しなければならぬ原理なのである。この原理は中世社会理論なかんずくヒエロクラシーのイデオロギ
ーの中で重要な意義をになうようになる原理だったのである.あるいはまたこの原理は、中世特有の社会観すなわち
一つの有機体︵8唇琶としての社会を目的論的観点からみる社会観の上に基礎づけられたものでもあった。
次に﹁つなぎ解く権﹂に関するゲラシウスの理解したところをみてみよう。教皇はキリストによって与えられた
﹁つなぎ解く権﹂︵宕奮寅の凝導象①竃。一く窪色を有している。そしてこれは他の何人からも制約されない権利と能力な
のである。しかしここでいうところの﹁権力﹂︵冒奮寅。。︶は、教会統治組織の枠内では、ゲラシウスが強く教皇の地
27
法学研究62巻10号(’89:10)
位のために要求してきた﹁権威﹂︵窪ぎ鼻琶を意味するのであって単なる権力ではない。﹁つなぎ解く権﹂と﹁権威﹂
は、キリスト教的世界の中で展開さるべき、教皇の有する﹁首位権﹂︵冨鼠冨言の︶の本質なのである.キリスト教的
社会において重要な事柄は、永遠の生命を神から与えられるために準備することである。そしてこの目標のために、
教皇のみが鍵の保有者なのである。
これまでみてきたように、﹁キリストの身体﹂・﹁教会﹂・﹁キリスト教世界﹂に対するペテ・の﹁首位権﹂は・ーマ
教皇の手中にある.そして全てのキリスト教徒しかも皇帝や王であろうとなかろうと全キリスト教徒に対する君主と
しての支配権は教皇に委ねられているのである。全てのキリスト教徒は一つの緊密な有機的統一体を形成する.この
団体はそれがキリスト教的に形成されているが故に諸々のキリスト教的原理に従がって運営・指導されなければなら
ぬ。そしてこの諸原理を定義する能力と権威を有しているのが教皇なのである.換言すれば、この諸々の原理を定義
するのが教皇の機能・役目なのである。キリスト教社会は健全な一致がなければならない。前述の、キリスト教的原
理に従って社会が運営されていれば健全な一致が生ずるのであるが、それにもかかわらず、その原理を誤解し、ある
いは信仰を間違って把握し実行する人々が発生して、社会の一致が喪失する.この人々は共同体から排除されなけれ
ばならない。いわゆる﹁破門﹂︵呉8旨ヨ毒ざ暮§である.これは、社会統合の原理が信仰の正統性に依拠する場合に
生ずる、制裁の一類型であろう。そして破門発動の資格がある者は、信仰の正しさを理解できる者、キリスト教社会
の健全さとは何かを判断できる者に限定される。この者は、教皇を頂点とする聖職者階級であることは云うまでもな
かろう。これと共に、この聖職者そのものの信仰内容あるいは行動の是非・善悪を判定できる者は彼らが神的事柄を
取扱う者である故に、より上位の聖職者に限定される。皇帝といえども聖職者を裁定する資格は有していない.何故
︵8︶
なら、弟子はその師を裁くことはできないから。
以上にみてきたように、ゲラシウスは・ーマ教皇の﹁首位権﹂という君主概念を開拓・発展させたわけである.わ
28
支配原理としての中世ローマ教皇制
れわれがここで注目すべきは、﹁首位権﹂︵冨鼠冨言ψ︶が信仰問題の検討・決定の次元の権威と能力の地位を示すも
のであったのが、教会統治の次元で最高の支配者を示す契機を含んでいたことである.それはさながら、世俗支配者
が﹁君主﹂︵巨9弩&と称されるのと同様に、ローマ教皇も﹁君主﹂になるのである.そしてペテロの後継者として
の教皇はキリスト教徒の有機的統一体に対して唯一人で﹁権威﹂を保有するのであり、このキリスト教徒の中におい
ては皇帝は重要な地位を占め、欠くべからざる機能・役目を果すとはいえ、補助的な存在すなわち・ーマ教皇を助け
る存在であった.皇帝の機能・役目は﹁君主﹂のそれから単なる﹁世俗的権力﹂あるいは﹁王の権力﹂に縮小される
ことになったのである.この発想は勿論、当時の政治世界に定着したものではなく、定着は十二世紀になってからの
ことである.むしろわれわれは、思想原理が歴史の流れの中に消滅することなくこのような強い生命力を保ち続けて
きて後に定着したことに、目を向けるべきであろう。
九世紀のアドリアヌスニ世︵在位.。。①?認︶ も世俗支配者に対して・ーマ教皇の﹁首位権﹂を強調したが、内容はゲ
︵9︶
ラシウスのそれと同様のものであった。
﹁首位権﹂︵冨琴甘暮塁閃§導器①。。一邑器︶
二世紀の終り頃、イルネリウスはローマ教会が他の教会に対して﹁優位性﹂︵冨鼠冨犀琶を有していると述べた。
この・ーマ教会の﹁優位性﹂という言葉は時の推移と共に、﹁使徒座の首位性﹂︵冨&冨言ω碧婁。浮器のa邑という、
完全に・ーマ的な政治用語にとって替えられたのである。﹁使徒の座﹂︵碧。§一富甕琶という用語は・ーマ教会のみ
に適用されたのであって、ペテロ以外の他の使徒の諸都市は除かれたのである.この唯一の教会が裁治権︵﹃ξ甲
身ぎ乙巨毘&。霊一2壽邑つまり最高の統治権を権利請求したのである.
29
法学研究62巻10号(’89:10)
﹃使徒の座﹂なる言葉にば重要な意味が当初からこめられていた.三八一年にコソスタンチノープルが古ぎローマと
同じ位置を権利請求した時に、ローマ教区会議は三八二年に以下の論拠で応じた。第一に、ローマ教会は教区会議の
教令に基づいて建立されたのではないこと。第二に、ワーマ教会はその最高の位置を、キリストからペテロに与えら
れた委託に負っていること。第三に、ローマ教会は他の全ての教会と異なって固有な特徴を有しており、ペテロとパ
ウ・二人の使徒によって建立されたのである.これに対してコンスタンチノープルは、使徒による建立を主張するな
んの証拠もないことであった。
重要な点は、質iマ教会の有する﹁二人の使徒による建立﹂という伝統であった。これに由り、ローマ教会は裁治
権と行政権における最高性を引き出すことができたのである。ペテロとパウロの二人の使徒によって建立された故に、
・ーマ教会はキリスト教の大前提︵霞。急信目︶と云われた。キリスト教と教会生活の全ては、ローマ教会の中に集中
されそして要約された形で存在した。この理念︵二人の使徒による建立︶は、キリストの身体・普遍的教会の有機体
的団体的本質の観点から観るならば、重要な意義をはらんでいたのである。キリストの生命はこの団体・身体の首か
ら下賜されたのである。この首︵ローマ教皇︶は君主のごとくに団体的統一体を支配したのである。あるいはまた、
バウ・の教説から発展してきた﹁首と身体﹂︵Q碧暮−馨暮邑の関係の象徴的な用い方は中世の全体にわたって非常
に価値ある説得の論理を提供した.
﹁首位性﹂と﹁使徒の座﹂の二つの理念は四二二年にボニファキウス一世︵在位・合。。−旨︶によって結びつけられた。
﹁それ故に使徒の座は、全ての問題を正しく受理・解決するために、 首位権を有するのである﹂︵包8φ雪9。。8$巷8琶一8
b二ぎ一蜜言ヨ暮ρ舞Φ邑猶¢o目づ賞目一一8馨霞8。8ぴ9.︶
︵10︶
・ーマ教会は、ペテ・への委託・キリストが全人類の救済に関する権威と能力をペテ・に与えたという伝承に基づ
30
支配原理としての中世ローマ教皇制
いて設立された故に、そして全人類の救済という考えに含まれている普遍性の故に、神学的教義として理論的に普遍
性を有しており、普遍的教会なのである.この上に﹁首位性﹂を加えることにより、ローマ教会はヨーロッパ全体の
教会に対する統治権をその手中にする権利と能力を認められたのである.﹁ローマ教会の首位性﹂とは﹁ペテロの代
理人﹂としてのローマ教皇の首位性でもあるのである.この教会統治における君主政的形式はレオ一世によって理論
的に定められたのは、前述の通りである.
それでは、教会制度の中に何故、君主政が必要とされたのか、存在することが可能であったのか軽く触れてみよう.
中世ローマ教会史ことに教皇史を近代の研究者が観る時、ここには現代の歴史家が﹁教皇君主制﹂︵冨冨一§髭器ξ︶
と表現せざるを得ないような現象が存在したのである。現象はともかくも、教義・理論としても主張されていたので
ある。前章でみたように、キリスト教徒の所属する﹁教会﹂︵①亀①欝︶はキリストを首とする﹁キリストの身体﹂
︵8暮萄9旨εである。これは霊的・信仰的団体であると共に、具体的で人々の目に見える可視的な実体を有した団
体でもある.そして当然のことながら、この団体は或る特定の目的を実現するために構成されているのであり、目的
実現のために団体の中に組織が不可欠と考えられた。かくして、この団体・教会の目的実現のために世俗的事柄の管
理・統制が教会の中において執行されるべぎものとされたのである。というのは、この団体はこの世に生き・活動し
ている人々から構成されている生きた実体なのである.それらの人々の行動は統制されなければならぬ.彼らはかの
目的に向けて指導されなければならぬのである.ウルマンによると、このような発想は・ーマ・カトリック教会史の
轟葺︶という言葉が散見される理由なのであった。そして統制・指導が有効に執行されるためには法が必要とされ、
最初期から存在し、これが、レオ一世をも含めた多くの教皇たちの文献の中に﹁統治﹂︵豊富葺畳。︶﹁統治者﹂︵讐げ雫
︵11︶
この法の枠内と定義に基づいてのみ統制・指導は多くの人々に普遍的に作用することができるのである.右の発想は
正に統治体・統治の必要性の強調である.それ故に、教皇たちば、﹁使徒座の首位性﹂︵冨琶冨言・碧婁&。き¢a邑
31
法学研究62巻10号(’89:10)
と使徒座が発布する法律︵器言旦。導8聲号。蚤呂即§ψ暮暮騨︶の拘束力を強調したのであった.
﹁・ーマ教会の首位性﹂を・ーマ教皇が主張することは、その時の世界情勢の諸権力・権威に対して様々な対応を為
すことを意味する。すくなくともキリスト教信仰・価値観が人々の精神構 の中で極めて高い比重を占めている時代
においては、グレゴリウス一世︵在位・㎝8占8がビザンツ帝国と西欧ゲルマン人支配者に対して為した政治行動と主
張は、本稿で取扱うに値する.
ピザンツの大司教・ヨハネス四世︵爵Φ男器§︶が自からを﹁普遍的大司教﹂と名乗ってイングランドに使節団を派
遣した時、グレゴリウス一世は抗議の声明を発した。彼は西ヨーロッパに対するローマの﹁首位性﹂の権利を守るた
めに東方に対して抗議せざるを得なかったのである︵五九五年︶.この時に彼が用いた﹁首位性﹂︵冨鼠冨εψ︶なる言
葉は、﹁神の民﹂︵零2富U9に対する首位性は・ーマ教会にのみ属するという文脈の中において使用された。この
文脈の意味するところは、﹁キリストの身体は、すなわち聖なる普遍的教会である﹂という、ローマ側では当然視さ
︵12︶
れていた命題を別の形に現わしたものである。﹁神の民﹂、﹁キリストの身体﹂はキリストを救腰者・神と人間との仲
介者と信ずる人々の集団の全てを包含するものである故に、西方のラテン・キリスト教世界のみならず、東方のビザ
ソツ帝国のキリスト教世界をも含めることは当然であろう.ローマ教皇は東方キリスト教世界に対しても、現実には
不可能であったにしても、教義・理論として﹁首位性﹂を権利請求したのである.その理論的根拠は、・ーマ教皇が
ペテ・の代理・後継者であるという一点である.
グレゴリウスはビザソツ皇帝に対する書簡においては、皇帝を﹁主﹂︵3昌葛ω︶と呼び、西ヨーロッパのゲルマソ
人の王たちには﹁息子﹂︵自一︶と呼びかけた.彼は西方に向けては、明らかに命令する権威を帯びた言葉を用いてい
たのである。ここに、ローマ教会の﹁首位性﹂が実効力をもって発揮することができたのは西ヨーロッパにおいてで
あった事実が示されている.この意味において、全﹁・ーマ人﹂の統一・一体性を促がす絶えざる刺激がヨー・ッパ
32
支配原理としての中世冒一マ教皇制
の最も遠い隅から来ていたのであり、グレゴリウスが﹁神の統領﹂︵O。霧巳u亀と呼ばれるのみならず、﹁ヨi・ッ
︵13︶
パの父﹂︵冨§国ξ。冨①︶とも呼ばれる由縁である.ユスティニアヌス帝による一時的な帝国の統合がなされたにもか
かわらずあるいは又、彼とその後継者たちによる帝国の・ーマ的性格の宣言にもかかわらず、東・ーマ帝国は増々ギ
リシア的性格を強めていった.名称こそ﹁・ーマ﹂を称しても.それはギリシア的なものであった.・ーマの伝統・
規則・精神の守護者はギリシア化した帝国ではなく、制度的には帝国の一部分である・ーマ教皇制だったのである。
教皇制の特徴は完全にローマ的なものであり、それをわれわれはゲラシウスの思想の中に十分観てとることができる
のである.シャルルマーニュの帝国復興に先んじて、東ローマ帝国とは多くの分野で異なる世界としてのヨーロッバ
の成立が右のごとき宗教権威によって原理的に達成されていることを銘記しなければならない。
右のごとく云うものの、グレゴリウス一世がヒエロクラシー理論の発展に新しいものを生み出して貢献したとは云
≦巴6霞d.一ぎ帥暮脚﹃ぎQき§勘&、§ミQ。慧§§§旨蛛ぎミ&§卜§︵竃9言①⇒昏O。●ピ苞‘一〇爵︶.℃。N。
&&恥§ 。 b 。 8 ρ
&&鴨§。マミ。§書づ9ω.
&&。§。b。睡・
&&。§’b・誌。
き&。詳サ8。
≦鑑一①吋d一ぎ導ダ§.§●︸戸ま。
Oぼ翼。9①吋卑。。ぎ“的ミ。醤き簿恥9蕊養執ミ軌&騨﹄§︵一。轟ヨ彗﹂。o。刈︶.b■3ω●
。●
い①。︸国質一倉。碧,一葺a協吋。目≦。q一ぎ魯暮.ω︸§●§‘マo
10987654321
&&鳴§●㌘8
33
い難いのも事実である。しかし、彼の多くの著作と公式書簡が後の教皇庁書記局で広く引用され、中世期全体におい
) ) ) ) ) ) ) ) ) )
て教皇の権威と権力の正当化と強化に用いられたことは記憶さるべきであろう.
パ パ パ パ パ パ パ
法学研究62巻10号(’89:10)
131211
) ) )
34
き&。§。マ旨.ま欝琴ー⑩。
き&。§.PωS蓉欝づ99
&&①§●Pωoo・
四章 グレゴリウス改革
司教は自分の土地が封建君主に従属している場合、封建下臣となったのである。司教たる者、新しく任命される場合、
する領域の長である故に世俗の大領主ともなり、このために俗人と同様に封建制の諸規範に従がう義務を負っていた。
保する必要を感じたが故に聖職者の任命に介入してきたのである。封建制度では、司教は自己の管轄下の教会が所有
聖職者の任命に介入してきたのであり、そして彼らは自己の領土内の統治の観点から高位聖職者の内から協力者を確
判断で任免するのは当然の権利であった。あるいはまた、永い間、国家の長・帝国の長たちは自からの君主の権威で
封建制とゲルマソ慣習法においては、領主が自己の領地内に造営物︵教会︶を構築しその管理人︵司祭︶を自己の
売買と司祭蓄妾であった。このような諸悪の根源は、俗人による聖職者の任命︹叙任︺にあったのである.
ニア ニコライズム
ヨー・ッバ・キリスト教の歴史において、一〇世紀以後の聖職者の行状は、徳でもって人を信仰に導くのには程遠
ノ モ
かった。教会は危機的状況にあった.聖職者の間にはびこった多くの悪徳の中、教会にとって致命的だったのは聖職
の意味で、グレゴリウス改革は、後の宗教改革、フランス革命、ボルシェヴィキ革命と並んでヨー・ッパ四大革命と
︵1︶
称されるのである。それでは、改革さるべき間題とは何であったのかを左に略述してみよう。
の存在形態が決定されたということは、当時のヨー・ッパ世界の存在形態が決定されたことを意味するのである。こ
れ・定着したこの原理において教会とは包括的・全体的社会であった故に、当時の﹁βーマ教会﹂︵国&Φ器ぎ目弩帥︶
グレゴリウス改革・叙任権闘争によって、中世ローマ・カトリック教会の在り方は原理として決定された。主張さ
ハ ハ ハ
支配原理としての中世冒一マ教皇制
彼に宗教的職務の遂行を可能ならしめる封土の授与を先ず受けなければならなかった.封建領主は、司教職を含む聖
職に任命されることを望む者に対して、封建下臣に対する監督権を主張するのは当然として、次に聖職者任命に関す
る介入権を得ようとしたのである.このようにして、司教選出における俗人の介入の慣習は一般化した.
王あるいは封建君主は彼らの利害を守るために、自己の領土内の高位聖職を望むいかなる者も封土と世俗的権利を
彼らから授与される前にその職に任ぜられるべきではないと主張した.聖職者たらんとする者はこれらの封土と世俗
的権利を抜きにしては聖職者としての機能・責務を達成することが不可能である故に、右の主張を認めざるを得なか
ったのである。こうして、司教選挙と叙階式︵司教としての品級・資格を与える儀式︶は二義的になり、俗人による
叙任が司教となるために必要不可欠の儀式とみなされるようになった。地方小教区の司祭の任命も俗人に帰属してい
たので、教会は全くといって良い程に、俗人の手中に納まってしまったのである.任命者は自分たちの利害関心から
聖職者を任命したのであって、有徳、学識.信仰の観点から選び出したのではなかった.このような、教会内の宗教
的職務と世俗的地位を一個の人間が背おわねばならぬという混同が聖職者堕落の源であった.以上のごとき状況の中
では.聖職者自身がその職位を売買したり独身制を厳守しなかったのは当然であろう.そして皮肉にもこれまでのロ
ーマ教会の道徳的改革は皇帝によって成されてきたし、教皇位は・ーマ都市貴族の政争の具に一〇四五年まではされ
てきたのである.現実に人々は皇帝に対して、・ーマ教会を含めた教会の良き秩序を監督する、キリスト教世界の最
高指導者の役割を認めていたのである.そしてこの役割は宗教的役割であることは明らかである.理論においてはと
もかく事実においては、この慣習には霊的なものと世俗的なものの混同が存在したのである.
右のごとき堕落と混迷の淵に沈んでいるローマ教会、キリスト教世界を改革するためにはどうすれば良いか。先ず
第一に、あいまいに理解されていた社会のキリスト教的性格を明確化し、社会にキリスト教的規範を与え、この社会
とその文化をキリスト教的理想に基づいて指導することである.換言すれば、社会のキリスト教化である.第二は、
35
法学研究62巻10号(’89:10)
この大目的を達成するためには、皇帝との協調は不可能であり、教会がキリスト教世界の秩序と道徳を達成する外は
なく、教会がその方法と進路を明らかにする外はないので、教会の主体性を確立することであった。換言すれば、俗
人介人の拒否、教会の全面的な自由の追求であった。この目的達成のために、第三に、教会内の聖職者制度の再編成
とそれに伴う・ーマ教皇の首位性・主導的権力の確立である.これは・ーマヘの中央集権化を意味したのである.
教会大改革を軌道に乗せて改革に成功したヒルデブラソド、後のローマ教皇グレゴリウス七世︵在位二。お−。。伊︶は
当時の人々からもそして当時の人々の残した記録からのみ想像・評価するしか方法の無い現代の歴史家からも、定ま
った評価はされ難い人のようである。これは逆に、彼の人間性が人々の好奇心や注意をそそるものであり、器量の大
きな人間だったことを意味しよう。敵からは蛇蜴の如く嫌われ、彼の周辺に居た枢機卿の多くが離反することもあっ
た。
ヤ ヤ ヤ
彼が教皇に就任した折、為すべぎ新しい政策というものはそこに無かった.教会改革の手段としての教皇権力の強
調はこれまでと同様であった。聖職売買と聖職者蓄妾に対する非難攻撃は続けられた。プ・グラムは以前と同様であ
った。しかし新しいことがグレゴリウス七世になってから生じてきた。それは、改革促進のテンポの速さであり、問
題に対する取組み方の大きさであり、教皇庁の行動の背後に息吹くこれまでにない清新で電撃的なインスピレーショ
ンであった。彼の敵たちは、教皇がデーモンにとりつかれてしまったと云う.彼の友・ペトルス・ダミアー二は、彼
︵2︶
の力強さと人をとらえて離さない押しつけがましさに魅せられた人であるが、彼を評して曰く﹁私の聖なるサタン﹂
と云った。以上のことは、彼が教皇として教会改革の責任を他の誰よりも強く自覚したことの証左であろう.それで
はこの責任意識は何に由来するのであろうか。
彼の信仰上の育ての親はペテ・であった.そして彼は教皇としてはペテ・の代理であることを深く人格的な意味に
36
支配原理としての中世ローマ教皇制
︵3︶
おいて自覚し、ペテ・自身がこの世で行動しているかのように振舞った.このことが彼に、圧倒的な責任意識と権威
意識をいだかせたのである。彼の権威はペテロの権威であった.しかし彼が模範とするところは、自分の主・イエス
の裁判の場から逃げだしたペテロではなく、王に対して面をおかして非難、けん責した旧約聖書中の預言者なかんず
くエリヤであった.以上のことをグレゴリウス七世が自からに課していったので、神は自分の側に立っていると感じ、
教皇権威を表明するにあたって乱暴なまでに威圧的な態度に出てしまったのであり、そして目的遂行のために彼が執
るべき手段・方法に対して全くもって無関心であり配慮しなかったのである.かくして彼は、彼を補佐すべき枢機卿
の多くを敵方に走らせ、彼の敵対者たちに対する聖戦を説きおこしてドイッとイタリアにおいて恐るべき苦しみ・恐
怖を引き起こしたのである。彼の人物像は人の理解と想像を越えている.彼が純真な人、信仰の人であったという事
実には多くの証拠がある.そして彼が自分自身の見解と利害を神の意志に常に連結させたという多くの証拠もある.
イグナチウス・ロヨラが教会人になる前は兵士であったのとは逆に、グレゴリウス七世の場合は、神の人が兵士に変
わったのである.そしてこの兵士は自分の夢の実現のためにつき進んだのである.彼は、広い読書領域と学問的傾向
があったわけではないが、知的でかつ諸々の事に通じていた。彼は教会法を知っていたし古代教父の文章をも熟知し
ていた.殊に彼の書簡は、旧約聖書からの引用句で満たされ,預言者の言葉を常に口にしていた。当時の人々は彼を
預言者エリヤになぞらえた.そして彼が愛好した引用句は預言者エレミアのメッセージであった。このような人物が
︵4︶
教会改革に乗り出してきたわけである。
グレゴリウス七世は、西ローマ帝国の教会を不敬度な人物の意志からそしてこの世の悪しき習慣からすなわちドイ
ツ王の支配から自由にすることによって、教会をその本来の自由と純粋な状態に回復させることを求めたのである.
グレゴリウスは、これまで皇帝がになってきた改革運動の保護者の役割を自分自身で引受けていたのである.この役
割は、皇帝ハインリッヒ三世がになって改革老たちをはげましたものであるが、その息子・四世は帝位について二〇
37
法学研究62巻10号(’89:10)
年後、改革者たちを激励・納得させることに失敗した.
グレゴリウスを教会改革に駆り立て、そして伝統として皇帝と教皇の協力が続き、両者の調和と一致がヨー・ッパ
社会の平和の源泉であったのにもかかわらず敢えて皇帝の反対をも押し切って改革に駆りたてたものは、彼の胸に燃
える確かな信仰としか云いようがない.教皇位に就任当初、彼は聖書から使徒パウ・の言葉を引用し、全キリスト教
世界の諸教会に彼の改革運動を助けるべく熱心に勧告した。その言葉とは次のものである。﹁⋮⋮わたしが福音を宣
べ伝えても、それはわたしの誇りにはなりません。そうしないではいられないことだからです。福音を宣べ伝えない
︵5︶
なら、わたしは不幸なのです﹂︵コリントの信徒への手紙・一・九章一六節︶。グレゴリウス七世に論争の論理の模範を提
示したのは正しくこの使徒の宣教の責務だったのである。その上、彼は・ーマ教皇の機能・役目として全ての教会の
ために心を配ばり、教会が正しく信仰の記録と聖書の規則を維持することを深慮をもって教えただすことにあると考
えた。霊的慰さめを提供するのは、使徒の座・”全ての教会と民の君主にして普遍的な母”の責務なのである.この
責務は古代からの伝統に連ながっており、そしてこの伝統から﹁全ての教会と民の君主﹂︵もユ琴Φ窃§β賞舅Φ8一亀弩仁冨
︵6︶
9鵯註§︶としての使徒座の威信が引き出されたのであった。
右の教皇の責務の観念は、キリスト教の英知︵豊窪蔚︶と教則︵39&琶の教示の域をはるかに越えていくので
ある。というのは、教皇の有する教示の機能・役目は次のことを要求するからである.つまり、教皇がキリスト教的
伝統の主要な解釈者であるべきこと、そして教皇がキリスト教的伝統の脈絡の中で﹁正義﹂︵甘駐欝︶を構成するも
のが何であるかを決定すべきことであった。教皇の発布する教令は聖霊の命令とみなされなければならなかった。丁
度、預言老と使徒が彼らが聖書に記した啓示を聖霊によるインスピレーションに負っているのと同様に、聖書の解釈
者たち︵古代教父、教会会議、教皇︶もまた同じ聖霊の息吹きによってものごとを考え、述べたのである。教皇の教
令は一つの﹁権威﹂︵き9&審。。︶である。何故なら教令の真の﹁先与者﹂︵貰98は聖霊だからである。
38
支配原理としての中世戸一マ教皇制
グレゴリウスの右のごとき伝統への依拠は、彼自身の役割の自覚を決定した。彼は、自分自身で新理論・新規範を
創造する革新者としてではなく、﹁使徒的伝統﹂︵碧鼻&8ヰ聾ぎ︶についての正確な知識をキリスト教世界内の地方
諸教会に伝達する﹁教示者﹂︵3。葺︶としで、改革を進めようとしているという自覚をいだき、多くの人々に書簡でそ
の自覚を伝えたのである.事実、彼が教会改革を進めるに際し、・ーマ教皇の首位権を強調したがこれは教説として
へ7︶
はレオ一世とゲラシウス一世が既に展開していたし、政治的行為として理論においても事実においても決定的に重要
な意義を有している皇帝罷免も教皇ザカリアス︵在位.園マ騒がキルデリックを既に罷免している.この意味におい
て、グレゴリウス七世の改革運動には新教説は見られない。しかし彼の思想史的意義を探るとするならば、彼はそれ
までに展開された教皇首位権の教説と教会概念を現実にヨーロッパ社会に定着・確立させた点で評価さるべきであろ
う。
グレゴリウスは教皇としての自分とペテ・を同一視して改革促進に湛進したが、この同一視の強調と平行して、教
皇位の﹁首位性﹂の概念が明確に打ち出されてきた。彼以前の改革援護者たちと同じく.グレゴリウスは、ローマの
裁治権は教会全体の生命にとって基本的事実であること、従って﹁・ーマ教会﹂︵§一①器寄垂壁︶と﹁普遍的教会﹂
︵①8一Φ畳弩写器巴芭は同義語であることを当然のことと考えた。彼は、改革者たちがいだいたローマ教会に関する有
機体理念を受け容れた。この理念に依れば、キリスト教世界の個々の教会は・ーマに所在する教会︵・ーマ教会︶を頭
とする一つの身体の中の一部分なのである.そして・ーマ教会は普遍的教会の﹁頭﹂﹁母﹂﹁女主人﹂と云われるが、
これは単なる名誉の称号であるのみならず、他から拘束されることのない規律励行者の権力を含んだものであった。
この意味で、・ーマの首位性は、自律的首位の権威と権力を有していると考えられたのである.有機体理念を用いて
一つの組織体を説明することは、組織体のおのおのの構成部分の間の有機的関連性を強調し、上下の構成部分の間に
潤滑油を注入して支配関係を隠蔽するものであった.グレゴリウス七世が自分より以前の教会改革者たちが用いた有
39
法学研究62巻10号(’89:10)
機体理念を受容し説得の道具に用いたことは、彼の主観的意図がどのようなものであれ、客観的には教会論の中に支
配・統治の概念を持ち込むことであり、教会を統治体とみなすこととなったのである。ローマの首位性とは.ローマ
教会という一つの団体の最高位に教皇という唯一最高の権威と権力を有する支配者の存在を認める理念であった。そ
して冒ーマ教会の理念が信仰老の全体を包摂する理念であると共にキリスト教ヨーβヅ。ハ世界を表現する理念である
のだが、後者の理念が問題となる時、ローマの首位性とは、ローマ教皇の世俗の支配者たちに対する優越した地位を
示す理念と解釈され、更にはローマ教皇が世俗支配者たちを指導・管理する権利を保有することを正当化する理念と
もなったのである.グレゴリウス七世の段階ではこのことはそれ程、明確には打ち出されなかったが、十四世紀のボ
ニファチウス八世と彼の支持者︵いわゆる教皇主義者︶の理論には濃密に存在するようになったのである.
グレゴリウスに依れば、他教会の聖職者たちの権利はローマ教会の﹁配慮﹂︵胃。<幕暮芭と﹁権威﹂︵鶏9&奮︶に
よってのみ正当で有効と保証されるのである.そして他教会には、ローマ教会の決定に疑義を呈することは許されな
いのである。以上のごとき﹁・ーマ教会の特権﹂︵冨§Φ讐仁蟹閃§導器①。。諒ぎ︶は、キリストがペテロにのみ与えた
﹁鍵の権力﹂を有する権利から引き出されるものである.勿論、キリスト教世界の中における各教会にもそれぞれが
固有に有する特権は認められている.しかし個々の教会が有する﹁特権﹂︵冨邑①鮫邑は聖なる古代教父の権威に道を
︵8︶
譲るべきなのであり、そして教父の権威ある教義・教説の主要にして究極的な解説者︵①暮。畳&はローマ教皇であ
った。グレゴリウスのこのような理論展開で次に問題となるのは﹁服従﹂︵。げ昏雪蔚︶であろう.
グレゴリウス七世は教皇に対する司教の﹁服従﹂の義務を説くにあたって、旧約聖書・サムエル記一五章二二節
﹁服従は犠牲よりも良い⋮何故なら反抗は悪魔の罪と同じだからである﹂と共にグレゴリウス一世の命題﹁服従の
みが信仰の報いを持つ﹂を引用する.グレゴリウス一世の強調する﹁服従﹂は神の意志に対して自分を徹底的に従わ
せることを意味した.全ての人々は傲慢なる自己の意志を抑圧することによって、神を喜ばすことができるのである.
40
支配原理としての中世ローマ教皇制
あるいはまた、服従のみが借仰から道を踏み外さないための唯一の保証なのであった。つまりグレゴリウス一世の
﹁服従﹂は信仰の論理なのである。
グレゴリウス一世の信仰の論理としての﹁服従﹂理念をグレゴリウス七世は、・iマの首位性の教説に転換した.
﹁服従﹂は今やローマ教皇に対して信徒が有すべき義務、殊に司教ならびに聖職者たちが有すべき、教皇に対する服
︵9︶
従の義務となったのである.・ーマ教皇と彼が座する・ーマ教会のみが信仰の正統性を判定する唯一の機関であり、
この判定に服従することが正しい信仰の歩むべき指針とされたのである.これは或る意味では信仰の論理を含むとは
いうものの、教会制度の中でローマ教皇の指示・命令に服従するという意味で統治の論理に変質していることは否定
できないであろう。
教会論の章で述べたように、グレゴリウス七世の教会論は伝統的見解に沿っている.彼は教会を﹁キリストの身
体﹂︵§2¢Oぼ一昌︶と解した.この﹁身体﹂︵8唇琶すなわち団体は教会の聖職者として任命された者とされない者
から成っている.つまり、これはキリスト教徒によって構成された社会でありそしてそのようなものとして全キリス
ト教徒から成る一つの自律的団体なのである.そしてこのキリスト教徒は﹁・ーマ世界﹂︵零募閃§導琶を形成す
るのである.・ーマ教会によって教示されたキリスト教の諸規律に従って生きる者は・ーマ人であり、そうでないキ
リスト教徒はギリシア人なのである。ここには、次元の異なる内容ではあるが、ローマ帝国のイデオロギー︿﹁キリ
スト教社会﹂は・ーマ帝国を体現する﹀の残響があるといえよう.更にはこの発想の中には、純粋な霊的社会の次元
のみならずこの世の世俗そのものの社会の次元を一つにまとめて、包括的な全体社会の理念があるといえよう.そし
てこの﹁キリスト教社会﹂︵弩算霧。ぼ馨す奏︶はラテソ・キリスト教世界を意味するのであるが、この世界に対して
教皇はペテ・への委任の原理に依って支配権を有するのである.﹁・ーマ世界﹂︵。置の閃§導琶はその縮図である・
ーマの教会によって指導・管理されるのである。何故なら、最高の皇帝たるキリストによって、キリスト教徒全体は
41
法学研究62巻10号(’89:10)
ペテ・の配慮に委ねられていたからである。かくしてこの民は、ペテ・の後継者たる・ーマ教皇の手にあずけられて
おり、そして教皇のみが自から発した布告・教令に対して人々が無条件に服従することを要求する権利を与えられて
いるのである。
︵10︶
キリスト教社会は、官ーマ理念・教皇理念・ペテβへの委託理念の結合物の思想原理によって指導・運営されてい
る社会である故に、ペテロの代理としての教皇がこの社会に対して至高の支配権を行使するのである。グレゴリウス
七世は、自からがキリストの代理であると主張することはないにしても、ペテロの代理として彼が有する職能におい
て、ペテロに委託された権力と能力と同一のものを自ら主張しかつ行使した。彼は、十四世紀の教皇主義者たちが教
皇のために要求した、キリストと同様の権力・能力そしてキリストの代理としての教皇位を要求したのではない。彼
にとっては、教皇位はペテロの代理で十分であった。従来の教会に内在した諸問題は、教皇がペテロの代理としての
権力と能力を行使できなかった故に生じたものであった。彼の理解するところによれば、ペテ・に諸々の王国が譲り
委ねられていたが故に、ペテ・の代理としての彼自身もペテ・と同じ権威を諸々の国々に対して有しているのである.
換言すれぽ、教皇位はペテ・が有していた全ての権威と権力を継続して保有してきたし、保有するのである。
この権威と権力は、全ての人々に教皇に対する無条件の服従を要求するものであると共に、普遍的妥当性を有する
ものである。キリスト教徒およびキリスト教に関わる事項の全てに関して例外なく、教皇に普遍的統治権を授与して
いるのは、前述のペテロに委託された権威と権力である。云うまでもなく、統治の普遍性とは、世界あるいは社会の
或る側面とか或る種の人々に限定して妥当するものではない。グレゴリウスによれば、神はペテ・に全教会の統治権
︵お笹ヨ魯§富Φ8奮一量を与えたのであり.その結果としてペテロの代理としての教皇なるグレゴリウスに普遍的教
会統治権︵琶ぎ髭冴①8一鼠器話のぎ包が授与されているのである.これはいうなれば、キリスト教徒が構成する共
同体の全てに対する統治権ということである.
︵11︶
42
支配原理としての中世ローマ教皇制
右のごとぎ包括的で全体的な統治権をキリスト教社会に対して教皇が有すると考えるならば、グレゴリウス七世は
教皇として世俗権力に対してどのような姿勢・考えを持つことができたであろうか.彼によれば、右の統治原理の論
理的結論としてペテロの代理による王の罷免があり得るのである.更にこの発想の展開するところにより、教皇は彼
の指示の達成に努力しない反抗的な君主に対し﹁霊的・この世的手段﹂︵畳工言毘どのΦ訂器。巨畳び臣卑り巨の︶で訴追す
る資格があるとされる.あるいは、教皇は司教に命じて下臣から暴君と申し立てられた高位貴族を物的・霊的手段で
もって攻撃するよう命ずるのである。そしてこの逆に、教皇は自分の命に服さぬ司教をその司教区から強制的に退去
させるべく高位貴族・公の助力を要請する権利・資格があるのである。あるいはまた、教皇は自分の目からみて邪悪
な行為をなしている王に対してその下臣の伯が非難することかつまた教皇に代わって破門宣告を警告することを正当
化するのである。ここから読みとれることは、グレゴリウス七世は世俗の高位権力者も教会内の高位聖職者も教皇の
定めた命令に従う義務があり、執行する責任があると考えていることである.そしてここには、﹁キリスト教社会﹂
のあらゆる分野において下位者は上位者に服従すべきであるという原理を観ることができる。これこそ・ーマ教皇制
の基本原理なのである。この基本原理に基づき、王権力はローマ教皇の指示・教示に指導されなければならぬという
命題が成立するのである。グレゴリウス七世は、教皇が﹁キリスト教社会﹂の首長としてこの社会構成員一人一人の
︵12︶
行為が神の法廷で裁かれる際に責任を有する故に.全てのキリスト教徒を彼の下臣と呼ぶのである。われわれはここ
に、信仰の法的把握というカトリック主義の特徴の一端を垣間見ることができるといえよう。生前の人間行為が神の
審判・吟味に附されるという教義は信仰の論理である。しかしこの点に関して、教皇が﹁ペテロの代理﹂と﹁つなぎ
解く権﹂を根拠に全ての社会構成員の行為に責任を有するという発想の中には、信仰の制度化あるいは制度そのもの
を信仰の対象とする心的傾向が存在することは明らかであろう。更に、教皇が全キリスト教徒の行為に責任がある故
に、彼らが教皇に対する下臣︵撃藝εとなるという発想の中には、キリスト教社会の中に上下の階層秩序が成立す
43
法学研究62巻10号(’89:10)
る端緒が存在する。秩序の論理と支配の論理の成立である。
グレゴリウス七世は、キリスト教社会内での王の責務をどのように考えていたのであろうか。彼は王の第一の責務
が﹁正義﹂︵冨暮芭の実行・執行でありかつ真の宗教の中に盛り込まれている勧告・戒律の全てを実践することに
あるとみた。・ーマ教会の口を通じて知られることとなったキリスト教的法の正義はキリスト教の信仰を有する王に
よって執行されることが可能なのである。かくして普遍的教会の中心によって解釈・訓示された生活規範を軽視する
者はいかなる者も自分自身をカトリヅク信徒と呼ぶことはできないのである.以上の論理的帰結として、官ーマ教会
への信従がキリスト教徒なかんずくキリスト教的君公たちの識別票となるのである.・ーマ教会の諸命令への信従は
無条件であるべぎである.この命令に反する者は前代未聞の傲慢さを自から暴露するのであり、そしてその結果、統
治権力を行使する権利を失うのである。君公の場合、不服従は罷免へとつながっていく.
右のごとき見解・思想命題が成立し、提示され、受け入れられるのはキリスト教社会においてのみである.この社
会は、単なる民族的要素とか言語的要素によって一つにまとまっているのではなくいわんやむき出しの力によってで
もない。この社会は、その基礎がキリスト教信仰という霊的要素によって形成されているような社会なのである.そ
れ故、右のごとき見解・思想命題を理解すべき大前提はこの霊的要素である.この前提の下でのみ王の機能は理解可
能なのである。そしてこの前提の下では、王の権力は物理的・物的権力の行使にのみ関わる故に、自主的な君主ある
いは絶対者ではあり得ないのである。王の権力はその有すべき意義ならびに目的と有機的につらなる機能をキリスト
教社会の基礎との関わりにおいてのみ引き出すことができるのである.この意味において、王の権力は自律的ではな
い。それは、﹁キリスト教社会﹂の目標と目的との関係において考察され、評価さるべきものなのである.この目標
と目的とは、前述のごとくこの社会の基礎がキリスト教信仰、グレゴリウス七世自身の言葉でいうところの﹁真の宗
教﹂︵bξ即邑芭。︶である故に、この信仰教義である.これのみが王権力に対する指導原理なのであり、王権力の機能
44
支配原理としての中世ローマ教皇制
をわれわれに理解せしめる判断基準なのである。
︵13︶
﹁キリスト教社会﹂の中における王はキリスト教徒であるべきであり、そのような者としてローマ教会が発した諸々
の教会・命令に従うのである.王の特別な義務は自分自身が﹁正義忠愛者﹂︵聾§こ毎葺奮︶であることを示すこと
である。﹁キリスト教社会﹂の中での真の王権力は諸々の王の中の王であるキリストに忠節を誓うことによってそし
て次にローマ教会の教令・命令を受容することによって成り立ち得るのである.かくして﹁正義忠愛者﹂としての王
の機能は悪の抑圧であるが、しかし何が悪であるかないかを確定することは王には委ねられていない.それを為すの
は、﹁キリスト教社会﹂の中では教会内の聖職者に叙任された者たちである。聖職者のみがこの社会の指導機関とし
て機能することを資格づけられているのである。彼らのみが﹁正義規範﹂を規定する資格を有し、これに基づいて社
会を指導することが資格づけられているのである.このように社会の進むべき目標と人々が遵守すべき倫理規範の
確定・教示・指導の役割りが専ら聖職者に委ねられている一方で、王は﹁正義忠愛者﹂であることにより、この目標
と規範を実践するための手段として機能することが託されているのである.それ故に、ある人物が王の職責にとって
適切であるかどうかの問題はキリスト教社会の指導機関すなわち・iマ教皇を首長とする聖職者集団にとっては極め
て重大な関心事となるのである。すなわち、王の有益性︵昌馨器︶である.そしてこれは、﹁キリスト教社会﹂の本質と
実質的内容に照らしてのみ確立することが可能な判断基準なのである。当然のことながら、右の本質と実質的内容を
正しく理解し判断できるのは聖職者集団なかんずくローマ教皇である故に、王の適格性と﹁キリスト教社会﹂にとっ
ての有益性を判定するのは聖職者なかんずく・ーマ教皇ということになる。ここに、・ーマ教皇が世俗政治の領域に
関心を払い、介入する権利を有することが正当化されることとなった.勿論、宗教領域の担当者すなわち聖職者が実
際政治を直接担当するということはなかったのであるが、それにもかかわらず、以後の中世期全体を通じてローマ教
皇を始めとする聖職者集団は政治事項に積極的に関心を払い、接触したのである.その動機が単なるこの世的利益の
45
法学研究62巻10号(’89:10)
追求ではなく︵それもあったであろうが︶自己の信仰と価値観に基づいて正しいと主観的に判断した結果としての、
政治への参加であった。
グレゴリウス七世云うところの﹁キリスト教社会﹂内での王の﹁有益性﹂・﹁適格性﹂︵登年琶の解釈・定義は幅
の広いものである.彼は、﹁物質と精神﹂、﹁肉体と霊魂﹂、﹁この世とあの世﹂の二元論を用いつつ、一方で王の位置
を﹁物質﹂、﹁肉体﹂、﹁この世﹂に対応させ、他方で﹁精神﹂、﹁霊魂﹂、﹁あの世﹂を教皇位に対応させつつ、王の教皇
への従属を主張するのである。ローマ教会への無条件の服従を基に行動するキリスト教信仰者の王は﹁有益﹂﹁適格﹂
である︵昌冴︶との評価に値する王である.そしてこのように行動しない王は、無用・不適格の烙印を押されるので
ある。﹁この世的事項﹂が﹁あの世的事項﹂としての目的のための手段であるのと同様に、王は目的に対する手段と
してキリスト教社会内で機能する.この社会内での各構成部分はこの社会の目的と実体に志向し・組み込まれている
時に、有益・適格とされるのである.﹁キリスト教社会﹂に対する有用性・適格性こそがキリスト教的王とそうでな
い者との識別票なのであり、前者は﹁正義﹂の諸原理を受け容れることにより自から有用・適格であることを実証す
るのである。グレゴリウス七世によると、王の機能・責務は普遍的教会の防衛と保護である。この機能・責務を達成
する者は全体すなわち・ーマ教会にとって有益・適格なのであり、それを達成しない者は無益・不適格でありそして
王としての地位を失うのである。
グレゴリウス七世は一〇七六年の秋、ドイッ王・ローマ皇帝であるハインリッヒ四世を罷免宣告した.この罷免の
根拠はこれまでに述べられた内容で明らかであろう。グレゴリウスの主張においては、選出されたドイッ王が﹁キリ
スト教社会﹂の中で適格にして有益な王であるかどうかを判定する立場にあるのは教皇のみなのである.そしてこの
主張の背後には、王の選挙そのものを吟味する権利が教皇にはあるということでもある。ヨー・ッパの人々がグレゴ
リウス七世いうところの﹁キリスト教社会﹂を承認してその中で生き続けた間、あるいはまた人々が﹁ローマ教会﹂
46
支配原理としての中世ローマ教皇制
の包括性と全体性を受容してその中で生き続けた間、人々はローマ教皇が政治間題を指導・監督する権利のみならず
義務と責任を有するという命題を承認せざるを得なかったのである.
これまで述べられた事柄を念頭におきつつ、グレゴリウス七世が改革途上で唱え続けた﹁教会の自由﹂︵喜⑩昌器
①8一①器①︶に触れて本章を終ろう.ここで云われている﹁教会﹂は普遍的教会を意味するのではなく、普遍的教会を維
持・管理する聖職者階級︵留8匡。蓼置︶に狭義に限定されているのである.本章の冒頭で触れたように、当時の改革者
たちからすれば、教会堕落の根源は世俗支配者による聖職者の任命と教会問題に対する介入であった。換言すれば、
聖職者は世俗支配者に隷従していたわけである.教会改革を熱望する老の目からすれば、教会改革とはこの隷従から
聖職者を解放することであり、次に上位聖職者が適格者をそれぞれの聖職位に任命する制度と規準を確立することで
あった.これが即ち﹁教会の自由﹂の追求であった。ここでわれわれが注目したいのは、第一に、聖職者の隷従から
の解放を契機として、聖職者が一つの結合した団体、それも自律的で自首的︵首長を自分たち自身で選出することが
可能な状態︶、成員となるには特定の訓練を得て特定の手続きを経た後にのみなることが許され、団体形成の原理は
自己内で調達が可能でありそして団体維持の規則は自己内で立法が可能であるような団体とみなされるようになった
ことである。第二は、右の結果として、聖職者階級はキリスト教社会の中における宗教的機能・責務を独占し、世俗
支配者がそれを担うことを認めずかつ彼らが権力維持のために自ら宗教的権威になることを峻拒したのである。つま
り従来から皇帝に認められていた﹁王にして祭司﹂︵切霞留8巳琶の理念の否定であった。教会と聖職者階級は自か
らが政治化することとなっても、世俗政治が宗教化することは許容しなかったわけである.ここにヨー・ッパ社会の
構成原理が根底から変化したのをわれわれは見るのである.このグレゴリウス改革で創出され定着し始めた要素が、
十三・四世紀のヨーロッパ・キリスト教社会を決定していくのである.
︵1︶ グレゴリウス改革に関する文献としては以下を参照。パコー著﹁テオクラシi﹂︵創文社・昭和六〇年︶・七五頁ー一七〇
47
法学研究62巻10号(’89:10)
頁。フリッシュ著﹁叙任権闘争﹂︵創文社・昭和四七年︶・一章∼五章.野口著﹁クレゴリウス改革の研究﹂︵創文社・昭和五
三年︶.
︵3︶Hω.図。三霧。三﹄ミ討ミ帖&§&寒。。慧§。Qき鯨ぎ§竃。。識ミま9§婁−浮①b。一①且8=ぎ吋即暮おo囲夢Φ藝Φ①一⑦︿①づ夢
︵2︶Oぼ響。嘗零卑。。ざ一的ミ。窯き導恥q§肺蓉執ミ&§卜§︵一。長巨導し。c。刈︶●bる㎝一。
8ロ嘗藁ー︵竃き畠Φ9巽d巳<①窃一蔓℃器聲一鶏o。︶●b●這●
︵4︶ &&。§。箸。o。㎝一ーω認●
︵5︶き&§●サ旨。
︵6︶き&§’層旨.
︵7︶&&§。℃●一〇。
︵9︶&&§.箸●b㌣8●
︵8︶ &&恥蓉サ曽●
︵n︶ &&鳴§●b●卜oミ。
︵10︶≦巴げ霞9ぎ費9“﹃ぎQさ§誉。、、§ミQ。ミ§§§ミs導恥ミ幾§﹄§︵家9言窪節09いε一〇①。︶。b﹄ミ●
。ド
︵2
1︶ &&恥§。b●No
︵3
1︶ き&Q§■マNo。㎝●
五章 おわりにー後代への展開
本稿のこれまでにおいて、ローマ教皇の権威と権力を正当化し理論化する幾つかの原理が明らかにされたと思う。
それらは、聖書の記述においては信仰の論理として胚胎していたものであったが、やがて制度の論理、殊に法的論理
へと転換され発展していったのである.それらの原理は、中世・ーマ教皇の権威と権力、それも・ーマ教会内におけ
る最高の権威と権力を示すものとしての﹁至高権﹂︵勾①暮&。℃9①器冴︶という法的原理に結晶していったのである。
十二世紀半ば以後、教皇制は発展するにつれて殊の外、法的かつ統治的制度としての特色を帯びてきた.全ヨーロ
48
支配原理としての中世ローマ教皇制
ッパの人々に及ぶ法律を立法し、それを犯す者を裁判する制度となり、そして間接的な形式とはいえ聖職者を監督し
そして聖職者を通して人々を管理・統合する制度となり始めたのである。換言すれば、立法・司法.行政を具備した
制度として成長し始めたのである.しかも教皇制は、この道をたどりつつかつまたグレゴリウス改革で得た教会刷新
のための教皇の主導権を確立しつつ、・ーマ教会内の中央集権化政策をとった.この際に執られた手段が・ーマ教皇
の裁治権︵﹂ξ芭算巨︶の拡大であり、それを支えた原理が﹁至高権﹂だったのである.1ただしここでわれわれが
注意しなければならぬのは、中世・ーマ教会が矛盾の総合と云われる位に、多種多様な思想的・信仰的要素が混在し
教会の信仰共同体としての思想と運動が伸展し定着していったのであり、あるいは又、教皇に権力を集中させようと
ていたことである.例えば、教皇制が︵ひいては教会制度が︶法的かつ統治的制度として伸展していった一方では、
へー︶
︵2︶
いう気運が高まった一方では、公会議主義︵○自亀苺一馨︶という意思決定における合議制あるいは立憲制とでもいう
べき思想が伸展していったのである。ー
われわれは、・ーマ教皇の権威と権力の正当化原理が法的原理に変換されていったことに注目したいと思う。それ
はつまり、ローマ教皇の首位性︵汐一鼠冨げ琶が至高権︵国Φ三葺3b。諺§芭に成長していったことである.云うま
でもなく、権力と権威の正当化原理は洋の古今東西において多種多様であり、それ故にこそ中世・ーマ教会において
その正当化原理が﹁法﹂的原理として形成されていったことに、学問的関心がそそられるのである.
至高権︵=①葺且。ぎ奮§一ω︶に関して、政治学者は近代国家の主権理念の先駆的形態をここにみるであろう。中世
政治・法思想研究者はここに、政治と宗教が未分離の歴史段階にあって法的原理が正当化原理として機能した点に合
理的性格を見出すであろう。そして又、精神史・宗教史の専門家はここに中世・ーマ・カトリシズムにおける信仰の
法的特徴を見出すであろう.以上の観点を踏まえつつ、筆者は次に至高権の研究に移るであろう。
︵1︶ 図。国導ε8毒一。且因き喚.。。﹃ミ。切&誤︵帽二琴98d乞<Φ窃一ぐ牢$9一〇鶏︶,醤。。豊§
49
法学研究62巻10号(’89=10)
︵2︶ 公会議主義に関する政治思想史的研究については以下参照。中爵Φ旨。ざき§包ミざ器&械ぎq§。ミミ§S遷︵9目匿辞Φ
d巳<Φ邑蔓零①のω080。︶ゆ亀ω。一寒書ざ斧寓§§9↓ミ♀。§ぴ。、q。ま§§画。蓉へ§。εミ一まO−一臼O︵9旨ぴ旨。R¢三<Φ透蔓
。N︶ス邦訳﹁立憲思想ー始源と展開 一一五〇ー一六五〇﹂・慶懸通信︶.なお日本語文献の比較的新しく信頼できる
ギ霧。。﹂。o
ものとしては以下参照.。矢吹久﹁公会議主義の展開ーその政治思想史的考察1﹂︵慶鷹義塾大学大学院法学研究科論文集第
一九号︶。
筆者は一九八七年九月より一年間、慶鷹義塾より一年間の研究休暇の機会を、そして英国文化振興会︵㌢三昌○。§亀︶か
感謝の意を表したい。
らスカラーシップをいただき、ケンブリッジ大学で過ごすことができた.本稿はその成果の一部であり、ここに前記二団体に
一九八九年五月五日
50
Fly UP